第3話 おませな目撃者と秘密のパン
アルベルトさんが去った後の店内には、まだ彼が纏っていた清潔な石鹸の香りと、半分に割られた『おひさまパン』の香ばしい余韻が漂っていた。
「……あ」
私は自分の胸に手を当てた。トクトクと刻まれる鼓動が、いつもより少しだけ速い。あの不器用そうな横顔。パンを一口食べた瞬間の、湖が揺れるような瞳。 思い出すだけで、視界にキラキラとした火花が散る。
「おーねーえーちゃんっ! またやってる!」
「ひゃっ!」
背後から飛んできた鋭い声に、私は変な声を上げて飛び上がった。 振り返ると、近所に住む常連客のナナが、腰に手を当ててニヤニヤと笑っている。十歳とは思えないほど大人びた、おませな瞳だ。
「な、何よナナ。びっくりさせないで」
「隠しても無駄だよ。さっきの『亜麻色の髪のイケメンさん』、誰? ずっとお姉ちゃんのこと、熱心に見てたじゃない」
「ち、違うわよ! 彼は市場の査察官さん。お店の衛生管理を調べに来ただけなの」
私は慌ててパンの粉を払うふりをして背を向けた。けれど、ナナはトコトコとカウンターの横まで回り込んでくる。
「へぇー。査察官さんって、あんなに大事そうにパンを食べるんだ? まるで、宝石でも扱ってるみたいにさ」
ナナの言葉に、心臓が大きく跳ねた。 宝石……。確かに、彼はパンを口にする時、ひどく真剣な、それでいて慈しむような表情をしていた。
「……お姉ちゃん、顔、おひさまパンより真っ赤だよ?」
「も、もう! ナナにはこれ、あげるから静かにしてて!」
私は焼き立ての小さなクッキーをナナの口に押し込んだ。ナナは「むぐっ」と声を漏らしながらも、嬉しそうにそれを頬張り、風のように去っていった。
「明日も来るからね、恋するお姉ちゃん!」
一人残された店内で、私は窓の外を見上げた。夕暮れ時の空は、淡い紫とオレンジが混ざり合い、街全体を魔法のような残光が包み込んでいる。明日は、彼と仕入れに行く日。「あくまで査察」と言い訳していた彼の声を思い出し、私はふっと頬を緩めた。
その頃、街の喧騒を遠くに見下ろす白亜の王宮。西日に照らされた執務室の窓辺で、アルベルトは手元の手帳をじっと見つめていた。
(……温かかった)
口の中に残る、あのパンの優しい甘み。王宮の料理人が作る、技巧を凝らした贅沢な料理とは正反対の、ただひたすらに真っ直ぐで、力強い「生命」の味。 そして、粉まみれの手で笑う、あの少女の屈託のない瞳。
「殿下。先ほどから、ページが一向に捲られておりませんが」
背後から聞こえてきた静かな声に、アルベルトは肩を震わせた。そこには、銀髪を整えた老執事・セバスが、銀のトレイを手に完璧な姿勢で立っていた。
「……セバスか。何でもない。ただの、視察の報告書をまとめていただけだ」
「ほう。その報告書には『おひさまのような、黄金色のパン』という記述が三回も登場するのですな?」
「なっ……! 貴様、覗き見たのか!」
顔を赤くして手帳を閉じるアルベルトに、セバスは表情一つ変えず、静かに紅茶を注いだ。
「いいえ。ただ、殿下の制服の肩に、真っ白な粉……おそらくは高級な小麦粉がついているのが見えたもので。随分と『熱心な』査察だったようでございますな」
アルベルトはバツが悪そうに視線を逸らした。
「……あの街は、不思議な場所だ。水も、土も、人も、すべてが光を含んでいるように見える。明日は、その源泉を確認しに行くつもりだ」
「お供をいたしましょうか?」
「いや、いい。……大人数で行けば、街の者が緊張する。査察は、私一人で十分だ」
そう言って窓の外を見つめる主人の横顔に、セバスは微かな微笑を浮かべた。孤独に耐え、義務を最優先にしてきた若き主君が、初めて見せた「自分自身の意思」を宿した瞳。
城壁の影が伸びるなか、アルベルトの心はすでに、朝の光が差し込むあの小さなパン屋へと飛んでいた。
「遅れるなよ、と言ったのは私の方だが……」
彼は誰に聞かせるともなく呟いた。
「……私こそ、寝過ごしてしまいそうだ」
明日の朝。パンの湯気の向こう側で笑う彼女に、どんな言葉をかければいいのか。亜麻色の髪を揺らしながら、王子様は生まれて初めての、甘い「悩み」に浸っていた。




