意外な人たちを迎える
その日も、ただ日が暮れるのを眺めていた。
いつもと違ったのは、土手の脇、少し空き地になった所に黒い軽自動車が停まったことだった。
運転席から女性が降りてきた。すぐに誰だか分かった。
ミナミが来てくれたのだ。
俺の妻は、以前来てくれた日からほとんど変わらないように見えた。
ただ、少し痩せたのか? いや、皺が増えた? そうでもないかな。髪を染めたのか。茶髪は似合わないな。
しかし、以前ここで見た時のようなうつろな表情ではなかった。ミナミの目は俺と暮らしていた時と同じように、瞳に映る一つひとつのものをじっと見据えるような力強さに満ちていた。
不思議なことに気づいた。ミナミを見つめていたら、心の奥底で何かが湧きあがってきたのだ。
これは……すっかり薄まって消えようとしていた感情が戻ってきたのか?
俺がまじまじとミナミを見ていると、彼女が乗ってきた車の助手席のドアが開いた。
降りてきたのは、若い男だ。死んだ俺が嫉妬してどうなるわけでもないが、ミナミはどうしてこの場に男と一緒に? そう思った時に、隣ではっと息をのむ音が聞こえた。
「タケちゃんだ」
アユムが珍しく動揺して答えた。
「シキシマタケハルくんだよ。ほら、僕と一緒に川に落ちた子」
あっ、と叫んで俺はもう一度よく彼を見る。
しかし元より分かるわけがない。なにしろ、助けた時は川の中だったし、もう何年も昔のことで顔つきも変わっているのだから。
立派な青年となったタケハルに、ミナミが話しかける。
「……大学は結局、国立にするんだね」
「はい、とりあえず四年間はみっちり勉強しようかなと……高校でだらけてしまったし」
はははとタケハルは明るく笑った。その目はひたむきに川面に向けられていた。
「高卒でも隊員にはなれるんでしょ? まだ勉強するのね」
「救命救急士の資格を取りたいんです。でも、もっと色んなことを学びたくなって……専門学校でも資格だけならば取れるんですが、アユムの母さんに言われたことがあって」
タケハルがそう言った瞬間、俺は久しぶりに他人の記憶をとらえた。
四〇代くらいの優しい笑顔の女性が見える。おそらくアユムの母親だ。隣のアユムも同じものを見たらしく、ごくりと唾を呑んだ音がした。
――タケちゃん。専門学校に行って早く水難救助隊に入りたいって気持ちは、あの子の母親として、とっても嬉しい。でも、いつまでもうちのアユムに負い目を抱いたりしないで。タケちゃん若いんだし、もっともっと色んなものを見たり聞いたりした方がいいよ。大学に行って、よく考えてごらん。
細かな言い回し、抑揚、息つぎまで、タケハルは記憶していた。よほどアユムの母親の事を気にかけているようだった。
――アユムだってきっと、大学に行ってって思っているわ。天国から、タケちゃんの受験も応援しているはずよ。
タケハルの肩に優しくかけられたその手の感触まで、俺に、そしてアユムにも伝わってきた気がした。
「おかあさん……」
アユムが耐えかねたように大きく吐息をもらす。
対岸を駆け抜ける小学生たちを見ながら、タケハルは言った。
「あのとき、アユムと俺は菜園から帰るところでした。俺は、靴が泥だらけだから川辺に入ってきれいにしようって誘ったんです。あいつは乗り気じゃありませんでした。俺が川岸の柵を越えた時も『駄目だよ、怒られるよ』って何度も言って、それでもついて来たんです」
タケハルは考えながら、次の言葉をさがしている。この話を人にするのは、初めてのようだった。
「雨上がりだったんです。靴を地面の草にこすりつけて拭いていたら、俺は滑ってしまって、岸の坂を転げ落ちて……そのとき、俺のパーカーのフードをアユムが掴んだんです、とっさに。『タケちゃんあぶない!』って言って。でも、二人とも川に落ちてしまって……」
「そういう事もあるのよ」
少し間をおいてから、ミナミが答える。
「……でも、俺のせいで、神埼さんのダンナさんまで」
「誰のせいでもない、そういう事もある、それだけ」
「でも」
「ねえ、タケハルくん」ミナミの笑顔が、夕焼けの色に染まっていた。
「私も最初は、どうして……何でうちのダンナが? って、ずっとそう思ってたわ。アナタやアユムくんを恨んだりもした。でもね、誰が悪いことをしたわけでもない。タケハルくんが靴をきれいにしてから帰りたかったのは、お母さんに洗ってもらうのが申し訳ないと思ったからなんでしょ? 誰もがみな、そこですべきことをしようと努力して、その結果たまたま悪い方に転がっただけなのよ。恨んでも後悔しても、何もいい方には進まないよね。じゃあどうすればいいか。私もこの歳になってようやく分かった。つまり、あの人があの日何をなそうとしたか、その思いをちゃんと受け止めて、次の人に繋いでいきたって思うのよ。もちろん、タケハルくんの将来はタケハルくんが決めるものだけど、アナタが救助のお仕事を目指しているって話を聞いて、どうしても伝えたかったの」
「……そうなんですか」
タケハルもようやく、明るい顔になった。
「今日こうして誘って頂いて……本当に嬉しいです」
「それにね、ちょうど今朝、不思議なことがあって……思い切って行ってみようって思ってたの。一緒に来てくれて、私も嬉しかったわ」
「俺、いい時に伺ったんですね。いつも辛いこと思い出させて、申し訳ないなって気分になっていたんです」
「ううん、アナタが来てくれるたびに、何かがまだ生きているという気がするのよ」
「俺、やっぱり三人分生きなきゃな……」
「それはダメ」
ミナミの顔は真剣だった。
「コウスケとアユムくんの分も、ってことでしょ。それは駄目よ。アナタの道を生きなさい」
「……そうすべき、なのでしょうか」
「そうよ」
ミナミは、励ますようにタケハルの肩を小突く。
「私も私の道を生きるから」
そう言ってから彼女はそっと両手を合わせた。
タケハルも、目をつぶり川面に黙祷を捧げ、しばし静かな時が流れた。




