記憶を垣間見る
それからさらに月日が流れていった。
気がつくと、この状況にすっかり馴染んでいる自分がいた。俺は相変わらず川面を眺めていた。
隣のアユムも小学一年生の姿のまま、付近数メートルの範囲で何をするでもなく過ごしていた。向かいのオバサンウォッチングは続いていた。
当のオバサンは、胆石だか何かで入院したらしい。帰ってきた彼女の頭には、少し白髪が増えたようだった。
オバサンは、土手の牛乳瓶の掃除をまた始めてくれた。
さすがにもう、新しい花を持ってくる人間はいなかった。それでもオバサンは数日に一度は必ず、瓶をきれいにゆすいでまた元に戻した。自分の庭にも色々花はあるのに、一度もそこから摘んできたことはない。そこがまた彼女らしくて、俺はなんだか好きだった。
初夏のある日、かがみこんだオバサンのつむじを見ながら、俺はすぐ傍らにしゃがみこんだ。
すると、セピア色をした川辺の風景がまたみえた。
いつかと同じように、オバサンの思い出を拾い上げたようだ。
その景色の中で、若々しい男の声が響く。
「イツキ、どうだ? 川沿いの一戸建てだぞ。新藤のじいさんが、息子家族と暮らすことにしたからって安く売ってくれたんだよ。オレ、バリバリ働いて借金返すからここで頑張ろうな、二人で」
見上げるような角度で、たくましい男の姿があった。
「まだ小っさい家で、ごめんな」
その視線が目の前の川に移る。滔々と流れている水は飴色の光にきらきらと輝いていた。
これからの暮らしに思いを馳せた、若い頃のオバサンの心象が映し出されているのだろうか。まだ張りのある、でも聞き覚えのある声が答える。
「一国一城の主だね、アンタも」
その言葉に脇の男がうんうんとうなずく。
「だよな」
「この川がまたいいよ。川はいつも流れて、毎日表情を変えていくからね。いつまでもここにいたいよ」
「だろ? オマエは本当に川が好きだな」
男の腕が若いオバサンの腰に回ったその力強さ、温かさが彼女の周りを包んでいた。
俺は瓶の周りの草むしりをしている今の彼女を見おろしながら、ぼんやりとその記憶の温かさを感じていた。
オバサンの夫の今の姿を、俺もアユムも見かけたことがない。オバサンにとってこの川は、亡き夫と幸福に過ごした場所だからこそ、ここで死んでしまった俺たちのことを哀れに思っているのだろうか。
俺はオバサンにそっと顔を寄せて囁いた。
「いつも、ありがとう」
びくっと彼女の肩が揺れた。
「なんか、風がぬるくていやだねえ。雨かしらん」
オバサンはブツクサつぶやきながら帰っていった。
オバサンが家に入ったことを見届けると、アユムが久しぶりに話しかけてきた。
「ねえコウスケさん、気づいてる?」
「何に?」
「僕たちさ――」アユムは自分の両手を前にかざし、いつもの淡々とした口調で言った。
「――僕たち、薄くなってきてるよね」
はっとして俺はアユムに向き直った。アユムの向こう側に、いつもより黒々と柳の木が枝を揺らしているのがみえた。そのさらに向こうの川面には、ぽつり、ぽつりと雨の輪が現れては消え、それがだんだんと重なっていった。
何かがきっかけで、薄まり始めたのだろうか。それとも、ここに「在る」ようになってから徐々に薄まり続けていたのだろうか。
哀しくは無かったが、何かもう少し、できることはなかったのかという焦りの気持ちが、小さなの棘のように俺の心にひっかかった。
それからは、日々薄まっていくのが自分でも分かった。
俺は、ぱんぱんと両頬を叩いては「よし今度こそ本気」と喝を入れて、また走り出してみたり、飛び上がってみたり、ミナミの名を叫んでみたりした。
しかし、どれも空しい努力だった。俺は地団駄を踏む。その地団駄さえ、小石ひとつ動かさない。奥歯をぎりぎりと噛み合わせる。
「死んだら……死んじまったら何もできないのかよ!」
そしてまた、声を限りに叫ぶ。
「ミーナアァァ、ミイィィィィ!」
アユムは聞いているのかいないのか、何も言わずにいつも草を掴むフリをしたり川を見渡していたり、淡々とその場で時を過ごしていた。




