第9話 おひさまの約束
雨は、静かに街の色彩を奪い続けていた。パンを焼くことのなくなった厨房は、以前の活気が嘘のように冷え切っている。オーブンの石も、捏ね台の木肌も、主を失った楽器のように黙り込んでいた。
私はカウンターに突っ伏し、自分の指先を眺めていた。爪の間に残っていた小麦粉も、あの日あの日浴びた泥も、もう綺麗に洗い流してしまった。けれど、心のなかにこびりついた「あの日」の記憶だけは、どんなに涙で洗っても消えてはくれない。
――カラン……カラン……
力なく響いたドアのベルに、私は重い顔を上げた。
「すみません……今日は、もうおしまいです……」
そう言いかけて、言葉が止まった。
店に入ってきたのは、黒い雨合羽を深く被った小柄な女性だった。雫が床に滴るのも構わず、彼女は真っ直ぐに私の前まで歩いてくると、ゆっくりとフードを外した。その瞬間、店内の空気が一変した。白金に近いブロンドの髪が美しく編み込まれ、何よりもその瞳――アルベルトさんと同じ、雨上がりの湖のような、気高くも深いブルーグレーの瞳が私を射抜いた。
「あなたが、リナね?」
その声は、鈴の音のように清らかで、有無を言わせぬ威厳に満ちていた。
「……どなた、ですか?」
「私は、アルベルトの母です」
心臓が、跳ね上がった。王妃様。この国の太陽とも言えるお方が、どうしてこんな雨の日に、名もなき街の小さなパン屋に立っているのか。私は慌てて膝をつこうとしたが、彼女はそれを手で制した。
「形式はいいわ。私は今日、一人の『母』としてここに来たのだから。……リナ、あの子が城に持ち帰った、あの不恰好なリンゴのパンを焼いたのは、あなたかしら?」
「それは……」
あの夜、二人で粉にまみれて作った試作のパン。
「……はい。アルベルトさんと、一緒に作りました」
私が絞り出すように答えると、王妃様はふっと表情を和らげ、店内の隅にある小さな木椅子に腰を下ろした。
「あの子は、あんな顔をする子ではなかったわ。……生まれた時から王位を約束され、感情を殺し、数字と義務だけで生きてきた。けれど、あの日、城に戻ってきたアルベルトは違った。泥だらけのシャツを誇らしげに纏い、傷だらけの手帳を握りしめて、私に詰め寄ったのよ」
王妃様は遠くを見るような目で続けた。
「『お母様、このパンを食べてください。ここには、僕たちが守るべき本当の光が詰まっているんです』と。……あの子が自分の意志で私に何かをねだったのは、それが初めてだった」
涙が、一気に溢れ出した。あの日、彼は私を見捨てて去ったわけではなかった。言葉をかけられなかったのは、私を王室の政争に巻き込ませないための、共謀者として悪者にさせないための、彼なりの不器用で、命がけの優しさだったのだ。
「あの子は今、城の冷たい議場に立っているわ。水源の徴用を強行しようとする大臣たちを相手に、たった一人でね。……彼らの心を動かすには、言葉だけでは足りない。彼らが今まで一度も味わったことのない、『生きた光』が必要なの」
王妃様は立ち上がり、私の震える手を両手で包み込んだ。
「リナ。あの子を救えるのは、もうあなたしかいない。……アルベルトが命をかけて守ろうとした、あの『おひさまパン』を、もう一度焼いてはくれないかしら」
王妃様の温かな手のひらから、決意が流れ込んでくるようだった。悲しみに暮れて、火を消してしまった自分を恥じた。彼は戦っている。私との思い出を盾に、この街を、この水を、そして私を守るために。
「……焼きます」
私は涙を手の甲で力強く拭った。
「私、焼きます。アルベルトさんが、あの日『美味しい』と言ってくれた、最高のおひさまパンを!」
そこからの私は、まるで何かに取り憑かれたようだった。三日間眠っていたおひさまパンの為のオーブンに火を入れ、薪をくべる。
――パチパチ……ボッ!
火の粉が舞い、厨房に再び力強い熱が宿る。
私はモリスさんの農園から預かっていた、一番良い小麦粉を贅沢に広げた。
「お水……お水を汲んでこなきゃ」
私は容器をを掴み、雨のなかを駆け出した。あの小川へ。アルベルトさんと二人で触れた、あのキラキラした水源へ。
(水の精霊さん……キラキラのお水を下さい)
雨に打たれながら祈りながら汲み上げた水は、驚くほど冷たく、けれど指先に生命の脈動を伝えてきた。
厨房に戻り、私は生地を捏ね始めた。
――トントン、ギュッ、ギュッ……
一回一回、体重を乗せて。アルベルトさんの優しい声、泥だらけの笑顔、亜麻色の髪の輝き。そのすべてを、生地のなかに閉じ込めていく。
「頑張れ……頑張れ、アルベルトさん!」
私の祈りが、パンの鼓動となって捏ね台を揺らす。
やがて、オーブンから、あの「魔法の香り」が漂い始めた。雨の匂いをかき消す、濃厚なバターと小麦の、太陽の匂い。焼き上がったパンは、暗い厨房のなかで、自ら発光しているかのように黄金色に輝いていた。あの日よりも、ずっとずっと、キラキラしている。
王妃様は、そのパンから立ち上る湯気を眺め、深く息を吸い込んだ。
「……なんて温かい香り。これなら、あの石頭の大臣たちの心も、春の雪のように溶けるでしょう」
王妃様が用意した、漆塗りの特別な箱にパンを納める。
「リナ。あなたも来なさい。……あなたの言葉で、物語に終止符を打つのよ」
私は汚れたエプロンを脱ぎ、一番清潔な白いシャツに着替えた。王妃様の差し出す手を取り、私は初めて、愛する人が待つ「城」へと向かう馬車に乗り込んだ。窓の外、あんなに降り続いていた雨が、いつの間にか止んでいた。雲の間から、鋭く、けれど優しい一筋の光が、王宮の尖塔をキラキラと照らし出していた。
王宮の重厚な扉が開く。そこには、重苦しい沈黙が支配する議場があった。円卓を囲む黒装束の大臣たちが、疲弊しきったアルベルトを冷たい視線で包囲している。
「殿下、もう限界です。情に流され、国益を損なうのは王者の振る舞いではありません。水源の徴用、直ちに署名を――」
その言葉を遮るように、王妃様が堂々と歩を進めた。
「お待ちなさい、皆様。署名の前に、皆様に『査察の結果』を召し上がっていただきたいのです」
私が箱を抱え、アルベルトの前に立った。アルベルトは信じられないものを見るように、大きく目を見開いた。無精髭が伸び、目の下には隈ができている。けれど、その瞳だけは、あの日見た「亜麻色の王子」のままだった。
「リナ……?どうして……」
「アルベルトさん。約束、守りに来ました」
私は箱の蓋を開けた。瞬間、窓から差し込んだ夕陽がパンに反射し、凍てついた議場全体が、柔らかな黄金色の光に包まれた。焼きたての、お日様の匂いが、すべてを圧倒するように広がっていく。
「さあ、皆様。これがアルベルト殿下が命をかけて守ろうとした、この国の『光』です」
大臣たちが、呆気にとられたようにパンを見つめる。アルベルトの手が、震えながらパンに伸びた。その指先がパンに触れたとき、私たちは確かに感じた。長い冬が終わり、新しい朝が、すぐそこまで来ていることを。




