石をつかもうとしてみる
翌朝も、俺と少年は土手にいた。
時間の感覚がおかしくなっている。一秒も、一分も、一時間も、一日も、経ってしまえば同じ長さだった。暇だとか退屈だという思いすら浮かばない。
「おじさん」
少年にまたおじさん呼ばわりをされ、俺はムッとして答えた。
「俺はまだ二〇代だ。お兄さんと呼べ」
「おじさん、名前は?」
俺はあきらめて答える。
「カンザキだ」
「下の名前は?」
「コウスケ」
ふと、実家の母親がこの名前を呼ぶ声を思い出して胸が痛くなった。
(きっと、昨日は泣きながら呼んでいたんだろうな)
道端にしゃがみ込む。
妻のミナミには、まだシステムエンジニアをやっていると嘘をついていた。
前の会社をリストラされてから二年。俺は、誰も働きたがらないような会社を転々としていた。もうすぐ三〇になるというのに。
着て行く服も、スーツが多くなったり、クツが擦り減ったりしているから、いつかはバレると思っていた。しかし、元々のんびり屋なせいか、ミナミは全く気づいていないようだった。
給与明細は自分で管理していた。ミナミは振込額で給料に触れていただけだった。ボーナス期には判明してしまうかとビクビクしていたが、これでもう心配する必要は無くなったわけだ。
どうしてこんな遠方の川でおぼれたのか、最初は不思議に思うだろうな。でももう何も説明はできない。
母親の涙にも参るが、ミナミを泣かせるのが辛い。
結婚して五年、子どももできずいつまでも新婚気分でいられた。でもそろそろ……ミナミの目がよくそんなシグナルを発していた。その度に、俺は家庭に縛られるような感覚が強まるのを恐れて、ずっと先延ばしにしていたのだ。
(……本当に俺、何も残さずに死んじまったんだな)
泣きたいのに涙すら出ない。そもそもこの体は、泣いたりできるのだろうか。
足もとをみると、体が微妙に道路から浮いている。周りにある物を掴もうとしても手からすり抜けてしまう。
これは肉体が無いからなのだろうか。意識だけが残ってしまったのだろうか。
「なあ少年」
「マキノ・アユム」
少年が顔を上げて答えた。
「なあアユム」
「なに? コウスケさん」
年上の俺を下の名前で呼ぶのびかよ、と俺は軽く毒づいた。
名札には、一年生と書いてある。年度がもうすぐ変わるので、じきに二年生になる――いや、なる予定だったのだろう。
それにしてもこのアユムという少年は落ちついている。あの時は必死に自分にしがみついていた癖に。もっとも、泣き喚かれるよりは気が楽だったが。
「俺、一度家に帰ろうかと思う」
へえ、と答えるアユムの目は冷めていた。
「それはね、できないみたい」
「え?」
何度目かの『小石掴み』に挑戦していた俺は、その手を止めてアユムに顔を向けた。
「ぼくも何度かやってみた。でも、ここからは動けないんだ」
アユムは鈍く光る水面に目を落とし、つぶやくようにそう言った。
いたずらに数日が経過した。といっても、俺にはやはり時間の感覚が無かった。
緩やかな風に乗って、小学校の方から桜の花びらが舞い落ちる中、ぼんやりとここ数日の出来事を思い返す。
事故直後は、警察や消防、市や学校の関係者がしばしば現場に立ち寄った。互いに眉をひそめて、あるいは無表情に、土手や川の中を身振り手振りで指しながら、状況確認をしたり、見解を話し合ったりしていた。
アユムが言った通り、俺たちが動けるのはほんの一〇メートルの範囲内だったが、すぐ近くまで来てもらえれば、彼らの話はよく聞くことができる。
そして不思議なことに、彼らの心の中までも聞くことができた。
最初はそれに気づかず、口に出ている言葉かと思っていたのだが、小学校教頭の
『新人の事務員、ケツでけえよな』
という声が聞こえた時に気がついたのだった。
「……ったく、どうしてこのタイミングで、そんなろくでもないことを思い出すんだ」
ぶつぶつ言いながら、俺は教頭に近づこうとしていたアユムの肩に手をかけて引き留めた。どうやら、俺とこの少年とは互いに接触できるらしい。アユムの小さな肩は手にすっぽり収まり、ほのかに温かく感じられた。一方、アユムが伸ばした腕は、教頭の体から突き抜けてしまった。
教頭にアユムの手の感覚が伝わった様子はなく、けろりとした顔で川向こうにある校舎に帰っていく。さっきの俺のぼやきも聞こえているふうがなかった。
生きている人間に対しては、俺たちがどんな働きかけをしても素通りしてしまうらしい。
アユムはこのことを特に気にする風もなく、今度はしゃがみこんで草むしりのまねごとをはじめた。
「アユム。お前、そんなことをして何が楽しいんだ?」
呆れ気味に言うと、「コウスケさんだって、よく石をつかもうとしているよ。楽しいの?」と、同じような口調でアユムに言い返されてしまった。
俺はため息をついて、川岸をぼんやりと見渡した。




