第7話 かげる太陽
昨夜の甘いリンゴの香りは、跡形もなく消え去っていた。目覚めた街を待っていたのは、まばゆい朝日ではなく、大地を揺らす軍靴の音と、冷たく光る銀色の鎧の列だった。
「立ち退け!この水は王宮の管理下に入る。命令に背く者は反逆罪と見なす!」
広場に響き渡る非情な宣告。私は店の前に立ち尽くし、震える手でエプロンを握りしめていた。昨夜、アルベルトさんが去ってから一睡もできなかった。まぶたの裏には、あの亜麻色の髪と、彼が最後に残した「信じて待っていてくれ」という言葉が焼き付いている。
けれど、目の前の現実はあまりに容赦がなかった。
「ふざけるな!この水がなきゃ、俺たちの畑はどうなるんだ!」
モリスさんが、土に汚れた拳を振り上げて叫ぶ。隣ではナナがお母さんのスカートに顔を埋めて泣きじゃくっていた。
「黙れ、農民!これは国王陛下の御意志だ!」
騎士の一人が、容赦なくモリスさんの胸元を突き飛ばす。
「やめてください!」
気づけば、私は叫んで飛び出していた。尻餅をついたモリスさんの前に立ちはだかり、目の前の大きな剣を帯びた騎士を見上げる。視界が涙で歪んで、目の前の景色がぐにゃりと曲がって見える。でも、足だけは引かなかった。
「この街の水は、みんなの宝物なんです!この水で野菜が育って、この水で私はパンを焼いて……みんな、この水のおかげで生きてるんです!お願いです、奪わないで……っ」
「どけ、小娘。王命は絶対だ」
役人の一人が冷たい視線を私に投げた。その胸元には、あの日アルベルトさんが持っていた手帳と同じ、王宮の紋章が刻まれている。
(……そんな、嘘でしょう?)
胸の奥が、氷を詰め込まれたように冷たくなっていく。アルベルトさんが言っていた「査察官」。王宮から来たと言っていた彼。彼は知っていたの?こうなることを知っていて、私と一緒にあの川へ行ったの?
「アルベルト……さんは、どこ……?」
掠れた声で呟いた私の言葉は、風にかき消された。
「……リナお姉ちゃん!」
ナナの悲鳴が聞こえた。役人が邪魔だとばかりに私を突き飛ばそうと腕を振り上げる。私はギュッと目を閉じた。痛みを覚悟したその瞬間――。
「そこまでにしろ」
低く、けれど雷鳴のように重厚な声が、混沌とした広場を支配した。突き飛ばされそうになっていた私の肩を、誰かの手がしっかりと支える。その手の温もり。嗅ぎ慣れた、あの清潔な石鹸とインクの香り。
「あ……」
涙を拭い、顔を上げる。そこには、昨夜の泥だらけの服を脱ぎ捨て、眩いばかりの純白の礼装に身を包んだ彼が立っていた。その胸元には、街の役人たちが持っているものとは比べものにならないほど大きく、精巧な、王家の金色の紋章がキラキラと、残酷なほど美しく輝いている。
「アル……ベルト……さん?」
私の呼びかけに、彼は答えなかった。彼は私を見ることなく、ただ冷徹な瞳で役人たちを射抜いた。役人たちが青ざめ、次々と石畳に膝をつく。
「……で、殿下!なぜ、このような場所に……」
殿下。その言葉が、私の心の中で砕け散った。市場査察官なんて嘘。看板を直してくれた優しい「あの人」なんて、どこにもいなかった。彼は、私たちの生活を紙切れ一枚で壊せる、あべこべな世界の住人だったんだ。
「この水源の徴用は、私が一時保留とする。騎士団は即刻、街の外へ撤退せよ」
「しかし、アルベルト殿下!これは大臣たちの決定で……」
「黙れ。私は王位継承者として命じている。この街の『価値』を理解できぬ者の言葉など、聞く耳は持たん」
アルベルトさんの声は、あんなに優しかった昨夜の面影もなく、鋼のように硬い。彼は一度だけ、私の足元に視線を落とした。その目は、悲しそうにも、何かを堪えているようにも見えた。けれど、彼は一言も私に声をかけることなく、跪く騎士たちの列を割って、豪華な馬車へと乗り込んでしまった。
「待って……待ってください!」
私は走り出した。溢れ出る涙を拭うことも忘れ、馬車の後を追いかける。
「アルベルトさん!嘘でしょう?何か言ってよ!私たち、一緒にパンを捏ねたじゃない!あの川で、あんなに……っ」
馬車は止まらない。泥を跳ね上げ、街の出口へと向かっていく。私は石畳に躓き、激しく膝をついた。手のひらから血が滲み、せっかく焼いたおひさまパンの香りが染み付いたエプロンが、泥で汚れいく。
「……う、ううっ……ひっ、うああああ……!」
声を上げて泣いた。街は救われたのかもしれない。でも、私のなかの「キラキラ」は、彼と一緒に消えてしまった。遠ざかる馬車の窓から、一瞬だけ、亜麻色の髪が風に揺れたのが見えた気がした。
雨も降っていないのに、世界はひどく冷たく、灰色に沈んでいた。




