第2話 不機嫌な査察官
あの「キラキラした背中」を見送ってから、三日が過ぎた。朝一番の焼き立てパンから立ち上る湯気を見るたび、私の脳裏にはあの亜麻色の髪がフラッシュバックする。
(……なんて、いつまでも浮かれてちゃダメだよね)
私は自分の頬をパチンと叩いて、店内に並ぶ黄金色のパンたちに向き直った。その時、カランカラン、とドアのベルが小気味よい音を立てた。
「いらっしゃいませ!」
いつもの元気な声で顔を上げた私は、その場に固まった。そこに立っていたのは、あの日と同じ、清潔なシャツを身に纏ったあの人だった。
でも、今日の彼はひどく難しい顔をしている。手には革の表紙の手帳を携え、鋭い眼差しで店内の棚から天井の隅までを、なぞるように見つめていた。
「あ……! あの時の!」
私が指を差すと、彼は一瞬だけ眉を動かし、すぐに視線を私に向けた。あの日、逆光で見えなかった瞳の色が、ようやくはっきりと見えた。深い森の奥にある湖のような、透き通ったブルーグレー。
「……王都直属、市場査察官のアルベルトだ」
その声は、朝の空気に似て涼やかで、でもどこか不慣れな硬さを含んでいた。
「査察……官? あの、看板の時は、お礼も言えなくて……」
「私語は不要だ。私はこの区画の店舗の品質、および衛生管理の調査に来た。調査の間、店主は平常通り業務を続けるように」
彼は淡々と告げると、手帳にサラサラとペンを走らせ始めた。あんなに優しく看板を直してくれた人と同じ人とは思えないほど、今の彼は「鉄の仮面」を被っているみたいに無表情だ。
(なんだ、怖い人なのかな……?)
でも、私は気づいてしまった。冷たく「平常通りに」なんて言いながら、彼の視線が、私のすぐ横にある『おひさまパン』のトレイに、何度も、何度も、吸い寄せられていることに。
「……ふむ。このパンは、随分と焼き色が濃いようだが。火加減に問題はないのか?」
彼は努めて冷ややかに、でも隠しきれない興味を瞳に宿してパンを指差した。私は思わず、ぷっと吹き出しそうになった。
「問題なんてありません! これは『おひさまパン』。お日様みたいに元気な色に焼くのが、私の自慢なんです」
私はトレイを彼の方へグイッと押し出した。
「査察官さん。品質を調べるなら、実際に食べてみるのが一番ですよ。はい、これ。今日一番の出来なんです!」
「なっ……私は職務中だ。賄賂のような真似は……」
「賄賂だなんて人聞きが悪い! 調査のための『試食』です」
私がニコニコと笑って、まだ熱を帯びたパンを差し出すと、彼は一瞬、ひどく困ったように私とパンを交互に見た。やがて、彼は降参したように溜息をつくと、手袋を脱ぎ、細く綺麗な指先でパンを手に取った。
指がパンの皮に触れた瞬間、パチッ、と繊細な音が鳴る。彼はそれを、おそるおそる口へと運んだ。
ひと口、彼がパンを噛みしめる。その瞬間。
「…………っ!」
彼の動きが、ピタリと止まった。 湖のような瞳が大きく見開かれ、みるみるうちに潤んでいく。 外側はパリッとしていて、中は信じられないほどにふわふわ。噛むほどに溢れ出すバターの香りと、小麦の力強い甘み。
「……信じられない。こんなに……温かくて、優しい味が……」
ポツリと漏れた独り言。その時、彼の亜麻色の髪がふわりと揺れ、窓から差し込む光に照らされた。鉄の仮面が剥がれ落ち、そこにはあの日私を助けてくれた、あの「キラキラした人」の柔らかな表情があった。
「美味しい、でしょう?」
私が胸を張って尋ねると、彼はハッと我に返ったように、また不機嫌そうな顔を作り直した。でも、その耳の端がほんのりと赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
「……味の確認は完了した。引き続き、原材料の出処についても調査の必要がある」
「ええ、喜んで! それなら明日、私と一緒に仕入れに行きますか?」
「仕入れに……?」
「はい! 最高の小麦と卵の秘密、私が全部教えてあげます!」
彼は一瞬、査察官としての「公務」と、もっとこの温かさに触れていたいという「本音」の間で揺れているようだった。やがて彼は、また片手をひらりと上げて、背中を向けた。
「……あくまで、査察の一環だ。遅れるなよ」
足早に去っていく彼の背中。でも、あの日とは違う。今日の私は、彼の名前を知っている。
「アルベルトさん、か。……ふふっ、明日も忙しくなりそう!」
大きな音がして扉が開いた。
「お姉ちゃん、変な顔してニヤニヤしてるよー」
常連客のナナが店に入ってきたのは、そのすぐ後のことだった。




