さよならは言わずに寄り添う
それからもさらに、時だけは過ぎ去っていった。
オバサンはすっかりオバアサンになってしまった。もっとも、オバアサンになっても俺たちの間ではオバサンはオバサンだったが。
老いたオバサンは外出もままならないようで、時々デイサービスの車が迎えに来ては、車椅子の彼女を運んでいた。オバサンは外に出るたびに、こちらにちらっと目を走らせ、それでも黙って介助員の操る車いすに体を預けていた。
ある日、デイサービスの車に乗り込む直前、女性介助員がふとオバサンの乗る車椅子にかがみこんだ。何か話をしているようだった。しばらくその姿勢でいたと思ったら、なぜか、車椅子を押して細い車道を渡り、俺たちの佇む土手沿いにやってきた。
「このへんですか? タチバナさん」
介助員は優しいけれども、どこか急かすような口調で車椅子の老女に問いかける。
俺たちがオバサンを間近で見るのはずいぶん久しぶりだった。
彼女の目は、途方にくれたようにあたりを見回している。ようやく、深く茂った草の陰に目当てのものを見つけたらしく、震える手で指さした。
「あれを……」
秋の風が鳴るよりもかすかな響きに、俺もつい近寄って耳をそばだてた。
介助員の女性はオバサンに何度も訊き直してから、草むらに屈んだ。そうして、立ち上がった彼女が拾い上げて車椅子に向けて見せたものは、あの牛乳瓶だった。乾いてこびりついた緑色の苔は、最後にオバサンが掃除していてくれた時から経過した月日の長さを物語っている。
「これですか? 捨てるんですか?」
車椅子の上で、どこも見ていない眼でオバアサンは囁いた。
「もう……アタシは世話できないからね。帰ってこられないかもしれないし」
「なーに仰ってるんですか、夕方にはまた帰ってくるでしょ?」
介助員はからからと笑ってまた車椅子を押していった。
「今日はお団子作りしますよ、みんなで」
声が遠くなっていく。
夕方になっても、オバサンは帰ってこなかった。そして、それからずっと。
最後の去り際も彼女らしくて好きだな、と俺は少しだけ思った。
アユムの体はさらに透けてほとんど見えなくなっていた。そして、俺の体も。
触れれば感触はあるのだろう。しかし、確かめようという気は起こらなかった。
存在が希薄になればなるほど、活力も失われていく。
希薄になっていくのが怖い、という気持ちすら薄れてきているような感じだった。
すでに俺たちの間にはほとんど会話もなくなっていた。




