第8話 消えた査察官、冷たい雨
騎士たちが撤退し、街に静寂が戻ってから三日が過ぎた。空はあの日からずっと、厚い雲に覆われている。時折、細い糸のような雨が降り注ぎ、街全体を灰色に染め上げていた。
お店は、一応開けている。けれど、オーブンに火を灯す私の手は、驚くほど力が入らない。
「リナお姉ちゃん……。今日もおひさまパン、焼かないの?」
カウンターの向こうで、ナナが心配そうに覗き込んできた。棚には、数種類の地味なパンが並んでいるだけ。あの黄金色に輝く、街の人たちが大好きなおひさまパンは、三日間一度も焼かれていない。
「……ごめんね、ナナ。なんだか、うまく火が起きなくて」
嘘だ。火は起きている。でも、私の心が、あのキラキラした光を思い出そうとすると、胸の奥がキリキリと痛んで、どうしても生地を捏ねる気持ちになれないのだ。
「街のみんなはね、あの王子様を『救世主様』だって言ってるよ。モリスさんも、あいつはひょろ長いだけじゃなかったんだな、なんて笑ってた。……でも、お姉ちゃんは、悲しそうだね」
ナナの言葉に、私は何も答えられず、ただ古くなった粉を払うふりをして背中を向けた。街は救われた。水源も守られた。それは紛れもない事実で、彼は約束通り、街を守ってくれたのかもしれない。
(……でも。どうして、何も言ってくれなかったの?)
ただの一度も、彼は私と目を合わせなかった。あの優しかった亜麻色の髪の人は、私の幻だったのだろうか。「査察官のアルベルト」は、ただの「王子の暇つぶし」に過ぎなかったのか。思い出せば出すほど、彼と一緒に土にまみれた時間も、水辺で語り合った言葉も、すべてが砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
「……信じて待っていてくれ、なんて。……勝手だよ」
ポツリと漏れた独り言が、雨音に溶けて消えた。目をつむれば、昨夜の試作会で彼の手が頬に触れた、あの熱い体温が蘇る。それが一番、私を苦しめた。
その頃、厚い雲の向こうにある王宮。アルベルトは、窓を叩く雨音を聞きながら、冷え切った廊下に立っていた。
「……殿下。三日三晩、一睡もなさらずに書類を整理されるのは、お体に毒です」
背後からセバスが静かに声をかける。アルベルトの手元にあるのは、今回の徴用計画がいかに国益に反するか、そしてあの街の水と農産物がどれほど価値のあるものかを証明する、膨大なデータだった。
「……セバス。私は、彼女を傷つけた」
アルベルトの声は、掠れて今にも消え入りそうだった。
「あの日、私は彼女を、ただの民として見捨てて去るしかなかった。言葉をかければ、彼女は『王子の共犯者』として責められる可能性があったからだ。……だが、あの泣き声が、今も耳から離れない」
アルベルトの手が、小さく震えている。
「私は王子だ。国を守る義務がある。だが……一人の少女の笑顔さえ守れずに、何が王の器だ」
「殿下……」
「大臣たちはまだ諦めていない。私が持ち帰ったあのパンの『魔法』を理解させるまで、私はここを動くわけにはいかないのだ」
アルベルトの目の前には、あの日リナと一緒に作った、冷めて固くなってしまったリンゴのパンが置いてあった。彼はそれを、壊れ物を扱うようにそっと撫でる。
「……あいつに、会いたい。……リナの焼く、あのおひさまパンが食べたいんだ」
王子の目から、一筋の雫が零れ落ち、泥のついたままの手帳に染みを作った。城壁の外では冷たい雨が降り続いていたが、彼の心の中には、あの日見た「キラキラした世界」の残り火が、必死に灯り続けていた。
雨が降り続くパン屋の店先。私は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。そこへ、一台の地味な馬車が、雨を切り裂いてお店の前に止まった。
降りてきたのは、豪華な服を着た使いの者ではない。黒いマントを深く被った、小柄な女性だった。
「……ごめんください。ここに、お日様の匂いがするパンを焼く娘さんがいると聞いたのだけれど」
傘も差さずに店に入ってきたその女性。フードの間から覗いた瞳は、どこか見覚えのある、気品に満ちたブルーグレーの色をしていた。




