第1話 おひさま、湯気、あの日差し
まだ星が眠たそうに瞬く時刻、世界は深い群青色の底に沈んでいる。街の誰もが温かな毛布にくるまっているなか、私の朝は、石造りのオーブンに火を灯すことから始まる。
――シュッ、ボッ……
マッチの火が薪に燃え移り、暗い厨房にオレンジ色の光が躍り出る。冷え切っていた空気が少しずつ、生き物の体温のような熱を帯び始める。この瞬間、眠っていたお店がゆっくりと目を覚ますのを感じるのが、私は何よりも好きだった。
作業台に広げた小麦粉は、まるで新雪のように白く、指先で触れるとさらさらと絹のような音を立てる。そこへ、モリスさんの農園で採れたばかりの、濃厚な黄金色の卵と、しっとりとした発酵バターを混ぜ込んでいく。
――トントン、ギュッ、ギュッ……
生地を捏ねる音だけが、静かな朝の店内に響く。 手のひらから伝わる生地の弾力。それはまるで、これから生まれてくる命の鼓動のよう。
(美味しくなれ、美味しくなれ)
心の中で魔法の呪文を唱えながら、私は夢中で手を動かす。鼻の頭に粉がついたことにも気づかないほどに。
やがて、オーブンの小窓から香ばしい匂いが溢れ出してきた。焼きたてのパンだけが持つ、あのアロマ。甘く、どこか懐かしく、胸の奥をぎゅっと掴まれるような香り。パチパチ、と小さな音が聞こえる。それは『天使の拍手』。パンの皮が熱で弾け、最高の状態に焼き上がった合図だ。
私がオーブンから取り出したのは、黄金色に輝く丸いパン。『おひさまパン』。 窓から差し込み始めた最初の一筋の光が、そのパンを照らし出す。立ち上る真っ白な湯気が、光の粒子を巻き込んでキラキラと空中に舞い踊る。それはまるで、目に見える幸福そのものだった。
「さあ、お寝坊な街の人たちを起こしに行こう!」
私はエプロンをきゅっと結び直し、外へ飛び出した。 開店の準備、最後の大事な仕上げ。店の入り口に、小さな木製の看板を掛けることだ。
「あれ……? おかしいな。……よいしょ、っと!」
昨日、モリスさんが「ネジを締め直しておいた」と言っていたけれど、古い金具は少しだけご機嫌が斜めみたいだった。踏み台に乗っても、あと数ミリのところでフックに届かない。私は爪先立ちになり、思い切り背中を伸ばした。
「うう、あとちょっと……!」
指先が看板の縁をかすめ、バランスを崩しかけたその時。
不意に、私の頭上が柔らかな影に覆われた。
「あ……」
私のすぐ隣に、誰かが立っている。石鹸と、微かなインクの香りが鼻をくすぐった。驚いて息を止めた私の視界に、ふわりと入り込んできたのは、見たこともないほどに美しい亜麻色の髪だった。
朝の光を透かして、銀色にも金色にも見えるその髪は、一房一房が細かな光を纏ってキラキラと揺れている。見惚れている間に、すらりと伸びた長い腕が私の手の上を迷いなく通り過ぎ、重たい看板を軽々と持ち上げた。
――カチッ
心地よい金属音が響き、あんなに手こずっていた看板が、完璧な角度で固定される。
「あ、ありがとうございます……っ!」
私は慌てて顔を上げた。でも、その人は何も言わなかった。逆光のせいで、その瞳の色までは見えなかったけれど、彼は満足そうに一度だけ小さく頷くと、そのまま軽やかな足取りで石畳を歩き出してしまった。
糊のきいた、真っ白で清潔なシャツ。ピンと伸びた背筋。私は我に返って、遠ざかる後ろ姿に向かって精一杯声を張り上げた。
「助かりました! ありがとうございました――っ!」
彼は一度も振り返らなかった。ただ、歩きながら右手をひらりと、一度だけ高く上げてみせた。
その指先までが朝日に透き通って、まるで光そのものを見送っているような気分になる。
私はしばらくの間、自分の胸の高鳴りを聞きながら、その背中を呆然と見守っていた。店内に戻っても、指先に残る微かな「誰かの温度」が消えない。
「……何、今の。王子様みたいにキラキラしてた……」
ふと見れば、カウンターのおひさまパンから立ち上る湯気が、また朝日を受けてキラキラと踊っている。 その光景を見るたびに、きっと私は、あの綺麗な亜麻色の髪を思い出してしまうのだ。
不思議な予感に包まれながら、私は今日最初のお客さんのために、パンを並べ始めた。まだ知らない。この朝の光のなかの出会いが、私の小さな世界を塗り替えていく、輝かしい物語の序章だということを。




