第11話 エプロンと騎士の誓い
エトワールの街に訪れる朝は、いつも銀色の霧が石畳を優しく包み込むところから始まる。まだ太陽が地平線の端を微かに染める前の、深い群青色が溶け残る時間。リナは、冷たい空気に身を震わせながら厨房の火をおこしていた。薪がパチパチと爆ぜる音は、静まり返った街で最初に生まれる小さな拍手のようだ。
「……よし。今日もいい火だわ」
オレンジ色の火影が、リナの頬を柔らかく照らす。リナは大きく深呼吸をした。肺の中に満ちる、少し湿った土の匂いと、おこり始めた木の色。今朝の小麦粉は、いつもより少し重みがあるように感じられた。
王子様との一連の出来事を経てからというもの、リナの指先は、物質の向こう側にある「気配」のようなものに敏感になっていた。粉を大きな木桶に広げると、朝日が窓から細い帯のように差し込み、宙を舞う粉の粒子を金色の星屑へと変えていく。よく見れば、その光の粒の間を、透明な羽根を持った極小の精霊たちが追いかけっこをしているのが見える気がした。
(お父さんの言っていた通り。この街には、本当に小さな魔法が息づいているんだわ……)
そんな奇跡を愛おしく感じていると、店の入り口でカラン、と涼やかなベルの音が響いた。重厚な真鍮の音色。この時間にこの音を鳴らせるのは、街でただ一人しかいない。
「……おはよう、リナ」
扉を開けて入ってきたのは、夜明けの光をその身に纏ったかのような青年、アルベルトだった。今朝の彼は、王宮の威厳を象徴する肩飾りのついた礼装ではなく、ごくシンプルな白いシャツを纏っていた。それでも、立ち居振る舞いの一つ一つに染み付いた気品は隠しようもなく、使い古された小麦粉の袋が並ぶ店内で、彼だけが絵画から抜け出してきたかのように浮き立っている。
「アルベルトさん……本当に、毎日いらっしゃるつもりなんですね」
リナは驚きを隠せずに、捏ね台の陰から顔を出した。アルベルトはふっと口角を上げると、少しだけ困ったような、けれど晴れやかな瞳でリナを見つめた。
「当然だ。私は一度決めたことを曲げない主義でね。それに……王宮の食堂で出される完璧に計算された朝食よりも、君の焼く、少し焦げ目のついたパンの香りが恋しくて仕方がなかったんだ。あそこには、パンを愛おしそうに見つめる『作り手』の体温がない」
彼はそう言って、無造作にシャツの袖をまくり上げた。騎士としての鍛錬で引き締まった腕が露わになる。リナは胸の鼓動が不意に速まるのを感じて、慌てて視線を逸らした。
「も、もう。そんなこと言って。セバスさんはなんて言っているんですか?」
「彼は『殿下の情熱が、ついにパンの湯気という形を取ったのですな』と、深いため息をつきながら城門の鍵を開けてくれたよ。……さて、リナ。今日から私は君の『見習い』だ。何をすればいい?」
やる気に満ちた、けれどどこか危うい王子の熱視線。リナは、棚の奥で眠っていた予備のエプロンを引っ張り出した。それはリナの父が使っていたもので、アルベルトの体格でもなんとか収まりそうだった。
「じゃあ……まずはこれを着てください。王子様のシャツを粉まみれにするわけにはいきませんから」
「……エプロンか。面白い」
アルベルトは、まるで伝説の剣を授かるかのような神妙な面持ちでエプロンを受け取った。彼はそれを頭から被り、背中で紐を結ぼうと腕を後ろに回した。しかし、普段は着替えのすべてを侍従に任せている彼にとって、背後の細い紐を操ることは、国境の紛争を解決するよりも難解な課題だったようだ。
「……っ。なぜだ。なぜ、この紐というやつは私の指をすり抜ける。……リナ、すまないが、これをどうにかしてくれないか」
格闘すること数分、アルベルトは眉間に深い皺を寄せたまま、お手上げだというようにリナに背中を向けた。その背中は驚くほど広くて逞しく、リナは一瞬、手を伸ばすのを躊躇った。けれど、彼が発する微かな焦燥感と、隠しきれない少年のような幼さが、リナの緊張をふわりと解いた。
「ふふっ。王子様でも、エプロンの紐には勝てないんですね」
リナは背後に回り込み、指先で細い紐を拾い上げた。その瞬間。リナの指先が彼のシャツ越しに、温かな体温に触れた。
――ドクン
自分の鼓動が耳元で鳴る。アルベルトの背中からは、昨夜の公務で触れたであろう古い羊皮紙の匂いと、冷たい夜風の残り香、そして彼自身が持つ、冬の終わりの太陽のような清潔な香りがした。
ふと見ると、彼の肩のあたりで、金色の光を放つ小さな「光の粉」が、まるで意思を持っているかのようにふわふわと浮遊しているのが見えた。それは精霊の悪戯か、あるいは彼という人間が持つ高潔な魂が、無意識に魔法の粒子を引き寄せているのか。
「……リナ? どうした、指が止まっているが」
「あ……ごめんなさい。今、結びます」
リナは慌てて指を動かし、蝶結びを作った。結び終えて、リナは彼を正面に回した。白いエプロンをつけた、亜麻色の王子。その不釣り合いな姿が、何よりも尊く、愛おしく感じられて、リナは思わず声をあげて笑ってしまった。
「お似合いですよ、アルベルトさん。世界一、高貴なパン屋の見習いさんですね」
「……君に笑われるなら、エプロンの敗北も悪くない」
アルベルトはそう言って、少し照れたように鼻の頭を指で擦った。厨房に満ちる、焼き始めのパンの香ばしさと、二人の間に流れる柔らかい沈黙。窓の外では霧が晴れ、エトワールの街が黄金色の光に包まれ始めていた。それは、物語のどのページにも記されていない、ただ二人だけの、魔法のような修行の始まりだった。




