第5話 透き通る水、透き通る心
モリスさんの農場を後にした私たちは、さらに丘の奥へと続く細い小道を歩いていた。私の背中の籠は、今はアルベルトさんの大きな背中に預けられている。泥だらけになった彼のシャツが、木漏れ日を浴びて、かえって彼という人間の温かさを伝えているようで、私は少しだけ誇らしい気持ちになった。
「……音が聞こえてきた」
アルベルトさんが足を止め、耳を澄ませた。木々の隙間から漏れてくるのは、銀鈴を転がしたような、涼やかな水音。
「そう、ここです。私のパンの、本当の『命』が流れている場所」
茂みを抜けると、そこには視界が開け、小さなせせらぎが現れた。森の奥から湧き出した水は、どこまでも透き通り、川底の白い砂利を宝石のように輝かせている。水面に反射した太陽の光が、周囲の木々の葉の裏でキラキラと乱反射し、まるで世界全体が光の粒で満たされているようだった。
「見てください、この水。お日様の光をたっぷり吸って、キラキラしてるでしょう?」
私は川辺に駆け寄り、両手で水を掬い上げた。手のひらのなかで水が跳ね、光の飛沫が私の頬を濡らす。
アルベルトさんは、その光景を眩しそうに見つめていた。
「……ああ。王都の噴水よりも、どんな装飾品よりも、ずっと清らかだ。……リナ、君は毎日、この水を汲みに来ているのか?」
「はい。このお水で捏ねると、パンが元気に膨らんでくれるんです。まるで、お水がパンに歌を歌っているみたいに。ここの川には、水の精霊さんが住んでるらしいんですよ。だからこんなにキラキラなんです」
私は笑って、彼の手を引いて水際に誘った。
「アルベルトさんも、触ってみてください。冷たくて、気持ちいいですよ」
アルベルトさんは躊躇いがちに膝をつき、指先を水面へと伸ばした。水面に触れた瞬間、波紋が光を連れて広がる。彼はしばらく無言で、自分の指先を洗う水の感触を確かめていた。
「……リナ」
「はい?」
「私は……今まで、自分の目で物事を見ているつもりでいた。王都で、完璧な書類を作り、適切な判断を下し、それが国を豊かにすると信じていた。だが……」
彼は視線を落とした。亜麻色の髪が重力に従ってこぼれ、その影が彼の端正な顔を半分隠している。
「ここにあるものは、私の手帳には一行も書けないものばかりだ。土の重さも、トマトの甘さも……そして、この水の冷たさも」
彼の声は、少しだけ震えていた。
「私は、本当は何一つ知らなかったのかもしれない。冷たい机の上で、ただ数字を動かしていただけだったんだ」
それは、強気な『査察官』の仮面が完全に剥がれた、一人の青年の孤独な告白だった。私は彼の隣に座り込み、川面に揺れる二人の影を見つめた。
「そんなことないですよ。だって、アルベルトさんは、看板を直してくれたじゃないですか」
「それは……」
「あの時、私の困っていることに気づいて、何も言わずに手を貸してくれた。それは書類の仕事じゃなくて、アルベルトさんの心が動いたからですよね?」
私は、籠の中から大切に包んでおいた『おひさまパン』を一つ取り出した。
「これ、食べてください。今日、私が一番心を込めて捏ねたパンです」
アルベルトさんは受け取り、それをじっと見つめた。
「リナ……」
「アルベルトさんは、冷たい人じゃない。ただ、一生懸命に自分の役目を果たそうとして、心が少し疲れちゃっただけです。このパンには、さっきの農場の土の力と、この川のキラキラを全部詰め込みました。だから、食べればきっと元気が戻ります」
彼は小さく微笑み、パンを二つに割った。白い湯気が、光のなかへ溶けていく。一口、二口。彼は噛みしめるように、ゆっくりとそれを食べた。
「……ああ。美味しいな。身体の奥まで、温かな光が染み渡っていくようだ」
パンを食べ終えた彼の瞳には、さっきまでの迷いは消え、澄み切ったブルーグレーの輝きが戻っていた。
「リナ。君は、太陽のような人だ」
不意に彼が私を真っ直ぐに見つめた。
「君の焼くパンが、どうしてこれほどまでに人を救うのか、分かった気がする。……ありがとう。私は、自分が守るべきものが何なのか、ようやく目が覚めた気がするよ」
その瞬間、川風が吹き抜け、彼の亜麻色の髪を激しく揺らした。光の飛沫と、彼の優しい眼差し。世界が、今まで見たこともないほどにキラキラと輝いて見えた。
私は自分の顔が熱くなるのを感じて、慌てて視線を逸らした。
「も、もう! 急にそんなこと言って。さあ、そろそろ戻らないと、パンを待っている街の人たちが怒っちゃいますよ」
「……そうだな。……行こう、リナ」
彼は立ち上がり、再び私の籠を背負った。帰り道、私たちの会話は、朝の不自然な硬さが嘘のように弾んだ。あそこの農家の小麦はどうだ、この季節の果物は甘い、そんな他愛もない話。けれど、二人で笑い合うその一秒一秒が、私にとってはかけがえのない、光の結晶のように感じられた。
しかし、その時。背後の丘の向こうから、不穏な黒い影がゆっくりと街へと近づいていることに、幸せのなかにいた私はまだ気づいていなかった。




