エピソード8 涙
Episode8
登場人物
加地 伊織:主人公
イアン シェパード:策士
キース:積極的
東雲 詩織:パニクり中
吾妻 碧:喧嘩中
気分が重い、憂鬱とはこういう事を言うのだろうか。 小学校の時に虐められた辛さとは全く違う。 もっと真綿で窒息死させられる様な…甘い苦しみ。
別に、悪い事した訳じゃない、こっちに責められる筋合いは無い。 でも、つれなくされるのは何だか辛い。
時計を見る…夜の11時過ぎ。 多分、今日は電話はかかってこないだろう。
伊織:「むしゃくしゃするな!」
思いっきり寝返りをうつ。
…そこへ、携帯の着信音!
急いで飛び起き、鞄の中の携帯に飛びつく!
修理中の代用機だから勝手が分からない!
伊織:「…もしもし!」
伊織:なんで俺、こんなに焦ってんだろ?
イアン:「Hello! イオリ、ちょっと良いかい。」
聞こえない様に溜息をつく…
伊織:「あぁ、イアンか、…どうした?」
イアン:「一寸、相談が有ります。」
イアン:「少しだけ、深刻です。」
イアン:「キースに関係する事です。」
何故だか、イアンはちょっと前のマシンガントークモードになっていた。
ちなみにキースとは、イアンの友人兼システマのコーチで、背の高いイケメンなマッチョの事である。
伊織:「どうかしたの。」
イアン:「実は、彼は来週の土曜日にレイチェルと一緒にイギリスに戻るのです。」
レイチェルとは、イアンの憧れの女性で、少し下半身がぽっちゃりしている中二病なイギリス人女性の事である。
伊織:「そうなんだ、もう帰っちゃうのか。」
イアン:「キースもレイチェルもイオリに会えて、とても喜んでいました。」
伊織:「あはは、…それで?」
イアン:「実は、キースが日本人の女の子を好きになってしまったのです。」
イアン:「先日、コンビニという処でカラアゲの買い方が分からなくて困っていました。」
イアン:「その時に、一人の女性が親切に通訳してくれたのです。」
伊織:通訳って、イアン日本語ぺらぺらじゃん…。
イアン:「キースは日本人女性の優しさに感動してしまいました。」
イアン:「それで、キースはそのままその女性にデートを申し込みました。」
伊織:「それは凄いな…。」
伊織:有る意味…、
イアン:「ところがその女性は、イオリのガールフレンドなのです。」
伊織:「へっ?」
伊織:俺に彼女なんていたっけ…?
伊織:「誰の事?」
イアン:「プールで会った可愛らしい人です。」
伊織:碧?
イアン:「勿論、私は、その女性がイオリとつき合ってる事を伝えました。」
イアン:「でも、キースは彼女を本当に好きになってしまいました。」
イアン:「彼女をイギリスに招待したいと言っています。」
イアン:「来週の飛行機で一緒に行くつもりなのです。」
イアン:「どうしましょう?」
伊織:どうしましょう…って言ってもなあ。
今の気まずい状態で、伊織が碧に何か言った所でまともに取り合ってくれない様な気もするし、かといって放っておくのも不味い様な気がするし…。
伊織:「本当に、み、吾妻だったのか?」
イアン:「はい、キースは強引に彼女の連絡先を手に入れました。」
イアン:「私が一緒にいたので、彼女も少し気を許したのかも知れません。」
伊織:いや…あいつ結構メンクイだからなあ…。
伊織:そうだよ、あいつどうせ俺の事は幼馴染みとしか思ってないんだ。 彼女面して偉そうな事言う割に、結局イケメンの前ではネコ被ってンだ!
伊織:「吾妻が決めれば良いよ!」
伊織:それであいつの本心が分かる筈だ…。
イアン:「本当に良いのですか?」
伊織:「ああ、」
なんだか、イアンの方が焦っているみたいだった。
イアン:「キースは明日、彼女と会うつもりです。」
イアン:「彼はそこで、プロポーズするみたいです。」
伊織:「プロポーズ!?」
イアン:「あっ、…イギリスに一緒に来てと言うつもりです。」
伊織:プロポーズはいきなり過ぎるとしても、いきなりイギリスご招待だって、そう簡単には付いて行きやしないだろうに…。
伊織:そうだよ、あいつは受験勉強で忙しいんだ…。
碧:「私は、…出来れば、一緒の学校が、イイな、…とか。」
ふいに碧の台詞を思い出す。 …何故だか胸が苦しくなる。
伊織:「どこで、キースと吾妻は、何処で会うつもりなんだ?」
イアン:「朝の11時に家に迎えに行って、それから車で江ノ島に行くつもりです。」
イアン:「私がデートコースを考えるのを手伝いましたから、間違いないです。」
伊織:「車じゃなぁ…。」
伊織:俺! 自転車で江ノ島まで行くか?
イアン:「その後、夕方の6時に藤沢駅に送る予定です。」
伊織:藤沢…って、確かあいつの通ってる予備校がある処だ。 デートの日も受験勉強を忘れないって…律儀な奴。
伊織:「分かった…。」
伊織:どうする? 家に押し掛けるか? なんで? 会ってなんて言うんだ? 行くなって言うのか? なんで??
伊織:なんで、俺に…そんな権利有るんだ?
イアン:「どうしますか?」
伊織、暫し、悩む。
伊織:「ちょっと、考える。 …教えてくれて、ありがとな。」
「行くな」「なんで」「お前は俺の…」「何なんだ」「一緒の大学にも行ってやれない奴が」「お前の事」「好きなのか」「本当に俺は碧が好きなのか?」
「気の合う奴なんだ」「なんか気兼ねしないっていうか」「緊張しないっていうか」「俺の事、裏切らないっていうか」「俺の事、頼ってくれてるっていうか」
「それで、どうしたいんだ、俺」「独り占めしたいのか、碧の事」「こんな甲斐性なしのくせに」「そんな事は、碧にとって幸せな事なのか」「こんな何の取り柄も無い男が」「碧の幸せって、何なんだ」
伊織:「わかんねぇ…」
結局、悶々としたまま朝を迎える。
時計は刻一刻と過ぎて行く。 …既に10時。
不意に携帯の着信音!
急いで飛び起き、机の上の携帯に飛びつく!
修理中の代用機だから勝手が分からない!
伊織:「もしもし!」
詩織:「あの…、」
何故だか、落胆…。
今は、詩織と話したい気分ではないのだが…、早々に切り上げよう。
伊織:「東雲さん、おはよう。 どうしたの?」
伊織:まさか昨日の出来事の後でいきなりイアンとのデートの話は無いだろうな。
詩織:「昨日は、済みませんでした。 …出来れば、会ってお話したいんですが、昨日のお礼もあるし…、今日、会えないでしょうか?」
伊織:「ゴメン、東雲さん、今日、ちょっと取り込んでて…。」
詩織:「コロウ…って、ご存知ですよね。」
詩織:「昨日の男のグループです。」
伊織:コロウって、潰れたんじゃ無かったのか? 昨日の男も、そんな事言ってた様な気が…
伊織:「何か、有ったの?」
詩織:「実は、…私、コロウに脅されてて、…それで、加地さんに近づいたんです。 ごめんなさい…。」
思考が停止する。
伊織:碧の事はどうするんだ! 俺!
伊織:「脅されてるって…?」
詩織がコロウのメンバーだったのは、友人から無理矢理誘われたからだった。 最初は少しアウトローを気取りたい若者の集団…って位にしか考えていなかった。 ちょうど、親とも折り合いが会わないと言うか、険悪な関係の年頃だったので、反抗心も手伝った。
自由気侭な同じ年頃の男達とはめを外す事には、…直ぐに飽きた。 しかも、コロウはただの不良学生グループでは無かった。 かなり酷い暴力集団で、人を傷つける事等 何とも思っていない様な連中だった。
詩織はもう関わらない様にしようとしたが、メンバーが抜ける事を許さなかった。 「どうしても抜けるなら二度と消えない醜い傷を付ける」と脅された。 それから、有る条件が提示された。
コロウ:「加地伊織に抱かれてこい。 それで証拠の写真を持って来たら、抜けさせてやる。」
伊織:「俺に、抱かれるって? …どういう事?」
詩織:「なんでそんな事を言うのか、よく分かりません、…でも、それで抜けられるならって、」
伊織:「そんな事、…不味いだろう? …好きでもないのに。」
詩織:「私は良いんです。」
一体、何が起こってる…??
詩織:「…私を、…抱いてくれませんか…?」
ちょっと、頭を整理しよう。
今は、…10時20分前だね、 此処から碧の家迄は自転車で20分、 11時にはマッチョが碧を迎えに行くんだから、それ迄に作戦を立てて、…行かなきゃ。 なのに、俺? 何? 東雲詩織が、俺に抱いてくれって言う…。 抱くって…ハグする事じゃ無いよな。 それよりもっと、あの同人誌みたいな…。
伊織:「ちょ、ちょっと待って。 …少し、冷静に…。」
詩織:「あいつが、…来たんです。」
詩織:「今日の正午までに、写真を持ってこないと、…顔を燃やすって。」
詩織:「何処に逃げても、捕まえるって。」
詩織の声がだんだん、泣声に変わって行く。
伊織:「警察に…」
詩織:「駄目、警察に言ったら、後から家に火をつけるって。」
詩織:「あいつら、まともじゃないから、きっと本当にやる…。」
詩織:「加地さん、私、どうしたら良いの?」
伊織:だからって、好きでもない男とそう言う事するなんて可笑しいだろう!
伊織:「今、何処にいるんだ。 そっちに行く!」
伊織:行ってどうする? 分からん!
分からんが、後先考えずに行動するのが伊織の悪い癖だった。 自転車を走らせる。 奇遇にも碧の家と同じ方向だった。
指定された場所は商店街から神社に向かう参道の途中、ビジネスホテルの前。
道路に出来た大穴の補修は未だ完成しておらず、周りを柵で覆われていた。
詩織は道端に一人、ポツンと立っていた。
顔の殴られた傷は癒えていない。手首にも包帯をしている。
伊織:「東雲さん。」
呼びかけに気づいて詩織が顔を上げる。
それからまた、無言でうつむいてしまう。
伊織:「とにかく、知り合いの警察に相談に行こう。」
詩織の顔が一気に曇る。 何かに怯えている。
詩織:「駄目、警察は駄目、…お願い、一回だけで良いの。 だから…。」
伊織:「駄目だよ、そんな事。」
詩織:「良いじゃない、どうして、なんで駄目なの? 貴方はちっとも困らないじゃない。 私…、病気とかないから。 ねえ。」
伊織:「こんなのは、嫌だ。」
コロウの言いなりになって無理矢理やらされるなんて、絶対にあり得ない!
詩織:「なにそれ…、勿体ぶってんの? 本当はあんただって、私を抱きたいんでしょ。 あんたなんか、こんな事でもなきゃ、女なんて…一生抱けないんだから…。」
詩織:「お願い…します。」
詩織が泣きながら伊織にすがりつき、…そのまま地面にしゃがみ込む 。
道を行き交う人が、そんな二人の悶着を見ている…。
…その中に、
伊織:「碧。」
キースと碧が、デート前の買い出しだろうか。 コンビニの袋を下げて、そのまま凍り付いた様に立ちすくんでいる。
碧の顔が引きつってる。 何か…いけない物を見てしまった様な、顔。
それから、無言のまま碧が早足で通りすぎる。
キース:「ミドリ!」
それを追いかけるキース。
伊織:俺、何か言わなくて良いのか…? このままで…良いのか??
伊織:でも、こんな時、なんて言ったら良いんだ?!
今、駆け出そうとする碧の手を、…捕まえる…女?
長身長髪でスレンダーな体型、切れ長の眼と濡烏の髪の美女。
陽の光が似合わない薄白い肌、何故だか今日も白衣を纏っている。
香澄:「待ちな。」
振りほどこうとする碧の手を、彼女は絶対に離そうとはしなかった。
碧は、やがて…大声をあげて泣き始めた。 大粒の涙が、次々こぼれ落ちて来る…。
香澄:「そろそろ、ラブコメにも飽きて来たとこだったんだ。」