第4話 泥だらけの亜麻色
「お、お待たせしました!」
朝露が石畳を濡らす早朝。私は仕入れ用の大きな籠を背負い、お店を飛び出した。店の前には、すでにあの「亜麻色の査察官」が立っていた。今日のアルベルトさんは、いつものきっちりとしたシャツの上に、動きやすそうな深い紺色のジャケットを羽織っている。それでも隠しきれない品の良さが、朝の空気の中で浮いているみたい。
「……遅い。五分遅刻だ」
彼は手帳を閉じ、冷たく言い放った。でも、その視線は私の足元から頭のてっぺんまでを、どこか落ち着かなげに往復している。
「すみません! パンの焼き上がりを待っていたら、つい。……あ、もしかして、ずっと待っててくれました?」
「……査察官は、時間を厳守するものだ。待つのは仕事のうちだ」
フイ、と視線を逸らした彼の耳が、朝の冷気で少し赤くなっている。私は思わずクスクスと笑ってしまった。
「なんのつもりだ」
「いえ、なんでも。さあ、行きましょう! 今日はちょっと歩きますよ。私の美味しいパンの『魔法の素』に会いに行くんですから」
街を抜け、なだらかな丘を登り始めると、世界は一気に緑の色を濃くした。朝の光を浴びた草原は、まるで無数のダイヤモンドを撒いたようにキラキラと輝いている。
「……綺麗」
アルベルトさんが、足を止めて呟いた。その横顔に、私は少しだけ見惚れてしまう。
「そうでしょう? この丘から見る景色が、私の一番のお気に入りなんです。アルベルトさんは、こういう場所に来ることはないんですか?」
「……。仕事が、忙しいからな。目の前の書類を片付けるだけで、日は暮れる」
「それじゃあ、もったいないです! 美味しいパンを焼くには、こういう風や光を知らなきゃいけないんですよ」
私は彼の手を、思わず取ろうとして――ハッとして引っ込めた。
「……ごめんなさい。つい、いつもの癖で」
「いや……構わないが」
彼は一瞬、寂しそうな顔をして、すぐにまた険しい「査察官」の表情に戻った。やがて見えてきたのは、広大な小麦畑と、そこかしこに青々と野菜が茂る、モリスさんの農場だった。
「おーい、モリスさーん!」
私の声に応えて、土をいじっていた大柄な影が立ち上がった。
「おう、リナか! 今日も元気がいいな。……ん? その横にいるひょろ長いのは誰だ?」
モリスさんが、土に汚れた手で顔を拭いながら歩み寄ってくる。アルベルトさんは一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「王都から参りました、市場査察官のアルベルトと申します。本日は、リナ殿の仕入れの過程が適切かどうかを確認しに……」
「ササツカン? なんだか知らねえが、小難しいことを言う奴だな」
モリスさんはアルベルトさんの話を遮り、彼のジャケットをまじまじと見た。
「おい、あんた。暇なんだろ? ちょうどいい、リナが積む野菜をあっちの倉庫から運んでくれ。男手が必要だったんだ」
「……は? いや、私は査察を……」
「いいから! 働かざる者、食うべからずだ。リナのパンが好きなら、少しは手伝いやがれ」
私は慌てて割って入った。
「モリスさん、アルベルトさんはお仕事で……」
「いい、リナ。……やる」
アルベルトさんが、私の言葉を遮った。彼はジャケットを脱ぎ、私に預けると、袖をまくり上げた。
「『現場を知る』のも、査察官の大事な職務だ。……どこの倉庫だ?」
その後のアルベルトさんは、見ていてハラハラするほど不器用だった。重たいカボチャの籠にふらついたり、泥に足を滑らせて膝をついたり。
「……っ。この、土というやつは、どうしてこうもまとわりつくんだ」
「ふふ、アルベルトさん。泥は仲良くしないと、言うことを聞いてくれませんよ」
私は彼の隣で、手際よくジャガイモを籠に入れていく。
「こうやって、土の感触を指で確かめるんです。この子がどれだけ栄養を吸ったか、わかる気がしませんか?」
「……。土の感触、か」
アルベルトさんはおそるおそる、黒い土に指を伸ばした。最初は嫌そうに眉をひそめていたけれど、次第にその表情から険しさが消えていく。
一時間も経つ頃には、彼の亜麻色の髪には砂が混じり、自慢のシャツは泥だらけになっていた。でも、彼はいつの間にか、私と一緒になって笑っていた。
「……できた。これで、全部か?」
「はい! お疲れ様です、アルベルトさん。ほら、顔に土がついてますよ」
私はハンカチを取り出し、彼の頬に手を伸ばした。アルベルトさんは一瞬体を硬くしたけれど、逃げようとはしなかった。私の手が彼の頬に触れる。熱い。彼の肌から、土と汗の、そして生きている人間の匂いがした。
ブルーグレーの瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「……リナ」
「は、はい?」
「……君の手は、温かいな。……いや、なんでもない」
彼は慌てて顔を背けた。それを見ていたモリスさんが、豪快に笑いながら私たちの肩を叩いた。
「わっはっは! 査察官だか何だか知らねえが、いい働きだったぞ、あんちゃん! ほれ、これは俺の獲れたてのトマトだ。食ってみろ」
差し出された真っ赤なトマトを、アルベルトさんは無造作にかじった。
「……っ。甘い。……今まで食べてきたどれよりも、ずっと」
その言葉は、私に向けられたもののような気がして、私の胸は甘い痛みでいっぱいになった。太陽の光、土の匂い、そして隣にいる人の体温。今まで一人で見てきたはずの「仕入れの景色」が、彼がいるだけで、こんなにも色鮮やかに、キラキラと輝き出す。
「アルベルトさん。今度は、あの川のところへ行きましょう。あそこのお水が、私のパンの秘密なんです」
「……ああ。君の言う通りにしよう」
彼はもう、査察官のふりをした「仕事」の言葉を使わなかった。泥だらけのまま、彼は私の背負った籠を「私が持つ」と言って代わってくれた。
亜麻色の髪を風になびかせ、私の隣を歩く彼。その足取りは、あの日看板を直して去っていった時よりも、ずっと確かなものに見えた。




