路地裏とココアシガレット
不採用通知の入った鞄は、中身が空であるにもかかわらずひどく重かった。
転職活動のために訪れた東京の外れ、名前もよく知らない駅に降り立ったのは、秋の風が少し肌寒く感じられる夕暮れ時だった。
見知らぬ街の雑踏を避けるように歩いていると、ふと、ビルの隙間に不自然なほど細い路地があることに気がついた。
吸い込まれるようにその薄暗い路地を進むと、錆びたトタン屋根の駄菓子屋があった。
東京の景色には似つかわしくないその店構えに、私は既視感を覚えた。
店に入り、色褪せた棚から「ココアシガレット」を一つ手に取った。
幼い頃、背伸びをしてよく買っていた砂糖菓子だ。
硬貨を置いて店を出た私は、大人が煙草を吸うような手つきで、箱から取り出した白い棒を口にくわえた。
ふと顔を上げると、コンクリートの壁は消え失せていた。
代わりに広がっていたのは、低い空と、瓦屋根が連なる見慣れた町並みだった。
すれ違う人の中に外国人観光客の姿はなく、静かで、どこか湿り気を帯びた空気が漂っている。
角のコンビニのガラス越しに新聞の日付を見て、私は息を呑んだ。
そこは、私が小学2年生だった頃の京都だった。
行き場を失った私は、実家の方角へ歩き出したが、どうしても足が向かなかった。
三十歳になり、何者にもなれずに立ち止まっている今の自分を、あの家へ連れて帰ることはできなかった。
無意識のうちに辿り着いたのは、家の近くにある寺の横の墓地だった。小学一年生で父を亡くした私は、当時、放課後によくここへ来ていた。
古い石畳を踏みしめ、記憶の中にある区画へと曲がった途端、私は足を止めた。
秋の虫が鳴く声に混じり、微かに線香の匂いが漂ってくる。
墓前には、二つの影があった。
若き日の母と、ランドセルを背負った八歳の私だった。
踵を返そうとしたとき、小枝を踏む音が響き、母がふり返った。
見知らぬスーツ姿の男(私)と目が合い、母は少し不思議そうな顔をした後、静かに問いかけてきた。
「……もしかして、あの人のお参りにきてくだはったんですか」
その穏やかな京都の言葉の響きに、胸の奥がひどく締め付けられた。
「あ……はい。昔、東京で少し、お仕事をご一緒したことがありまして」
とっさに口をついて出た嘘だった。父の仕事仲間。そう名乗るしかなかった。
「わざわざ東京から。主人がお世話になりました」
母は深々と頭を下げた。
その横で、幼い私がじっとこちらを見上げている。
大きな瞳の奥に、かつての自分の戸惑いと好奇心が透けて見えた。
その偶然の流れで、私は二人と一緒に、秋の深まる京都の町を少しだけ歩くことになった。
観光地化される前の、静かな東山の裏道。疎水沿いの桜の葉は赤く染まり、水面を静かに流れていく。
母は父の思い出を、時折微笑みながらぽつりぽつりと語った。
その声を聞きながら、私は自分の中にあった「父の死の重さ」が、静かに解けていくのを感じていた。
ふと、幼い私が私の袖を軽く引いた。
「おじさん、お父さんの匂いがする」
真っ直ぐな瞳だった。私はハッと息を呑んだ。
スーツに染み付いた整髪料か、それとも年齢を重ねて骨格や背中から滲み出るものか。
三十歳になった私は、気づけば、八歳の私が見上げていた「父の年齢」に追いつこうとしていたのだ。
私は彼に、いや、かつての自分に向けて、少しだけ不器用に微笑んでみせた。もう大丈夫だ。そう伝えたかった。
夕暮れの鐘の音が、町に響き渡った。
別れ際、私は口にくわえたままだったココアシガレットを、奥歯で静かに噛み砕いた。
カリッ、という微かな音が頭蓋に響く。
砂糖の甘さとハッカの香りが口の中に広がった瞬間、線香の匂いも、秋の疎水の水音も、ふっと風に溶けて消えた。
気がつくと、私は再び、東京の外れの駅前通りに立っていた。
冷たいビルの風がスーツを揺らす。行き交う車の排気ガスの匂いが鼻を突く。
鞄の中の不採用通知は変わらずそこにあるはずなのに、先程までの鉛のような重さはもう感じなかった。
私は小さく息を吐き、改札へ向かって、静かに歩き出した。




