犠牲になった婚約者~その手の行方~
読んでいただいてありがとうございます。「犠牲になった婚約者」を執筆した時に書いていた、十数年後の話です。出すべきかどうか迷って書いたままずっと眠っていた物語ですが、有難いことに「苦い恋」シリーズの累計PVが300万を越えていたので、この物語をこのまま眠らせておくのもどうかと思い投稿させていただきました。今のシリーズとは時間軸が全く違うので、こんな結末があったかもしれない、という感じのIFの話として読んでいただけると、有難いです。先に「犠牲になった婚約者」をお読みください。
セルフィナが他国に嫁いでから、すでに十年の月日が経っていた。
その間、ルカは近衛騎士として働いていた。
なぜなら、タニアが起こした事件は全て無かったことにされたからだ。
王家と一部の貴族が闇に葬った。
主犯が王と王妃の間に生まれた第一王女で、実行犯は王に忠誠を誓っていたはずの騎士たち。
間接的に王太子妃も関与しており、被害者は何の罪もない伯爵家の娘。
そして何より、事が起こるまで何も気が付かなかった王家と騎士団。
こんなことが国民に知れ渡ったら、王家の威信が揺らぎ、騎士団は不審な目を向けられていただろう。
それに王太子妃は他国の王女だ。もしナディアに何かあれば、彼女の生国との諍いに発展する。
王家は秘密裏に、スーシャ伯爵家とセルフィナに慰謝料を払って終わらせた。
幼馴染の王女というだけでタニアを信じ、セルフィナの言葉を否定して信頼を失ったルカは、エリオットに職を辞して領地に帰りたいと言ったのだが、それは許されなかった。
王太子であるエリオットが、頭を下げて頼み込んできたのだ。
『ルカとセルフィナ嬢はよくある婚約を解消しただけで、他には何事も無かったことにしてほしい。普段通りに振る舞ってほしいのだ。ただでさえ犯行に及んだ騎士たちがいなくなり、タニアが急に他国に嫁いでいったことに対して、一部の者たちが懐疑的なのだ。もしここでルカまで王城を去ってしまったら、何かあったのかと探る者が出てくるかもしれない。頼む、このままでいてくれ。王となる私を、傍で支えてくれ』
……ずいぶんと身勝手な話だと思った。
その言葉の中では触れていなかったが、ちょうどその頃にナディアが王子を産んだ。
不安定な精神で王子を産んだナディアは、たびたび発作のようなものを起こしていたらしく、これ以上、城内を騒がしくしたくないというエリオットの身勝手な思いだった。
だが、ルカは王に忠誠を誓った騎士だ。王太子にそう言われて、断れなかった。
ルカには、自分でも嫌になるくらい王に仕える騎士としての精神が染みついていた。
それに何より、友人であるエリオットに自分を支えてほしいと頼まれれば、断ることなど出来なかった。
それからもルカは、ただただ真面目に仕事を熟した。
新しい婚約を結ぶこともなく、父には弟を後継ぎにするように伝えた。
何があったのか知らされていた父母は、戸惑いはしてたものの最後は仕方ないと諦めてくれた。
これから先、他のどんな女性と結婚をしようが、セルフィナのことを忘れることは出来ない。
いつか落ち着いたら、今度こそ職を辞して王都を去る。そう決めていた。
その手紙が届いたのは、そんな思いでただ仕事だけをしていた一年ほど前のことだった。
何の変哲もない封筒だったのだが、差出人を確認して驚いた。
書かれていた名前は、コンラート。
セルフィナの夫の名前だった。
「今日は良い天気ですよ、コンラート様」
晴れ渡る空を見ながらセルフィナが話しかけたのは、夫の眠る墓だった。
その隣には、彼の愛した女性が眠っている。
コンラートとセルフィナの結婚は、十年で終わりを告げた。
理由は、コンラートの病だ。
結婚した後も、コンラートは一年の半分ほどは家にいなかった。だが、帰ってきた時はセルフィナに他国の珍しい品物などをお土産として持ち帰ってくれたりと、穏やかで優しい日々だったと思う。
二人の間に子供は出来なかったが、元々、コンラートが後継ぎとして教育をしていた一族の少年を養子にして可愛がった。コンラート亡き今、多少幼かったが、爵位は息子が継いだ。
まだ子供の彼の後見人は、コンラートの弟だ。
立派な海の男に育ててみせます!
そう言って、息子を海へと連れて行ってくれている。
貿易によって財をなす伯爵家である以上、海に出ない男は一族に認められない。
息子も嬉しそうに海へと出て行った。
正直、セルフィナはどうしようかと悩み、実家に帰ろうかとも考えた。父母も兄も戻ってきてかまわないと言ってくれたのだが、辛い体験をした国に戻るのは躊躇した。
幸い息子は、ずっといればいいと言ってくれたので、こうして墓の近くにある別荘に引きこもっている。
コンラートの眠る墓を中心に、右側に彼の愛した女性の墓があり、左側にはいつかセルフィナが眠りつく予定だ。
『セルフィナ、彼女の隣で眠りたいという俺の願いを叶えてくれるだけでも有難いのに、反対側に君が眠るって……君の好きな場所に墓を建てていいんだぞ』
『あら、旦那様。死後とはいえ、両手に花のチャンスですわよ。右手で彼女の手を取るのなら、左手で私の手を取ってくださいな』
くすくす笑うセルフィナに、コンラートは仕方ないとばかりに苦笑していた。
始まりこそ愛する者を亡くした者と愛する者に傷つけられた者の、傷の舐め合いのような政略結婚だった。
けれども、それなりの年月を一緒に暮らしていれば、情も湧くというものだ。
まして、夫婦として子育てもした仲だ。
コンラートは、セルフィナの顔に手を添えた。
その手は、昔のように分厚くて力強い手ではなく、痩せ細った病人の手だった。
『俺のことは気にするな。一族のことも、アイツらに任せておけばいい。セルフィナ、俺との生活で、多少は傷が癒えただろう?あの時とはもう違う。お前はまだ若いんだ。俺の左側の墓に入ることばかり考えずに、お前の好きに生きればいい。それでもどうしても行くところがなければ、俺の左側で眠ればいいさ。この左手は、いつでもお前のためにある』
……最後の最後まで、優しい人だった。
悲しいけれど、悲しみに浸っているだけでは、人は生きていけない。
すでにあれから一年が経っているし、息子や一族の者たちは元気に海に出て行っている。
セルフィナは、この一年の間、喪に服していた。
「ねぇ、コンラート様、私、やっぱり祖国には帰りませんわ。もう王女殿下もいませんが、あの国には辛い思い出が多すぎます。ここで暮らした十年の方が、よっぽど楽しい思い出ばかりですから。何かお店を開くのもいいかもしれませんね。どんなお店がいいと思いますか?女の子たちの好きそうな雑貨を集めたお店?それともスイーツのお店?異国の物ばかりを集めたお店でもいいかもしれませんね」
亡き夫を安心させるために、これからの計画をとりとめもなく一通り話すと、セルフィナはすっきりした顔で立ち上がった。
「また来ますわ、旦那様。約束通り、その左手は空けておいてくださいね」
後ろの方から誰かが近付いてくる足音が聞こえる。
きっとこの墓地に眠る誰かの墓参りに来た人の足音だろう。
祈りを捧げるのならば、静かな方がいい。
「…………セルフィナ…………」
聞こえてきたその声に、セルフィナは振り向いた。
「………ルカ、さま?」
顔を合わせるのは、いつぶりだろう。
最後に会ったのは、もう、十年以上前のことだ。
あの頃、セルフィナの婚約者だった青年は、今はどこか暗い影を宿した男性になっていた。
近衛騎士として輝いていた彼のこの変わり様に、セルフィナはあの事件の影響なのだろうと悲しくなった。
こうなってほしかったわけではない。
ルカの傍にはもういられなかったけれど、決して彼が不幸になってほしいと思ったことなどない。
「……久しぶりだね」
「……はい」
「コンラート殿のお墓に花を供えさせてもらってもいいか?」
「も、もちろんです」
どうしてここに?
そう聞きたいが、聞くのが怖かった。
ルカは持ってきた花をコンラートの墓に供えると、そのまま目を閉じて祈りを捧げた。
「……どうして俺はここに?って思ってるよね?」
「はい。コンラート様が亡くなったこともご存じのようでしたし」
国が違うし、コンラートの死がルカまで伝わるとは思っていなかった。
両親や兄には伝えたが、それをわざわざルカにまで伝えるとは思えない。
「そうだね。……二年ほど前、コンラート殿から手紙が届いたんだ」
「え?二年前?」
それは、コンラートの病が発症した頃だ。
最後の方は寝たきりだったが、亡くなる半年くらい前までは、まだ動けていた。
「そうだ。それには自分が病に罹ったこと、恐らくもって一年くらいの寿命であることが書かれていた」
手紙を読んだ時、またセルフィナに試練がのしかかるのかと思って絶望した。
せっかく結婚して穏やかに暮らせているのに、彼女の夫の寿命はすでに尽きようとしていた。
コンラートが亡くなったら、一体誰が彼女を守るというのだ。
とっくの昔にそれを放棄したルカがそう思うこと自体、すでに自分勝手なことと取られてもおかしくないが、それでもルカは、セルフィナのためにコンラートの回復を祈るしかなかった。
それから半年ほどしてから来た二通目の手紙には、もう身体が動かなくなってきていること、そして自分が死んだ後、残されたセルフィナがこのままこちらの国で過ごすと言っていることが書かれていた。
……正直、コンラートの回復を祈りながらも、もっと自分勝手な夢を見ていた。
実の子供のいないセルフィナが実家に帰ってきて、ルカと再会する夢だ。
けれど、セルフィナはこの国には帰って来ないという選択をした。
……二度と、ルカと会わないという選択をしたのだ。
コンラートの二通目の手紙は、ルカに絶望しかもたらさなかった。
それからすぐに、三通目の手紙が来た。
自分が死んだ後、セルフィナのことを頼む、そう書かれた手紙だった。
『伯爵家は養子の息子が継ぐ。後見には俺の弟が立つので、家のことでセルフィナに負担はない。俺とセルフィナの間には家族としての情くらいしかなく、そこに恋愛感情など一切なかった。俺には忘れられない女性がいて、セルフィナの心には、まだルカがいる。
だから、今度こそ、間違えるな』
コンラートの手紙を読んだルカは、泣き叫んだ。
そして、それから一年ほどをかけて国を出る準備をしたのだ。
セルフィナが戻ってこないなら、ルカがあちらの国へ行けばいい。
彼女を失ってから十年以上この国に縛り付けられていたのだ。
今では国王となったエリオットと王妃となったナディアは、王家と近衛の不祥事を隠すためにルカを縛りつけながらも、彼の顔を見るたびに何とも言えない顔をしている。
たまたまエリオットとナディアが王子たちと遊んでいる時に通りかかってしまった時など、どうしていいのか分からない、痛みを堪えるような顔をしていた。
何年経とうが、ルカが国にいる限り、国王一家の心は安まらないのだ。
だから、決めた。
国を出て、セルフィナのもとに行くことに。
ルカの決意を聞いた時、エリオットは残念がっていたが、ナディアはあからさまにほっとした顔をした。
自分たちのために何の罪もないセルフィナを犠牲にしたことに、ずっと心が苛まれていたのだ。
異国から嫁いで来た自分に優しくしてくれたセルフィナ。夫の親友だった近衛騎士の婚約者を、自分の都合で壊したのだ。
ルカやエリオットはナディアのことを責めなかった。
なぜならナディアは、他国から嫁いで来た王太子妃で、その身に次代の王族を宿していたから。
ナディアは内心で、セルフィナが他国に嫁いだこと、そして今回、ルカもこの国からいなくなることを喜んでいた。
これでもう、ルカを見て心を痛めることがなくなる。
ルカを見るたびに、辛そうなエリオットの顔を見なくて済む。
セルフィナとルカの犠牲の上に生まれた子供たちを、素直に可愛がることが出来る。
そう思っていた。
しかしルカが去った後、ナディアはさらに悔やむことになった。
最愛の婚約者がいなくなっても傍にいてくれた親友を失ったエリオットは、彼の心を理解しない者たちばかりに囲まれて、疲弊していった。
いつの頃からか常に険しい顔をして、子供たちとも最低限の会話しかしなくなってしまった。
一度、そのことでナディアはエリオットを責めた。
だが、エリオットは冷めた目でナディアを見て、重たい口を開いた。
『子供たちに罪はない。だが、君や周りの者たちに支えられているあの子たちを見ると、いつも思い出してしまうんだよ。私にも支えてくれた友人がいた。友人には最愛の婚約者もいた。それを壊したのは私の妹と妻だ。そして、何も気が付かなかった愚かな私だ。あのまま上手くいっていれば、私たち四人はお互いを支え合えていただろう。だが、現実には、今の私は一人きりだ。ルカのために去ることを許したあの日、君はどこか嬉しそうだった。そして君は、私を支えることなく、堂々と子供たちだけに目を向け始めたね。ルカという重しがなくなったから。……残念だよ』
夫婦は支え合うもの。まして王と王妃ならなおさらだ。
ある意味ルカは、エリオットとナディアの間に入って両方を支えていた。
幼い頃からの友人としてエリオットを支え、ルカという存在自体が、ナディアへの戒めとなって。
ルカを失ったことで、エリオットは支えのない孤独な王となり、ナディアは鎖から解き放たれたようにその意識を子供たちだけに向けた。
王妃として最低限の仕事はするが、自分の子供たちのより良い教育とやらの方にほとんどの力を注ぎ、夫を見なくなっていた。
『……いや、違うか。私たちはある意味、似合いの夫婦だな』
あぁ、そうだ。エリオットも自分を支えるルカを失いたくなくて、セルフィナに全て押しつけた。
この国に居づらいだろうと思って、彼女が他国に嫁ぐのを阻止しなかった。
ルカに同情するふりをして、ルカが失意のままこの国に残るのを分かっていて泣きついた。
そして十年以上経って、ようやくルカを手放すことが出来た。
……もっと、王として上手くやっていけると思っていた。
友人と遊ぶ子供たちを見て、愛しい我が子だ、という思いと、自分は友人を失ったのに、という嫉妬が入り交じる。
エリオットとナディアの間にある壁は、失った者たちに比例するように高くて厚かった。
ルカは、セルフィナがコンラートが亡くなって一年間は喪に服すと思っていたから、その間に今までの自分を全て整理して、国を出た。
そして、今日、この場にやってきたのだ。
「……コンラート殿は、自分がいなくなった後の君を心配していた。そして、結果的に君を失ってしまった俺のことも。彼は、自分はもうすぐ死が訪れるから、黄泉の国で最愛の女性に会える。だけど夫を失った君は、まだこの世界で生きていくことになる。だから、今度こそ君を支えてやってほしい、手紙にそう書いてきたんだ」
コンラートからの手紙は、残されるセルフィナを気遣う心に溢れていた。
二人の間にあったのは、恋愛ではなかったかもしれない。
けれど、確かに夫婦として支え合い、愛し合っていたのだ。
ルカはコンラートの墓に目を向けた。
彼の右側に眠る、最愛の女性。
「……コンラート殿の手紙に書いてあったよ。君がいつか彼の左側に眠るつもりだと言っている、とね。コンラート殿の左手は君のものだ。コンラート殿の左手を握るのは、君の右手だね。だから……」
ルカは、セルフィナに向かって彼の右手を出した。
「だから、どうか、もう一度、君の左手を取る権利を俺にくれ……!」
右手は彼女の夫のもの。けれど、左手は……その手を取る権利を、何よりもルカは欲していた。
「……ルカ様……」
ルカは、どこか泣きそうな、けれど真剣な顔になっていた
コンラートは、いつも彼女の右側にいた。
いつだって差し出される夫の左手は、セルフィナを優しく包み込んでくれた。
「……コンラート様……」
セルフィナがコンラートの名を呟いた瞬間に、その場を一陣の風が吹き抜けた。
その風に乗って、セルフィナの耳にはコンラートの声が聞こえた。
『空いてるだろう?俺はやっとアイツに会えた。だから、お前も……』
空耳かもしれない。けれど、確かにコンラートの声がした。
セルフィナの頬を涙が伝った。
泣きながら、それでも精一杯の笑顔で、セルフィナはルカの右手に自らの左手を乗せた。
「セルフィナ……!」
ルカはセルフィナの左手の上に、さらに自分の左手を乗せた。
両手でセルフィナの左手を包み込んだ。
「……俺の両手は、君のものだよ……」
「最後まで?」
「あぁ、最後までだ」
そう言うとルカは、十数年ぶりにセルフィナを抱きしめたのだった。