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主題=曼荼羅

作者: 鰆の天竺

「楼閣、或いは幻」


 僕の前の座席に座る老爺がそう口にした。

いつもの通学には存在しない、異質な老爺がそう口にした。明らかに僕と目を合わせてそう言った。


「……」


電車の揺れる音ばかり聞こえる静寂のなか、僕はただ黙ってカバンから教科書を取り出して読むふりをした。勉強は好きじゃないし、電車の中で好きじゃないことをできるほど殊勝じゃないけれど。その老爺がどうしても不気味だったから。

僕とその老爺しかいない列車で、ぎょろりとした眼光を向けられて、よくわからないことを言われてはそれを不気味がって当然ではないだろうか。

 そうやって知らぬ存ぜぬという立場でやり過ごすと、次の駅に僕達の乗る電車が到着した。


「人が、向かうべき場所を見つけられるように」


 老爺はそうはっきりと言葉にして立ち上がり、電車を降りて人混みへと消えていった。

先程まで僕と老爺だけだった空間には大量の人間がなだれ込み、卑近な生臭さを覚えた僕はなんだか先のことがまるで夢だったかのような気がしてきて、安心した。




 いつも通りに登校して、いつも通りにつまらない授業を受けて、放課後になった。

部活のために美術室に向かっても、顧問さえいなった。

ただ、いつも自分が使っている席の眼の前に真っ白なカンバスがあるばかり。もう年の瀬が近づいてきてる、そろそろコンペティションに向けて絵を描き始めねばならない。だというのに、主題すら決めかねている。

まっさらなカンバスを前に文具だけ持てども何も生まれない。何を描くべきか、何が美しいのか、何がおぞましいのか、何を映すべきなのか、まるで見えなかった。

数時間、産まなければならない義務感と生み出すことのできない無力感に苛まれてる間にもう日が傾いてしまった。

結局、一切の進捗もなく筆を置き、家路に就く。


 途中、ふと細い路地に気がついた。その奥には――物理的にありえないはずなのに――荘厳で巨大な何かがあるような気がして、いつもはしない寄り道をしようと思った。


 細くて暗い路地を進むたびに、何かへと近づいていることが分かった。僕の目に映るそれは綺羅びやかなようで質実であり、どこまでも荘厳であったから。僕の目に映らないそれは楼閣と呼ぶべき立体であり、忘れられないほど感性にだけ焼き付く非実体であったから。僕は歩みを止められなかった。


「楼閣、或いは情念」


 朝の、あの老爺の声がした。僕は後ろ襟を引かれたように足を止め、周囲を見回す。恐怖感に駆られながら周囲を見渡しても老爺はどこにも見つからない。

恐怖感が拭われる頃には、もう巨大で荘厳だったあれがもうどこにも見えなくなってしまっていた。

僕は来た道を通って、今度こそ本当に家路に就いた。


「人が、向かうべき場所を見つけられるように」


 帰りの電車に揺られながら、朝の老爺の言葉を噛みしめる。あれがそこだというのならば、きっとそれは悪くないのだろうと思ってしまった。


――――――――――


「楼閣、或いは曼荼羅」


 また対面に座る老爺が、今度はそう口にした。僕はなぜだろうか、老爺と目を合わせてしまった。

窓の向こうには、見覚えのない景色に七色の光が当てられている。老爺はゆらりと立ち上がってこちらに向かってきた。


「向かうべき場所を、知り得たか」


老爺はそう口にして、僕の首をその両手で絞め始めた。気道が締められて口の中にある空気がせき止められてる事がわかる。動脈も止められて、頭部に血が溜まっていってるのがわかる。行き場をなくした血液の圧力で頭が破裂しそうで、息もままならない。老爺がぎょろりとした目玉をかっぴらいて、僕をその網膜に映している。苦しい、苦しかった。

列車が次の駅に到着しても、老爺は僕の首を締め続ける。列車の扉が開けども、駅のホームには誰一人いなかった。老爺と僕だけの伽藍洞な車両の中で、僕は苦しみながら目を閉じた。


――――――――――


 布団から跳ね起きる。呼吸を高頻度で無理やり繰り返して――半ば過呼吸の状態で――息ができることを無理やり確認する。額に触れたら脂汗でびたびたに濡れているのが分かった。そのまま指で拭い取って、布団から出る。いつもより数十分早く起きてしまった。

自分が起きるよりもずっと先に仕事へ向かった親が作り置いてくれた朝食を食べて、制服に着替え、荷物を持って登校する。


 電車に乗っていると、昨日と同じタイミングで、やっぱり老爺が乗り込んできた。


「曼荼羅、或いはさきがけ」


老爺はそう口にした。先の良くない体験が未だに脳裏にあるから、僕はそのまま目を瞑って次の駅を待つことにした。列車の揺れが体によく伝わる。何もみないように、ただ次の駅が早く来るように祈ってるだけでは、いつもより電車が遅く感じるばかりだった。


「人は何を得たのだろうか」


列車が減速し始めた頃、老爺は立ち上がってそう言った。

駅に到着した列車の扉が開いて、老爺が下車し、また溢れんばかりの人が電車にごった返し始めた。



 今日も、誰もいない美術室でまっさらなカンバスの前に座った。授業が終わってすぐだというのに、西日はもう茜色に変わり始めている。

今日もまた何を書こうかと悩んでいると、ふと周りに誰か居る気がしてきた。


きっと、老爺だ。


僕は何故かそう思ってしまった。誰もいないはずなのにそこに老爺が居る気がしてならなかった。振り返ることは、出来なかった。

僕はただカンバスだけをみて、老爺の存在に負けるようにして画題を決めた。


【主題=曼荼羅】


 得も言えぬ焦燥と恐怖に駆られた僕は作品にそう名前を付けて、昨日裏路地でみた荘厳で巨大な楼閣と呼ぶべき非実体を描くべく、筆をカンバスの上で走らせる。

きっとあれは曼荼羅なのだろう、だからそれを描かかなければならない気がした。老爺が恐ろしかったから。

 筆を動かせばカンバスにものが描かれた。自分の過呼吸が聞こえるほどの静寂で、一心不乱にそれを描こうとしていれば下校時刻の数分前にはもうカンバスに余白はなくなっていた。

茜色が沈みかけ、翡翠色が黒色を引っ張って夜が始まらんとしている中、僕は書き上げた絵を見ようとすることすら無く、そのまま家へと急いだ。

幸い、昨日の路地をみても、もうそこには何も見つからなかった。



 明くる日、僕は悪夢を見ることもなく、いつもどおりの時間に起きることができた。いつも通りに食事を摂り、いつもの制服に着替えて、いつもの荷物を持って登校する。


 今日の電車に、老爺は現れなかった。僕一人だけの車両で、窓の向こうを見れば生臭い見知った町並みが映る。もう僕に次のホームにごった返す群衆は必要ないものだった。


 いつも通りに登校しても、やっぱり授業はつまらなくて、勉強はうまく行かなくて、気付けば放課後になっている。

美術室に向かって、昨日書き上げたカンバスの前に立った。【主題=曼荼羅】とそう名付けられた作品の前に立つと、また誰もいない美術室だというのに老爺が僕の背後に現れ、そして――窓の外には一昨日僕の脳裏に焼き付いたそれとよく似たものが見えた。だけれど、それは偽物だった。

 僕の目に映ってしまったそれは、質実なようで華やかであり、どこまでも卑近なものだったから。僕の目に映されなかったそれは、楼閣と呼ばざるを得ない立体であり、忘れてしまうほどに感性の域を出なかったから。


「――ふざけるなァ!!!!!」


僕は叫んだ。あの日僕に焼き付いた曼荼羅は、きっとこんなものではなかったはずだ。赤い絵具の着いた絵筆をカンバスに投げつける。それは当然、僕の眼の前にあるカンバスにぶつかった、だけれど……同時に僕の後ろに居る老爺にもぶつかった。老爺は赤色に染まり、外に広がる曼荼羅は燃え上がる。

 怒りと、それをぶつける快楽に身を任せて、僕はカンバスに、老爺に、曼荼羅に、それを壊すように色を重ねていく。燃えがる赤、腐り落ちる黒、蝕む緑、沈む紺、僕を脅かした老爺と偽物の輝きでまやかした曼荼羅を怒りにまかせてぐちゃぐちゃに崩していく。


――今日も下校時間がやってきた。椅子に座り、情動に身を任せた世界を映し出すカンバスを眺める。曼荼羅を下地に、それを壊すように塗り重ねられた色がありありと境界線を流しだし、整然とした秩序の世界に混沌がもたらされているように見える。


「ははは、こりゃ傑作だ」


乾いた笑いを上げて、自分の作品の出来に満足する。画題も変えなければ――僕は二つの単語を繋ぐ二本の線を遮るように斜線を一本入れる。


【主題≠曼荼羅】

 

 その作品の在り方に満足した僕は、軽い足取りで今日も家路に就いた。





この作品を面白いと思っていただけたら連載作品の方も見ていただけたら幸いです

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