オバサンを観察する
その翌日、小さな花を持って年配の夫婦がやって来た。アユムは、自分の家のご近所さんだという。その人たちは、水を入れた牛乳瓶に淡い桃色のスイートピーを挿し、黙って手を合わせた。
その後に来たのは、アユムのおばと従兄弟だった。中学生くらいの従兄弟のほうがポケットからチョコレートの駄菓子を出して、そっと草の上に置いた。
「ねえお母さん、包み紙は取った方がいいのかな」
傍らで手を合わせていた母親が「そうね」というのに素直にうなずき、またかがみこんで包みを破り、中のチョコ菓子だけを草の上に戻した。
「キオ兄、こないだぼくのお菓子食べちゃったんだ」
アユムがその従兄弟――キオ兄の傍らに寄り添った。
「同じやつを二つ返してくれる、って言ったのにな」
アユムはその供え物を掴もうとしたが、やはり指はすり抜けてしまった。
葬式が済んで数日経ってから、俺の母と妻もようやくやってきた。
それまで来なかったのは、息子や夫が死んだばかりの現場に近づくのがつらかったためだろう、二人ともまともに見ていられないような表情だった。母親は泣き腫らした眼をしていたし、妻のミナミに至っては車からは出てきたものの、そのまま車の脇に張り付くように、立ち尽くしているだけだった。俺が近づくには、少しばかり距離が開き過ぎている。
ミナミは気丈にも唇を引き結んでいたが、うつろな目をしてぼおっと遠くをみている姿は哀れを催した。
そばに行きたい。
(ミナミ、俺はもう何も苦しくない。ただお前が笑ってくれないことだけが辛い)
そう言って肩を抱いてやりたい。
触れることができないのは重々承知だ。それでも傍に寄り添ってやりたい。
でも、いくらがんばっても俺は思いすら伝えられない。呆然としている妻、そして、涙を流す母親の悲しみを、俺はただ浴びせられるだけなのだ。……ならばいっそのこと、彼女たちには近づかないでくれたほうがありがたい。しかし――。
胸が引き裂かれそうだった。
アユムの方も同じ思いを抱いたのだろう。だんだんと、彼に花や供え物を手向ける人びとのそばには寄りつかなくなっていた。散歩ついでに興味本位で覗きにくる連中にも近寄らなくなった。彼らの心を覗いても、画一的な「かわいそうに」と「運が悪かったな」と「学校が悪い」という声しか聞こえてこなかったからだ。
そんなアユムが唯一反応するのが、事故現場すぐ向かいの家に住んでいるオバサンだった。
事故当日、最初に一一九に電話を入れて救急車を呼んでくれたのが彼女で、事故現場にも足しげく通ってくれていた。しかし、それはしんみりした事情からではなかった。
オバサンは、訪れる人たちが置いていった供え物を見ては「ちっ」と軽く舌打ちし、嫌そうにつまんで持参したビニール袋に押し込む。
「……ゴミ捨て場と一緒じゃないのさ、これじゃ」
オバサンのグチがたまらなく面白い、とアユムは『向かいのオバサンウォッチング』をしているのだった。「こんな所で二人も死なれちゃ、メイワクなんだよね」と吐き捨てた時には、大笑いをしていた。自分の死をそんなふうに言われてよく笑えるもんだ。俺は眉をひそめたが、ふとオバサンから零れ落ちた煌めきに眼をとめた。
セピア色の川の風景。コンクリート舗装の道が見えず、一面草に覆われていることから、今よりずっと昔のようだ。オバサンがここに住み始めた頃の光景らしい、のどかな川の姿が断片になって垣間見えた。
その映像は、すぐに日常の風景にかき消えた。にもかかわらず俺はそのセピア色に目を焼かれたようにたじろいだ。
きっとこの人にとって、ここは住処なのだ。オバサンはずっとこの場で、事故が起きた事実を背負って生きねばならないんだ。「メイワク」と言っていることばの裏には、悪意や無関心からではない、何か深い思いがあるのではないのだろうか。
俺は、オバサンが間に合わせの花瓶から腐った水を捨て、神経質そうに中を何度もゆすいでからまた元の位置に据え付ける様子を黙って見守っていた。
何日も何日も、通りすがりの人たちを観察して過ごした。いつまでこうしていればよいのだろう。
俺は、がばっと立ちあがって、ぱんぱんと頬を両方の手で叩いてから、えいっと外に向かい走ってみた。「ミナミーーーー」と、妻の名を大声で叫びながら。
しかし、ほんの数メートルで急に足がずんと重くなり、そこから前には進めない。まるで粘度の高い泥沼にはまり込んでしまったようだった。
声も、近くを通りかかる人びとの耳には全く届いていないようだった。
何度やってみてもそんなことを繰り返しで、そのたびに、アユムだけがちょっとだけ上目遣いにこちらをみて、またどこかに目を戻すのだった。




