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おひさまパンと亜麻色の髪 〜不器用な王子は、パンの湯気に恋をする〜  作者: 初 未来
第一章:〜出会いと約束の輝き〜

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第6話 星降る夜の試作会

 仕入れから戻ったその夜。お店の営業を終え、最後のお客さんを見送った私の心は、まだあの小川のほとりに置き忘れてきたみたいにふわふわとしていた。


(アルベルトさん、無事に帰れたかな……)


 泥だらけになった彼のシャツを思い出し、一人でクスクスと笑いながら明日の仕込みを始めようとしたその時。カチカチ、と窓を叩く小さな音がした。


「……え?」


 恐るおそる窓を覗くと、そこにはランプの灯りに照らされて、昼間よりも少しだけリラックスした表情のアルベルトさんが立っていた。


「夜分に済まない。……これを、返し忘れていた」


 彼が差し出したのは、私が昼間に貸した、まだ泥のついたままのハンカチだった。


「わざわざ届けてくれたんですか? 明日でもよかったのに」


「……いや、その。……早く返さねばと、体が勝手に動いた」


 彼は視線を逸らし、首筋をかいた。その仕草があまりに年相応の青年に見えて、私は思わず扉を開けていた。


「せっかく来てくれたんですし、中に入ってください。ちょうど、今日仕入れた果物で新作を試作しようと思ってたんです」


「新作……か。それは、査察官としても見過ごせないな」


 彼は小さく笑い、慣れた手つきで店内に足を踏み入れた。夜のパン屋は、昼間とは違う魔法がかかっている。窓の外では満天の星が瞬き、店内に置かれたランプのオレンジ色の光が、壁の小麦粉の袋や、使い込まれた麺棒に長い影を落としていた。


「アルベルトさん、このリンゴを剥くのを手伝ってくれますか?蜜がたっぷり詰まって、キラキラしてるんですよ」


「……ああ。やってみよう」


 並んで作業台に立つ。アルベルトさんは真剣な表情でナイフを動かし、私はその隣で生地をねる。言葉は多くなかったけれど、包丁がまな板を叩く音と、生地を叩くリズムが重なり合い、心地よい二重奏を奏でていた。


「リナ。君は、どうしてパン屋になろうと思ったんだ?」


 ふとした沈黙の合間に、彼が問いかけてきた。


「父がパン屋だったんです。父の焼くパンを食べた人たちは、みんな今のアルベルトさんみたいに、とびきりの笑顔になったんですよ。私は、その笑顔がキラキラしてて大好きで……自分も、誰かの心に明かりをともせるようなパンを焼きたいって、そう思ったんです」


 私の言葉を聞き、アルベルトさんは手を止めた。


「……誰かの心に、明かりを。……素晴らしいな。私は、今まで誰かをそんな気持ちにさせたことがあっただろうか」


「ありますよ。だって、私、今とっても楽しいですもん」


 私がいたずらっぽく笑うと、アルベルトさんは驚いたように目を見開き、やがてそのブルーグレーの瞳を優しく細めた。


「……そうか。ならば、光栄だ」


 生地がまとまり、私たちは一緒にトッピングを始めた。


「ここに、こうやってリンゴを並べて……」


「いや、こっちの向きの方が、熱が通りやすいのではないか?」


 あーだこーだと言い合いながら、指先がふれあう。


「あ……」


 一瞬、電気が走ったような感覚。見上げると、アルベルトさんの顔がすぐ近くにあった。ランプの光に照らされた彼の亜麻色の髪が、金色の光の輪を作っている。


「……リナ」


 彼の手が、私の頬に触れた小麦粉を優しく拭った。熱い。昼間の太陽よりもずっと熱い体温が、指先から伝わってくる。見つめ合う時間のなかで、星の瞬きさえ止まったような気がした。


 その時――


「……殿下、いえ、アルベルト様!」


 静寂を切り裂くように、店の外から鋭い呼び声がした。アルベルトさんの表情が一瞬で強張る。彼は素早く手を離し、窓の外を見据えた。そこには、馬に乗った一人の騎士が、焦燥した様子で立っていた。


「……セバスか。どうした、こんな時間に」


 店を飛び出したアルベルトさんの後を、私も不安に駆られて追いかけた。騎士は馬から降りると、膝をついて一通の手紙を差し出した。


「緊急事態です。王宮より、水源に関する徴用令が発せられました。今すぐお戻りください!」


「何だと……?徴用令だと?それは、この街の水も含まれるのか?」


「……はい。全域です。逆らう者は容赦なく排除せよとの命令です」


 夜の冷気が、一気に私の心臓を凍りつかせた。せっかく出会えたキラキラした時間が、音を立てて崩れていくような感覚。


 アルベルトさんは私を振り返った。その瞳は、もう「楽しい夜の青年」のものではなく、見たこともないほど深く、暗い光を宿していた。


「……行かなければならない」


「アルベルトさん……」


「リナ。……信じて待っていてくれ。私は、必ず……」


 彼は最後まで言い切らず、馬に飛び乗った。亜麻色の髪が夜風にたなびき、星の光を跳ね返して消えていく。私は、焼きかけのパンの香りが漂う店先で、遠ざかる馬蹄の音をいつまでも聞いていた。


 空にはまだ、あんなに綺麗な星がキラキラと光っているのに。私の目の前は、急激に色を失い始めていた。

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