事実に気づく
ねえ、と呼びかけられて俺は目を覚ました。
「おじさん」
目の前に、小柄な少年が立っている。長袖のトレーナーにジーンズの長ズボン、そして運動靴。
「起きてよ、おじさん」
胸や喉が痛い。頭もガンガンする。泥のような生臭さが鼻についていたが、俺はなんとか立ち上がった。
自分の体を確認する。
服装はスーツのままだが、上着と靴は脱いでいた。だんだんと記憶がつながってくる。
近所を戸別訪問中だった。
怪しい訪問販売員、それが俺だ。
この地区を一日回ってカモは一軒のみ。お年寄りだった。何を買わせられようとしているのか、ほとんど理解していない優しい目だった。俺はその人のハンコをもらって、一〇〇万円の売上は確実となった。
それで十分、とりあえず今週は首がつながった。会社は来月も契約更新してくれるだろう。ブラックな会社でも居られるだけマシだ。
……それはともかく、この子供はどこから現れたんだ?
起き上がって気づいた。いつの間にか、川から上がっていたことに。
そうか、と改めて少年を見る。
営業から帰る途中、土手から向こう岸を眺めると、土手の張り出したところにくっつくように学校菜園が見えた。そこから出てきたのは二人の児童らしき少年。学校に戻るところのようだった。
特に気にも留めず通り過ぎた時、鋭い悲鳴と水音が耳に飛び込んで、俺はふり向いた。
激しい水しぶき。その子らが川に落ちたと気づき、すぐさま上着と靴を脱いで飛び込んだ。
一人助け、その後もう一人を……。何とか、助かったのか。
長く深く、安堵の吐息をつく。よかった、本当に。
しかし目に入った光景に、思わず凍りつく。
土手沿いの道路に救急車が、消防のレスキュー車が、パトカーが、そして大勢の人間が集まっている。車の回転灯が薄暗くなってきた早春の空を嫌な色に染めていた。不規則な点滅、照らされる黄色いライト、そして運ばれていく三つの担架。
その一つに乗せられた子供が、泣きじゃくりながら救急車に運ばれた。
あとの二つは、静かだった。
大きな体と小さな体が一つずつ。大きな身体から垂れさがっていた腕を隊員が手際よく担架の上に乗せた。その指にちかりと銀色の輪が光ってみえた。結婚指輪なんだな、そう思ってふと自分の手に目を落とす。同じ位置に銀色の指輪が光る。急に、運ばれていくあれが誰のものでもない、俺自身の体であることに気づいた。
呆然とした俺の後ろで、少年がぽつりと言った。
「ぼくたち、もう、死んじゃってるみたい」




