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<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

紅蓮の落胤

あらすじはめちゃくちゃ端折りました。

もっと気を引けるあらすじ書けるようになりたい。

中身はめっちゃ面白いので。

 


 ――十で神童、十五で才子、二十すぎれば只の人。


 誰がそれを言ったか知らないが、()に向けられたその言葉は、侮蔑であり、嘲笑であり、愚弄であり、落胆であり――そして何よりも、誉め言葉だった。








 この現代日本において、行方不明者は年間約八万人。


 山や川、海。自然に飲み込まれて行方知らずになる人がいれば、人知れずフラッ、と外に出てそのまま帰ってこない、なんて例も存在する。

 前者は全体の約三割。そして残る後者に当たる約七割の行方不明者は、【妖魔】と呼ばれる異形の怪物によって連れ去られ、連れ去られた【異界】の先で、殺される。


 妖魔による被害は人為的な痕跡は残らないため、警察では対処不可能。

 ましてや、通常の人物に妖魔の姿は見えない。そのため、妖魔の存在すら知らずに生きている人はこの世にごまんと存在している。そこの貴方も、その内の一人なのだから。


 しかし、そんな世の中で妖魔の存在を知り、妖魔が蔓延るのを防ぎ、悪意の権化たる妖魔を駆除する存在が人知れず居ることも、多くの人は知らない。


 古より脈々と受け継がれるは、破魔の血筋。



 ――人知れず妖魔を滅する者達の名を【倶利伽羅(くりから)】と呼んだ。



 倶利伽羅の歴史は、妖魔との闘い。

 そう言っても過言ではない程に多くの戦いが起こり、血は流れ、命は失われ、その度に新たな命を芽吹かせてきた。


 その歴史は古く、最古の書物に記されているのは平安の時代から妖魔との戦いは続いており、過去には倶利伽羅と妖魔との間で【事変】と呼ばれる大戦が起こっていた。

 その大戦の中心にいるのは、【妖魔の王】と呼ばれる悪しき存在。どの時代でも描かれる姿は同一で、長い歴史の中で倶利伽羅と妖魔の王は幾度となく争い続けた。

 しかし、どの時代でも妖魔の王を滅する事は叶わず、当時の倶利伽羅は後世に妖魔の王を滅する者が現れる事を願い、異界の向こう側に封印する事を選択した。


 その日から、俱利伽羅は妖魔の王が封を破る度に繰り返し挑み続け、再度封印を施す。

 延々と続くその繰り返しで時を刻み続け、やがて時は現代にまで至るのだった。






「――それが、我々倶利伽羅に代々受け継がれてきた使命。貴方達も、お父様やお母様のように、立派な倶利伽羅を目指すことになる」


 法衣に烏帽子。

 開いているのかも分からない細い糸目が特徴の大人、ここでは誰もが「先生」と呼ぶその男が微笑みを浮かべながら言い聞かせると、目の前に並んだ子供たちは活気良く手を挙げ、耳に心地よい返事を揃えて叫ぶ。

 現代日本では廃れたとは言え、相応の身分を表すその装束に身を包んだ初老の男性の眼前に広がるのは、似たように和装に身を包んだ子供達。


「よろしい。では、今日はここまで。明日からは霊力の勉強、即ち実践へと入っていくので、木札と筆を忘れないように」


 先生さようなら。

 齢六つになったばかりの子供達から送られる別れの挨拶を背に、教師は部屋を退出していく。


 ここに集められた子供は、男女合わせて全部で二十人。

 その子供たちが行儀よく大人の話に最後まで耳を傾けていたのは、生まれてから今日まで「そうあるべき」だと躾を受けてきたから。甘えた態度が許されたのは三つの頃までで、男女ともに倶利伽羅の家に生まれた以上は妖魔と戦う力が求められる。

 倶利伽羅の家はどれも決まって裕福な家庭ばかり。命を懸けて妖魔から人々を守っているのだから、国もめいっぱいの支援は惜しみない。その家が命の値段かと問われると口ごもらざるを得ないのだが、妖魔から自国を守るためならば依怙贔屓も厭わないのが国としての姿勢でもあった。


 加えて、外国でも同様に妖魔の被害は確認されており、時には海外と連携して妖魔を討つこともあった。外国では倶利伽羅の名はまたその国に応じて変わるそうで、教師が退室した教室では「親がどこそこのあれと共闘した」などと言うお家の自慢合戦が繰り広げられる。


 そんな、煌びやかでありながらもどこか窮屈な世界の隅っこで、いつも決まって仲良しな数人が集まって会話を繰り広げていた。


 話題は専ら、明日から始まる霊力の学習だ。


「私、家庭教師が先取りして教えて下さりますけど、まるで感覚がつかめませんの」

「わっかる! 全然分かんないよね!」

「どっちだよ」

「俺は夢でお父様とお母さま、お爺様とお婆様と一緒に共闘する夢を見たんだ。くぅ~! 俺もいつかあんな風に戦いてぇぜ!!」

「へぇ、良い夢じゃん」

「ふん。この僕、神来戸(けらと)の家格におよば()()()連中が言い争っておるわ」

「噛んだな」

「霊力の学習も良いけど、習い事が多すぎて嫌になるわね」

「わっかる!! ウチも今日は水泳なんだぁ。永新(えいしん)、応援してぇ」

「おぉ、頑張れ頑張れ」

「フン、あんたは気楽でいいわよね」


 六人の六歳児は全員が全員、口調、立ち居振る舞いからして、どこか大人びた印象を与える。

 大人びている、と言うのはただ早熟しているだけではなく、一般人からすれば気味が悪い程に物事をはっきりと認識しているものだった。まるで子供の体に大人が乗り移ったかのような落ち着き様は、代々倶利伽羅の一族としては教育が正しくなされた証拠でもあり、奇怪に見えるのも致し方ない。


 周囲の子供達もまた早熟しているとは言え、その六人はこの教室の中でも他の子供とは一線を画す特別な風格を兼ね備えていた。


 その一人が、落ち着いた言葉遣いと振る舞いで皆を魅了する幼女、火加々美(ひかがみ)甘奈(かんな)

 彼女の濡羽色の髪は計算されたかのように切り揃えられ、静謐を体現したかのような大和撫子である。

 そんな彼女は家名も特別で、歴史と名のある倶利伽羅の血筋、火加々美家の次女。


 次に苛烈な振る舞いながらも言葉の端々からは愛嬌のある幼さを残す幼児、天炎(てんえん)晴也(はるや)

 性格に見合った燃え盛る炎のように赤い染め色の髪が特徴で、戦いに飢えたギラギラの目は誰もが引きつけられるカリスマのようなものを秘めていた。


 その次に、大人振る姿が微笑ましいながらも、眼鏡の奥に光る金の瞳は吸い込まれそうな程澄んでいる幼児、神来戸(けらと)獅子王(ししお)

 明るめの茶髪は風が吹く度に揺れる程丁寧に手入れされており、伏せがちな金の瞳と相俟って、高貴な雰囲気と言うよりもどこか幻想的な雰囲気すら感じられる。


 その次が、人を寄せ付けない孤高のオーラを醸し出しながらも、その芯のある姿に魅入られた同性からの人気が凄まじい幼女、御厨(みくりや)七星(ななほし)

 両サイドに纏めた金の髪束と、特徴的な吊り目がちな目。その奥に隠れた、星の欠片を散りばめたかのような小さな銀河のように美しく煌びやかな瞳が名前の由来。


 そしてその次が、愛くるしいフワフワとした見た目通りに子犬のように誰彼構わず接していく、良い意味で距離感が狂っている幼女、小暮日(こぐれび)永恋(えれん)

 柔らかく膨らませたような、その名に恥じぬ淡い恋の色をした髪は彼女が弾む度に揺れ、澄んだ青空のような色をした瞳に見詰められ、そのくりりとした目が微笑む度に多くの異性が彼女に恋をする。


 火加々美、天炎、神来戸、御厨。

 上記の四家はいずれも倶利伽羅の間では知らぬものはいないとされる歴史と名のある高貴な家柄であり、小暮日もまた四家には及ばずとも歴史ある家柄。


 そんな彼ら彼女らが集まっているのは誰もが納得のいく様子であり、実際に今より十年後、彼ら彼女らは【五王】と呼ばれ、その実力に見合うだけの称賛をその身に受けることになる。


 そして終いには、長きに渡る倶利伽羅の歴史の中でも、伝説の存在となる。


 そんな晴れやかな未来が約束された彼ら彼女らの傍に一人。


 倶利伽羅と言う選ばれた存在の中においても()()、倶利伽羅に光をもたらす五王の傍には不釣り合いである幼児が存在していた。

 四家と小暮日がいずれ伝説になる事を知らなくとも、ただそこにいるだけで輝かしい存在である彼ら彼女らを知る人からは、その普通の子供は宝石に集る蠅のように目障りに感じられていた。


 そんな彼は、特別な存在達とはまた別の方向性で大人びていた。

 容姿には未だ幼さが透けて見えるようだが、子供の顔付きから見える疲労感はどこか、草臥れた大人の様相を漂わせているようだった。


 そんな彼の名前は、燼月(じんげつ)永新(えいしん)

 黒髪黒目で、これと言った特徴は無い普通の幼児。見目は決して悪くは無いが、古くから高貴な血筋でもあった倶利伽羅の一族は、皆揃って見目麗しい。埋没する個性とは永新の事を指す様な言葉だった。

 永新と出会うまで、この教室の中で燼月家の名を聞いた事がある者は一割にも満たないだろう。何せ、彼の家格は倶利伽羅において最底辺。歴史ある倶利伽羅の一族ではなく、過去に霊力に目覚め倶利伽羅の世界に足を踏み入れることになった歴史の浅い一家だからだった。


 年相応の無邪気な子供で居られれば、永新は自分が置かれた環境を謳歌できたと言うものの、彼は如何せん、賢かった。四家に届かずとも劣らない頭の回転を誇る永新は、周囲から自分がどのように見られているのかを理解できてしまうが故に、それ以上悪く見られないようにと当たり障りのない立ち居振る舞いを強いられていた。

 本来であれば教室の至る場所で固まって喋る同級生と同じように気さくに語り合える対等な関係を築きたかったと言うのに、永新が押し込められたのは、価値観どころかそもそもの命の価値がまるで違う家柄の下。息が詰まるのは必然だった。


 賢い永新であればそうなる事を理解して近付きもしなかった。そもそも近付ける距離では無かったのだが、永新を引きずり込んだのは、他でもない小暮日家の長女、永恋であった。


 永恋と永新の繋がりは、たった一つ。



 ――誕生日が同じ事。



 ただそれだけだった。


 倶利伽羅は、同じ年に生まれた子供同士を一定の年齢に達した時、地域毎に子供達を顔見せする習慣があり、永新と永恋は三歳になったばかりの時、そこで出会った。


 四家からすれば同じように小暮日も燼月も共に両家の家格が低いとは言えど、永恋の小暮日家は底辺倶利伽羅一族である燼月家からすれば上位家とそう変わらない家であると言うのに、その出会いの場で同じ誕生日だと気づくや否や、永恋は永新に付き纏った。

 あまつさえ可愛らしい子に相手にしてもらえているだけでも幸福だと思えていた永新であったが、相手の事を知れば知る程永恋の常軌を逸した自分への執着が感じ取れてしまい、その幻想は早々に打ち砕かれる羽目に。

 されど、永新は両親の教育の賜物か、生まれついての賢しさ故か、そんな思いの端も見せることは無いまま上位の家のご息女だと言う事で仰々しく対応していたものの、やがて彼女の押しの強さに押し負け、今のような関係が築かれた。そもそも、上位家のご息女からの言い付けを底辺家格の永新が断れるはずも無かったのだが。


 それらかも事あるごとに永恋に付き纏われ、終いには自分と永新の名前に共に「永」の字が入っている事から勝手に運命を感じたと言って、永新本人の知らないところで許嫁として婚約が結ばれかけていた。


 倶利伽羅の中でも時代に合わせて恋愛結婚が主流とは言え、閉鎖的な環境である以上親同士が勝手に結婚相手を決める事も珍しい話ではない。そして永新が永恋の願いを無視できないのと同じくして、小暮日家の当主からの申し付けに、燼月家の当主は断ることが出来ない。小暮日家の当主は男所帯の中の紅一点である永恋を溺愛しており、彼女の言葉一つで当主が動くほどの事態であった。

 しかし、恋愛結婚が主流の現代の気風に則り否定的な意見も多い、と言った時代背景を基に両家の当主の前で熱弁したところ、お互いに十五歳を迎え【成人の儀】を終えた時点で永恋の気が変わっていればこの話は無かったことにする、と言う譲歩までは引き出すことが出来た。


 まさか齢六歳にして大の大人を説得するとは、と違う意味で目を付けられたのは気のせいでは無いにしろ小暮日家の当主を撤退させる事には成功したのであった、


 そんなやり取りを終え、後はなるべく永恋と関わらずに成人の儀を待てばいいと思った矢先、永新は望んでもいないのに上位四家の子息息女との輪に無理やり引き込まれ、退屈で窮屈で億劫な日々を強いられるのであった。


 倶利伽羅の選ばれし上位家としての振る舞いを求められる甘奈、晴也、獅子王、七星、そして永恋とはまた違った、そんな栄光ある彼らの立場に泥を塗らないよう立ち振る舞いを強いられる環境は、永新の心に強い負荷を与えていた。


 それでも耐えられていたのは、燼月家の当主とその妻、つまり永新の両親の存在が大きかった。


「……ただいま」

「おかえり、永新。おいで」


 燼月家の家屋は、一度だけ足を運んだことのある小暮日家の蔵程度の大きさしかない。極めつけは、そんな小暮日家の屋敷も、四家と比べたら小さいものだと言うのだから、永新は格の違いをこれでもかと思い知ってしまっていた。


 それでも、いかに小さくとも永新にとっての思い出が詰まった憩いの空間である燼月家に戻った永新は、真っ先に寝室へと向かう。

 そこには、日がな一日体を横にしていなければならない母親が待っているから。


 夕暮れ時の茜色の日差しが窓から入る中、これまで読んでいた本を閉じた母親の、新夏(わかな)の元に駆け寄っては、広げられた腕の中に飛び込んだ。


「母様――」

「今日も頑張ったね、永新。うんうん、偉い! よく頑張った! あんたは、母さんの誇りだよ」


 ぎゅうっ、と苦しくなるくらいに抱き締められ、ぐりぐりと頬を寄せられる永新は、教室の中で見せていた引き攣った笑みとは違って、心からの笑顔を浮かべていた。

 それは、奇しくも永恋が一目見て恋に落ちた笑顔でありながら、最近では燼月家の中以外では見せることが無くなった貴重な表情であった。


 六歳にして大人であることを強いられる倶利伽羅の世界とは言え、永新はまだまだ子供の盛り。

 永新のみに限られず、あの教室の中に居た生徒の大半は、外の目から遮られたパーソナルな空間においては永新と同様に、こうして最も身近な存在に甘やかしてもらう時間が必要なところは、まだ完全に大人になり切れていない証拠でもあった。


 永新を心から愛しているのが分かる慈しみを向ける新夏だからこそ、永新が辛く、苦しい状況にある事を知っていて尚もこうして慰める事しか出来ない自分に悔し気に歯噛みする。


 倶利伽羅として霊力を、力の使い方や妖魔について知らなければ命に関わるからと言って、愛する息子が苦しむと分かっている場所に放り込むことを、納得する事は出来なかった。

 今も、大事な大事な息子が心をすり減らしている事実を四家や小暮日家に直談判しに行きたいところではあるが、俱利伽羅においての家格の上下関係は絶対であり、現役の倶利伽羅である夫の職務に悪影響が出かねない事を理解しているため新夏は身動きが取れずに、毎日のように落ち込んだ様子で帰宅する永新を慰めてあげる事しか出来ないのであった。


 永新が倶利伽羅の家元に生まれた以上、倶利伽羅として生きていかねばならない運命にある。それ即ち、学園を避けて通る事は出来ない選択であった。


 妖魔に対して五人一組で行動をすることが決まっている倶利伽羅は、個ではなく横の繋がりが何よりも重要。学ぶ場を通して命を預け合えるだけの信頼を築く事が大本にある以上、家庭教師だけで済ませる訳にはいかないのだ。

 永新が辛い思いをしていると分かっていながらも、我が子を愛しているからこそ送り出してやらねばならない心境に、新夏は心を痛めていた。


 故に、新夏が出来る事は、永新の重荷を少しでも軽くしてやることだけだった。


「頭が良い分、色々と考えちまうんだろうけど、あんたはいつか必ず勇気を出せる子だって、母さんは信じてるからね」

「はい、母様……」


 力無い母さんでごめんよ、と心の中で呟いた新夏は、まだまだ小さい永新が成長した姿を夢見て、固く、熱く抱き締める。


 新夏は、永新が生まれた時から今日に至るまで、こうしてベッドの上から動くことが出来ない生活が続いている。

 母になる前の彼女は倶利伽羅としても優秀で、高位の霊力使いとして名を馳せてはいたものの、男勝りな性格で嫁ぎ先に難儀していた。そんなある日、父親である永政(ながまさ)と出会い、大恋愛の果てに燼月家に嫁いできた。

 永政と結婚し永新を妊娠、出産してからも、夫婦共々愛する我が息子の為に倶利伽羅として活躍していこうと決意した矢先、永新の出産で大量の霊力を失ってしまい、前線への復帰は叶わなくなった。それでも明るく朗らかな性格故か悲観する事は無く、今では永政の弱気な性格を引き継いでしまった永新と永政の、燼月家の精神的支柱として二人を、例えその身体が動けなくともしっかりと傍から支えているのであった。


 永新が母親に慰められ、すっかり気を取り戻した永新が明日から始まる霊力の授業について話し出した頃、丁度父親である永政が帰宅する。


「――楽し気な声が聞こえると思ったら、父さん抜きで何を話しているんだい?」


 倶利伽羅の戦闘装束である和装に身を包んだ永政は、寝室の扉から半分だけ顔を覗かせて羨ましそうに二人を見る。

 永新が大きくなっても、未だ両親の仲は良好で、その仲の良さは見ている永新が恥ずかしくなるくらいだ。四家のような上位の家格では両親の仲が冷え切っていると言うのが通説で、小暮日家でも当主の傍に居たのは侍従のみであった。


「ほら永新、父さんが帰ってきた。一緒にお風呂に入って霊力がなんたるかを教えてもらうと良いさ」

「うん!」


 つい先ほどまで沈んでいたとは思えない程に快活さを取り戻した永新は促されるままに永政の元に駆け寄り、風呂へと導かれる。

 そのまま父親と風呂を共にしたけれども、結局永政の口から霊力についての話が出る事は無く、母親の様子を一方的に尋ねられた後に妖魔との闘いで傷付いた父親の背中を流して、今日一日疲れ果てた永新は夕食の途中で寝落ちるのであった。











「――霊力は血、血は霊力。これこそが霊力の原則であり、健やかな肉体でなければ正しい霊力は身に付きません。霊力には様々な仮説が立てられており、血を巡る霊力の総量は決まっていてそれをどれだけ操れるかどうかが倶利伽羅の実力として現れるだとか、そもそも血液と霊力の関係は間違っていて努力次第で霊力の総量は増えていく等々。他にも――」


 翌日、昨日と同じ格好の先生が霊力の解説から入る。

 教室の半分ほどの生徒は、家庭教師の授業を経て先生が語る説明を知っているのか、どこか緊張感の抜けた様子を漂わせる。けれども、知っていて当然だと言うはずの四家と永恋は熱心に先生の声に耳を傾けていた。


 そしてそれは永新も同じで、初めて聞くような内容にメモを取る手が止まらない。

 倶利伽羅が霊力を武器にして妖魔と戦うと言う事は知っていたものの、実際にこうして言葉にして説明を受けると、その霊力が自分の体にも流れているのかと考えて興奮が治まらない。


 先生の長たらしい話が終わり、場所を移して授業が再開される。

 訓練場では、先程の講義では感じられない程皆が皆どこか浮ついた様子で、それは四家もまた例外では無かった。


「ふぅ……」

「精神統一か? 俺もやろうっと」

「神来戸の威厳を示すために……」

「さ、最初なんだから緊張する必要無いわよ。家庭教師からは霊力の練り方を教わっているでしょう? その通りにやればいいだけよ」

「うふふ。そう言う七星も、声が震えていますよ」

「う、うるさいわね、私もまだ上手く出来た事、無いのよ……」


 霊力について深い知見を得ている事と、霊力を実際に扱えるかどうかは関係ない。

 当然理解すればするだけ霊力に精通し、己が扱う霊力の長所を最大限に生かすことが出来るが、六歳児が持つ意味はまるで異なる。


 上位家の子息令嬢に優秀な家庭教師が付いているとは言え、実際に霊力を十全に扱えるようになるのは体の性徴が始まってから。この場に集められた二十名の六歳児では、陰と陽に分かれる霊力を扱うにはまだ時期尚早と言えるもので、先生は実際に霊力に触れてみる機会を与えてくれている程度。


 しかし、上位四家である彼ら彼女らには、それなりの期待を背負わされ、名に恥じぬ功績を残さねばならないと言う面子がかかっていた。


 類稀なる霊力を持って生まれる事が約束されている四家の者として、この場で()()()()()()で済ませる訳にはいかない。

 四家の子として、出来て当然でなければならない以上、霊力の授業に臨む意気込みは他の生徒とは一線を画すものであった。


「あちゃあ、向こうはアチアチだよぉ、永新」

「そう、だね。……永恋はいいの? 向こうに入らなくて」

「ウチは別に、永新の傍に居られればそれでいいもん。それに、お父様からも自分のペースでいいって言われてるしね。それに……」

「それに?」

「んーん、なんでもない。永新はウチだけを見ててくれればいいからねっ」


 どこか含みを感じさせる笑みを浮かべた後、永恋は四家の元に駆け寄っていき、すぐに先生が全員を集めた。


「まずは手本を見せる。皆、【破魔弓術】の初級は覚えているな? 誰か答えられる者――小暮日」

「はい。破魔弓術初級は、火打ち、鉄穿ち、雨垂れ。この三つです」

「よろしい。以前の授業でこれらを収めていると思うが、今日はその破魔弓術に霊力を乗せる方法を見せる。その後、各自で的に向けて練習するように。良いな?」

「先生、【紅蓮一刀流】では駄目なのでしょうか。俺は一刀流の方が手に馴染むと言いますか……」


 破魔弓術と紅蓮一刀流。

 倶利伽羅に伝わり、昇華されてきた戦闘技能の事であり、霊力でもって妖魔を滅する方法は主にその二つに分けられる。その他にも霊力を放出する符術や、纏炎武術と言った体術も倶利伽羅の持ち得る武器の一つではあるが、弓術と一刀流のどちらかに傾倒する事の方が一般的であった。


 陰陽の関係が大きい霊力において、男性は一刀流、女性は弓術に偏る事が多いのだが、永新の母親である新夏は一刀流であり、火加々美の当主、即ち甘奈の父親は破魔弓術において右に出る者はいないと言わせしめる実力を持っている等、男女に関係なく適性を見出す倶利伽羅も中には多かった。


「確かに、人によって向き不向きがあるのは事実。私も、紅蓮一刀流の方が得手ではある。だが、紅蓮一刀流は未熟な貴方達にはまだ早い。まずは破魔弓術で霊力の扱い方を学んでからだ」

「ですが……」

「……霊力の扱いに慣れていない者が一刀流を扱った場合、こうなる――」


 天炎晴也を始めとした、幾人かの男子が一刀流に拘る余り声が大きくなる。

 かく言う永新も、一刀流には強い憧れがあった。


 何せ、紅蓮一刀流は派手で豪快。いくら大人振ろうとも、年相応に心をくすぐられるものに憧れが湧くと言うもの。破魔弓術も一刀流にも劣らない技の数々が存在するのだが、そのどれもが高段位を要するもので、初級から洗練された動きを見せる一刀流に心惹かれるのは仕方が無いものだと言えた。


 そんな身の程知らずな子供たちの前で、先生は徐に法衣の右腕を抜き、右半身を生徒の前に曝け出す。

 歳を召しているとは言え、妖魔との命の削り合いを経た肉体は渇きを得ながらも尚も美しく引き締まった肉体に目が奪われる。


 だがそれ以上に目を引いたのは、右半身の大半に大きく広がった火傷の痕。法衣によって隠されていたためこれまえでは知る由も無かったのだが、脇腹から胸、胸から肩、肩から肘にかけてまで広がった火傷痕は一目見て命に関わるものだとその場の誰もが理解し、黙り込む。


「――霊力の扱いを誤り、無邪気にも放った紅蓮一刀流は己が身を焼き尽くさんばかりの熱さだった。……こうなりたくなければ、まずは弓術で霊力の扱いを覚える事。良いな?」

「は、はいッ!」

「うむ、良い返事だ。ではまずは――」


 法衣を着直した先生が気を取り直したところで、霊力の授業が再開される。

 先生が導く通りに五人ずつ横並びになって、訓練場の端に立った的目掛けて破魔弓術の初級を放つ。




「「「「「――火打ちッ!!」」」」」




 始めに選ばれたのはもちろん、四家と永恋の成績優秀者達。

 弓を構える姿ですら惚れ惚れするような姿に、一部の生徒が蕩けた息を吐いた直後、生徒は疎か先生ですらも驚きの声を上げる。


 霊力を認識し、弓術に込める事ですら難しいというのに、五人が五人、揃って矢に火を灯したからだ。


 その中でも取り分け大きな火を見せたのは、火加々美甘奈。

 大きな炎が濡烏の髪に触れようとも動じないその様は、普段の穏やかな様子とはまるで違って鋭さすら感じる凛とした横顔に、誰もが息を飲んだ。


 そうして放たれた矢達は、それぞれにあてがわれた的に中って、的を燃やす。


 五人の誰が吐いた息かも分からない吐息が聞こえた直後、残る生徒たちは瞬く間に興奮と歓喜に包まれる。


「す、すごい……!」

「これが、四家……!」

「お、俺もやってみたい!」

「なんか、あのピリッ、としたのが霊力、なのか?」

「わ、分かんないけど、なんか出来る気がする!」


 その興奮の渦の中には、当然永新も含まれていて。

 普段息を飲むほど窮屈な四家の相手も、こうして遠くから離れてみる分にはまるで美術品でも見ているかのように気楽に感じられる。何せ無礼の一つでも働けば簡単に燼月の家など無かったことにされるし、ふとした拍子に永恋に気を遣えば、好意を寄せる人たちからのやっかみも激しい。

 いつだって一人だと感じられていた空気の中で、その場の空気にこうして溶け込めることのなんと気が楽な事か。


 永新は一人、どこか違った歓喜に沸いているのであった。


「え~いしんっ。見ててくれた?」

「うん、凄かったね」


 その言葉は永恋個人に対して向けられたものでは無く、霊力の可能性、今の自分を解き放つための力になるのではと言った感情を込めた言葉であったが、それでも永恋は永新の言葉に嬉しそうにはにかむ。


 永恋が打算や利用価値で永新と関わってくれればもっと嫌いになれたものを、こうも純粋な笑みを見せられては、永新も永恋の事を嫌いにはなれない。そもそも永新個人に打算や利用価値なども存在しないから、その場合であれば今のように弄ばれもしなかったであろう。


「……行かないの?」

「永新がやるとこ見てから行く。待ってるよ?」


 四家の面々は、霊力の行使で疲労を感じたのか後ろに下がっていく中で、永恋だけは変わらず永新の傍にいる事を尋ねてみるとそんな答えが返ってきて、永新は困った様子で頬を朱に染めた。


 ――付き合う人間は釣り合いの取れる相手でなければならない。


 いつだったか、そう遠くない過去に獅子王から面と向かって告げられ、永新は返す言葉も無かった事を思い出す。

 そんなこと、永新は誰かに言われるまでもなく自分が一番理解していた。


 理解していたからこそ、自分に惨めな現実を突きつける永恋を恨みこそすれ、嫌いになる事は無かった。

 理解していたからこそ、彼ら彼女らのようになりたいと、強く憧れた。



「――次の者、構え! 肩の力を抜いて、自分の体の中を巡る霊力を意識するんだ。そうすれば必ず霊力は()()()()()()。緊張する必要はない、霊力を持ち、戦場を駆ける自分の姿を夢想するだけでもいい。今できる最高の破魔弓術初級を放って見せろ!」






 ――教師は、その年代は豊作だったと語る。

 通常、初めて目にした霊力を扱う授業でまともに破魔弓術初級を使えるのは良くて五割程度だと言うのに、この年代はなんと八割にも上る人数の子供達が破魔弓術初級を使って見せたのだ。


 その要因はいくつか考えられる。


 俱利伽羅が受け継がれていくにつれて能力の高まりが確認されていたり、倶利伽羅の中で一つの偉業を成し遂げた者が出現した時にそれに連なる者が覚醒するなど、様々だ。

 今回の場合は後者であり、まず初めに同年代の四家に加えて小暮日家の子まで破魔弓術初級を扱って見せた。それに触発された子が次から次へと成功させたものだから、後に続く子もまた初級を形にしていく。残る二割の子も、途中で火が消えたりする程度で、まるで使えないという子が存在しなかった。


 中でも特異点足り得たのは、四家でも無ければ小暮日家でもない、名も知らぬような最底辺の家の者。

 燼月永新が現役の倶利伽羅に比類せしめる威力の初級を放ったという思いもよらぬ現実に、夢か現か判断付かなかったのだと言う――。






 煙が上がる。


 破片が散る。


 沈黙が聞こえる。


 永新は目の前で起こった事態をまるで認識できていなかった。

 ついさっき自分が口にした「火打ち」の言の葉が今も耳に残る感覚の中、永新の放った破魔弓術初級は、他の子同様に火を灯して真っ直ぐに的に飛来した。

 ただし、弓に矢を番えてからこれまでの短い間の記憶だけがどこか朧気で、覚えているのは先生の説明が最後であった。


 周囲の唖然とした反応や騒ぎに現状を理解しようと頭を回転させようとするが、突如として尋常ではない虚脱感に襲われてしまう。

 二本足で立っているのもやっとの状態の中で、永恋の声だけが聞こえた。


「――すっごい! 凄い凄い凄い! 凄いよ永し……、永新ッ!?」


 地面に付いた赤い染みが鼻血であると気付くよりも先に永新は意識を手放し、訓練場の地面に倒れてしまうのであった。


 視界の端に見えた、四家の視線に気付く事も無いまま。











「――目が覚めたか」


 浮上した意識に瞼を動かすと、ぼやけた視界の中で聞き慣れた声が聞こえた。


「……せん、せい」

「まだ横になっていて良い。今、燼月の体は霊力を大きく損耗している状態にある。そうなったら体を休める方法でしか回復する方法は無い」

「でも……」

「燼月は気苦労な性格だな。授業の方は代わりの教師に任せてあるから、燼月が心配する必要は無い。……その代わりと言っては何だが、燼月の身に起こった事を霊力の性質と合わせて教授しよう」


 すっかり目が覚めてしまったとは言え、体を起こす気力さえ湧いてこないような脱力感は味わったことが無く、恐怖さえ覚えてしまいそうではあったものの、先生のような信頼に足る人物が傍にいてくれる事は何よりも安心感を与えてくれるのであった。


 そして、抜け落ちた微かな記憶の隙間を埋めるように語られた事実に、永新は耳を疑うのであった。


 ――曰く、破魔弓術初級を放つ際、先生の説明通りに永新の身体に眠っていた霊力が()()()のが原因だと言う。


 そこまでは、同じように破魔弓術初級を扱うことが出来た他の同級生と同じ。


 他の生徒が初級を放つことが出来ていたように、霊力は強い思いに応えてくれるもの。

 今回の授業の目的は、幼い体に霊力を宿すのが目的であり、そのために必要な憧れであったり目標を見据える事で明確に満遍なく()()()()()()()()()()を目指していた。四家や小暮日家に関しては、持ち前の類稀なる優秀な才能や家庭教師の教えでもって事前にこの段階を済ませているような状態であったため、問題なく破魔弓術初級を華麗に決めて見せた。


 そして先生の目論見通り生徒の全員が霊力の励起に成功したのだが、一人だけ例外が存在した。


 言うまでもなく永新の事なのだが、この場合の例外と言うのは、励起の具合であった。


 本来の励起と言うのは、例えるならば蛇口を軽く緩めた程度のチョロチョロと水が出る状態の事を指すのだが、永新は全くの別。

 蛇口どころか元栓を引き抜き、貯蔵庫の分までもまとめて一気に放出したのだと言う。


 そうなるとどうなるかと言うと、四家や小暮日家ですら火を点けるので精一杯だった的を、内から爆散させるだけの過剰とも言える威力を持った破魔弓術初級を行使したという事になる。それだけの威力があれば、最下級の妖魔ならば狩れると、実際に倶利伽羅として妖魔を討滅していた先生からのお墨付きまで頂いてしまった永新は、不安げな瞳を揺らす。


「――それはつまり、四家の面子を、潰したって事になりませんか……」

「気にする必要は無い。初めての霊力行使で通常よりも大きな霊力を扱えた者は、大成すると言われているからな。かの有名な世界的に活躍する倶利伽羅、(すめらぎ)竜火(りゅうび)殿も、六歳当時には十全に霊力を扱っていたと言われているからな。言わば、()()と言うものだ。それに並ぶ燼月は、もっと自分に自信を持つべきだ」


 そう言って励ます教師ではあるが、その心の内には永新にも言えない一抹の不安が過ってはいた。


 強い思いに応えてくれる霊力は、憧れや尊敬、目標や目的と言った前向きな、正の感情に応えてくれる半面、妬みや嫉み、屈辱と言った、負の感情にも例外なく呼応する。そう言った感情が強ければ強い程、加えられる圧力は大きく、霊力が励起する勢いも苛烈になると言うもの。


 故に、永新がどちらの感情で霊力を励起させたのか不明の状態では、再度過剰な霊力の行使が行われる可能性が高い。今回は気絶で済んだから良いものの、霊力の異常な喪失は命に関わるためおいそれと口にすることは出来なかった。せめて永新の身体が出来上がる頃、肉体が精神に追いついてくるまでは、それを刺激しないよう見守る事しか出来ないのであった。


 せめて、親御さんには報告しておこうと考え至るのみで、永新本人には口にするつもりは無かった。


 そして子供と言う存在は存外単純で、自分が特別だと感じればそれだけで心は満たされると言うもの。

 いかに精神年齢が高い倶利伽羅の子供と言えども、やはり憧れる対象は倶利伽羅最強の男。それと同列に扱われたものだから、永新の表情を覆っていた不安はいつしか輝かしい未来を見据える瞳に変わっていた。


「僕は……強く、なれますか?」

「これからの燼月次第だろう。だが、まずは霊力に耐え得る肉体作りが優先だな。一度励起した霊力が眠りにつく事は無いから安心して取り組むと良い――どうやら、迎えが来たようだぞ?」


 迎えに来たのは、父親の永政。

 当然だろう。母親はベッドで横になって立ち上がることすらままならないのだから。


 その後、迎えに来た永政は先生としばらく話をした後に、その間に少しだけ動けるようになった永新を背負って帰路につくのであった。父親の背中は広くて安心できるものであり、永新が霊力に目覚めた事にをまるで自分の事のように大袈裟かと思える程に大喜びする父親に、永新も鼻が高くなった思いで語り合って母親の待つ家にまで帰るのであった。


 結局途中で疲労からくる睡魔に負けて眠ってしまったのだがこの日、永新は()()()()()()()()()()()()()ようになった。











 明くる朝、新夏に背中を押された永新は緊張と自信の狭間で揺れる心持ちのまま教室に入ろうとしていると、背後から突如として手が飛び出してきては、永新の肩をガシッ、と掴んでくる。


「――ひょわっ!?」


 すわっ、永恋か!? と思い、驚き竦めた肩のまま恐る恐る目線を上げていくと、そこには太陽のように明るく、熱い笑みを湛えた晴也、天炎晴也の姿があった。


「よっ、()()っ! 昨日は大丈夫だったか? いやぁ、凄かったなお前の火打ち! 神童なんて呼ばれて、俺達も鼻が高いってもんだぜ」

「あれは偶然と言うかなんと言うか……」

「教室の前で屯されては他の方に迷惑ですよ、晴也さん、()()()()

「ね? ウチの言った通り、永新は凄いんだからっ!」


 これまで天炎晴也は永新の事を「燼月」と呼んでいて、火加々美甘奈に至っては永新を視界に入れようとすらしておらず、故にその名を口にしたことは一度足りとてなかったと言うのに。

 それが、昨日の訓練場での出来事があった翌朝からこうも態度を急変させてくるのを見ると、永新は二人が何を考えているのか分からなくなる。


 困惑した永新を他所に、晴也と甘奈に続いてやって来た永恋に背中を押されて教室に入ると、永新の元に生徒が殺到する。


「――ぅ、わっ!?」


 やれ「どうやってあの力を使ったのか」や、「あの時倒れたのは霊力の使い過ぎなのか」等々、要約すればそう言った内容の質問が四方八方から投げかけられる。中には永新を「神童」と呼ぶ同級生もおり、永新は先ほどから続く困惑に加えて今まで感じた事のない充足感を覚えていた。


 空気に徹しようとしていた昨日までの窮屈さとは違って今日は、窮屈さどころか開放的なまでの気分を味わう永新はどこか有頂天であった。

 そのせいか、昨日までならば気付いていたはずの人からの視線と言うものに鈍感になってしまい、共に無言の圧を放つ獅子王と七星、親密さを醸し出した晴也と甘奈と言った四家からの視線に気付くことが出来なかった。


 残る永恋はと言うと、大好きな永新が皆に認められた喜びと、自分だけの永新が取られてしまったような感情に揺れて、どこか複雑な思いを抱えて見守っていた。


 そんな永新にとって憂鬱でしかなかった朝の時間に革命が起こった歓びは、先生の到来によって中断させられる。

 朝の挨拶もそこそこに、先生は教室の色めき立った空気を見透かしたように永新の方をチラリと一瞥した後、霊力の授業を始める。


「――先生! 永新のような霊力を、俺達が使う事は出来るんでしょうか!?」


 そんな中、先生の言葉を遮って挙手をした晴也が、恐らく教室中の誰もが気にかかっているであろう疑問を真正面から教師に投げかける。

 未だ天炎晴也から下の名前で呼ばれる事の違和感が拭えずに、一度は散ったはずの教室中の視線が再び永新の元に降り注ぐ感覚に、思わず縮こまってしまう。


 そこでようやく冷静さを取り戻した永新は、永新に注がれる視線の中に懐疑的な視線が含まれている事に気が付く。視線の主も、視線の意味も分からなかった永新であったが、晴也の問いに続いた先生の言葉でその意味が判明する。


「霊力の励起は、こればかりは才能と言う他無い。つまり、燼月はあれだけの霊力を一度に励起させる才と時期に恵まれたのだ。しかし、だからと言って他の皆に才が無いという訳ではない。通常、霊力の励起は段階を踏んでいくもの。体を流れる霊力に慣れてからまた一段、そしてまた一段と昇っていくのが通常の所を、燼月はただ他の皆よりも少しばかり上からのスタートだったという事のみ。霊力の励起と慣らし、それに加えた鍛錬を弛まなければ、早い者では二年から三年あれば十分に燼月に追いつけるだろう」


 四家や永恋のスタートが四半期から半年の有利であったとすれば、永新はいきなり二年から三年もの有利を得たと言う事になる。

 これを生かすも殺すも、永新次第である、と言うのは昨日、医務室のベッドの上で先生から聞かされた内容と何ら変わらない。


 するとそこで、晴也とはまた異なる男子が手を挙げ発言を口にする。


「――先生! 燼月は下級の家です。家庭教師も付けれないような家の子が、我々は疎か四家を出し抜く事が本当に可能なのでしょうか。もしかしたら……」


 言葉の尻を掴ませずに憶測を呼ぶ口ぶりをした男児に続いて、その他にも数名の同級生が声を上げる。その内容は「不正をしたのではないか」と言うものばかり。よく見れば、登校直後に永新を囲いに駆け付けてきたのは、燼月家と同じ最下級に程近い家の子供達ばかりで、残った中間から上位と呼ばれる家柄の子供達は総じて訝しむような視線を永新に向けていた。


 段々と騒ぎが大きくなっては、永新の肩身が狭まっていく感覚の中、先生の喝が教室中は疎か学園全域に響き渡るかのような音を轟かせる。


「……昨日も言っただろう。他人の実績を羨む事はあれど、妬んだところでお前たちが強くなる事は無いと。燼月の霊力には何もおかしなところはない、正真正銘燼月本人の力であり、才能だ。……丁度良い機会だから教えておこう。霊力は自分の身に眠るものを励起させる以外に飽和量を増やす方法は、無い。外部からの影響で霊力を増す方法は、【霊具】と呼ばれるものを身に付ける以外に存在しない。倶利伽羅が身に纏うあの和装こそが霊具であり、成人の儀を超えることが出来た者にのみ与えられる品だ。そして、それ以外の方法で霊力を増強する事は、倶利伽羅において禁忌に指定されている。もし仮に励起以外に霊力を増強する薬や術に頼ったのであれば、それらは全て外法と見做され、この世界において()()()()()()()()()()()事になる」


「妖魔と、同じ扱い……ですか?」


「外法については家庭教師が取り扱ってはならないから、四家の誰も知らないのも当然だ。天炎、この世界において妖魔とはどんな存在か分かるか?」


「……妖魔は、人を襲う悪い存在。倶利伽羅が、駆除しなければならない存在です」


「そうだ。つまり、外法を用いた倶利伽羅は、同じ倶利伽羅の手によって葬られる。この意味が分かるか? 今、燼月に外法を用いたのではないかと疑いかかった者は、燼月に対して『お前は妖魔だ』と言ったのと同じ事だ。……これ以上私の口から燼月を貶す言葉を出させるようであれば、私は今日これ以降の授業を放棄する。燼月は、紛れもなく才児、この場にいる誰よりも神童である事実は変わらない。分かったのなら、無駄な話は終いだ。黙って席に付け」


 心底不快である、と細められた奥に見える眼光は教室の誰もを黙らせ、授業が再開される。

 先生が認めてくれているという事実だけでも救いであると言えるが、それは永新が先生の後ろ盾を得たという意味では無い。逆に、先生に気に入られている、贔屓されている、と言った反抗の種を与える要因になりかねなかった。


 実際に、先生の機嫌を損ねた結果に至った男子生徒は忌々し気に永新を睨んでいた事から、先生の一声では燻る火種を完全に鎮火せしめる事は出来ない。


「永新、帰ろ?」

「う、うん……」


 永新にとって、昨日までと変わらない対応を見せる永恋の存在はありがたかったが、四家である晴也や甘奈の手の平返しを見た後では純然な思いで永恋を見ることが出来なくなっていた。何かふとした拍子に永恋の気が変わって永新を見限るかもしれないのだと思うと、永新は気軽に永恋に信頼を寄せる事は出来なかった。そもそも、成人の儀までに永恋の気が変わる事を望んでいたはずなのに、今では気が変わらないであってほしいと願う自分の傲慢さに、永新は自分で自分が嫌になりそうだった。


 教師の一声で表立った永新への悪意は形を潜めたものの、残る種火は今も燻り続ける。

 その証拠に、どこか気まずい空気が漂い、集中し切れていない授業の時間が終わって大人の目と永新の姿が無くなったと同時に、教室には悪意が零れ出る。


「……どうするよ。このままじゃ同期の筆頭は四家でも上位家でもない、最下級の燼月永新に取られる事になっちまう」

「そうなってしまっては、私達は総じて大目玉。勘当もやむなしでしょうね」

「僕たちの誰かならまだしも、どうしてよりによってあんな最底辺の奴に才能なんかが……! 所詮は僕たちの金魚の糞じゃないか!」

「言葉が汚いわよ、獅子王。でも、そうね、このままじゃ私達の誰一人としてお父様やお母様のご期待に応えられない。そうなったら、やる事は一つかしら?」

「はぁ……。これで燼月永新が嫌な奴なら困らなかったんだけどな」

「あら。晴也さんは気に入ってまして? ()()を」

「悪いヤツでは無いことは確かだろ。じゃなきゃ永恋が気にかけるはずがねぇ」

「小暮日家は、確か過去には上位四家に名が入っていたと聞いた事があるが、事実なのか?」

「永恋はそう言うの気にしない感じだったけど、腹の奥じゃ何考えているか分からないわよ。正直私は最下級の家なんかよりも、永恋の方がずっと怖いもの」

「燼月永新を筆頭にさせないために出来る事は全力で。ただし人目に付かないように。最難関は永恋の排除だろうな。そこはクラスメイトに任せるか」

「私達では怪しまれかねませんものね。神来戸さんと御厨さんは()()が勉学や鍛錬に集中できないよう細工をお願いできますか?」

「……最終的に僕と七星に罪を被せて、知らぬ存ぜぬを貫くつもりか?」

「あら、そんな簡単にバレてしまうような間抜けな真似は……なされないですよね?」

「……当たり前だ。それに、僕は僕たちの中でなら誰が筆頭になっても良いと思っている。それくらい、君達には感謝もしているし、尊敬もしている。まぁ、だからと言って僕が筆頭を諦める訳じゃないんだけどね」

「私も同じ気持ちよ。それで、晴也はどうするの?」

「俺か? 俺はそう言うの、好きじゃないからな。今日と同じように立ち回るだけだよ。どっちかと言うと燼月永新寄りの立場で立ち回らせてもらうくらいかな」

「好きじゃないからって、こっちの邪魔はしないで頂戴ね」

「好む手ではない、ってだけだ。必要なら俺はなんだってするぜ。そのためにも、先生の目を誤魔化す役が必要だろ?」

「今日のアレは、先生に目を付けられないように、か? 周到だな」

「情報共有はマメにお願いしますね、晴也さん。それと、簡単に絆されたりしないでくださいね」

「そんな訳無いだろう。共通の敵だって言うのは分かってるっての。俺を誰だと思ってるんだ? 天炎晴也だぞ?」


「天然で暑苦しい、ですね」

「馬鹿で流されやすい、だな」

「すぐに調子に乗る脳足りん、かしら」


「……それは、褒めているのか?」


 四家のみが残る教室に、晴也の問いを肯定する声が揃う。











 学園の教室でそんな物々しい会議が行われているとも知らずに、永恋と途中で分かれた永新は軽い足取りで燼月家に帰宅する。

 確かにその日もいつものように嫌な思いをした永新ではあったが、先生から認められている事実、誰もが羨む才を自分が持っている事。そして何よりも「神童」と呼ばれた事が鼻高く思え、永新の足取りは軽いものだった。


 有り体に言うのであれば、永新は今、調子に乗っているのであった。


「ただいま――」


 いつもならば真っ先に母親の待つ寝室に向かうはずが、今日は玄関に知らない女性物の靴が置かれている事に気付いて足を止める。父様に客人か、と思い玄関で頭を悩ませていると、リビングから永政が姿を現す。

 今日は俱利伽羅の和装――霊具に身を包んではおらず、どこにでもいる穏やかな父親のような風貌の永政は笑顔で永新を手招きする。


「どうしたの、父様」

「永新が力に目覚めたって聞いて居ても立っても居られなくってな。燼月の報酬で雇える最高の家庭教師を手配してもらったんだ!」


 過剰とも思える程喜んでは息子に期待を背負わせる父親に手を引かれ、永新は恐る恐るリビングへの扉をくぐる。


「――っ」


 その先には、白い妖精が佇んでいた。


 ――白い。


 彼女を目にした永新が抱いた第一印象は、とにかく「白い」としか言いようがなかった。


 永政がこだわった家具の一つである革張りのソファに腰かける後姿に見える、何一つとして混じり気の無い白い髪はとにかく美しかった。

 それは決して年を召している象徴の白さでは無く、むしろ縁遠い、洗練された生命の息吹すら感じられるような白さ。


 かと言って、永恋のような柔らかさも、新夏のような母性とも違う。そう言った物を削ぎ落したかのような、一面の銀世界に立たされるかのような鋭い寒さすら感じられる初雪の如き純白さは、それ以外の色が全て余計なものに思える程に、白く、それでいて美しかった。


 言ってしまえばそう、永新は見た事も無い輝きを前に、ただひたすらに見蕩れてしまっていた。

 こんなにも綺麗な人に家庭教師になってもらえるのかと、自分の功績でもなんでもない事実を前にどこか鼻高々く思える永新は、これは自慢になるぞと息を飲む。


 そこで、永新を案内する永政の声で、女性は徐に腰を上げ振り返る。

 どこかからか圧し掛かる肩への重圧を受け我に返った永新は、思わずバツが悪そうな表情を浮かべた後に、家庭教師として、先生として接する事になる女性を見据える形で相対した瞬間、永新はそれまで調子に乗っていた事も、皮算用に馳せていた頭もすっかり冷めて、背筋に走った寒気から、一歩二歩と後退ってしまう。


「――ッ」

「初めまして。家庭教師の、月下(つきした)(かをる)と言います。これからよろしくお願いしますね、永新君」


 月下の病的なまでに白い肌を見て後ずさった訳では無い。

 調子に乗った頭に冷や水をかけられたかのような感覚で我に返った永新は、感じ取れた不気味な感覚に月下と名乗る女性をまじまじと観察する。


 襟袖に薄紅を織った月白の霊具に身を包んだ月下は、永新を見るや否や、苺のように赤く実った唇がまるで獲物を見つけたかのように歪めて、その隙間から見えた鋭い犬歯、耳に残る不協和音のような声音から、永新は体を強張らせたのであった。

 加えて、女郎蜘蛛もかくやと言える、光を反射しない真っ黒な瞳。それが永新を捉えて離さない恐怖心は、威圧感とはまた違う、言いようの表せない忌避感と言うものが永新を後ろへ逃がしてくれた。


 だと言うのに、永新はそれに違和感すら感じていないような父親が添えた背面の手によってそれ以上の後退は許されなかった。


「……っ、よろしく、お願いします」

「はい。明日から、よろしくお願いしますね」


 永新は今すぐにでも首を横に振りたい思いを堪えて、教育された通りに挨拶を返す。

 途端、月下は霊具が床に着くのも躊躇わずに永新の目線に合わせて膝を屈め、永新の頭に手を伸ばす。


 先に感じた忌避感から思わず体を強張らせてしまう永新であったが、恐れるようなことは一切起こらないどころか、月下の冷たい手の熱が異様に心地良く、目線に合わせて近付けられた透き通った肌の微笑みからは忌避感などは微塵も感じられなかった。


 明日迎えに来ますね、とだけ言い残して燼月邸を後にする月下の声音は、まるで人が変わったかのように朗らかで、凛とした声にむしろ安心感すら覚えるのであった。






 翌日、永新は注目されるようになった学園から授業終わりと同時に永恋に腕を引かれ抜け出しては、帰路についていた。既に永恋と別れ、一人歩く帰り道はどこか気楽でありながらも、どこか憂鬱でもあった。


 その最たる理由は、他でもない家庭教師、月下香。

 彼女の雇用を、永新が誰よりも心を許す相手であり、永新を誰よりも思う存在である母親、新夏が断固たる反対の意を示したからであった。


「ただいま……」


 家に帰ると、いつもならこの時間は倶利伽羅としての職務を全うしているはずの父親、永政の靴が乱雑に脱ぎ散らかされており、いつもなら家電の駆動音しか聞こえてこないはずの家の中に喧騒が入り込んでいる事に気が付く。


 音の出所は、母親の寝室。

 永新は着の身着のまま、扉に近付いて僅かに開いている隙間から目と耳を忍ばせる。


「――だから言ってるじゃない! 永新には家庭教師は必要ないって!!」

「違う! 永新は燼月家を背負う子だ、才能だってある! それを伸ばしてやるのが、当主としての役目なんだ! どうしてわかってくれないんだ!?」

「分かってないのはあなたの方でしょう!? 永新の、あの子の強さは優しさなの! 目先の力に固執する必要は無い、これからゆっくり時間をかけて成長させるのが一番なはずだよ!」

「そんな悠長にしていられる時間なんて無いんだ! 永新が四家すらも超える倶利伽羅になるためには、今この瞬間から鍛えなければ、燼月家は一生最底辺のままなんだ!!」

「そんな事、永新には関係ないじゃない! あの子にはあの子の人生があるの! 家の為に生きるなんて、そんな窮屈な思いをさせるために私はあの子を産んだんじゃないの! 幸せになってもらうために私は――ッ、ゲホッ、ゲホッ……!!」

「……永新は、燼月家の希望なんだ。永新が燼月の名を大きくしてくれれば、新夏もより良い治療を受けられるようになるから――」

「ッ、永新は、私達の道具なんかじゃ、ないのっ! どうしてそれが分からないのッ!?」

「倶利伽羅の世界では力の家格が全て。それを知らない君じゃ無いだろう!? それらさえあれば、どうとでもなるのが――」


 普段温厚で口喧嘩の一つもしない両親の諍いを目の当たりにし、耳にして、永新は身が竦む思いだった。豹変した両親の姿を見て、扉の前で立ち尽くすのがやっと。やめてくれ、と部屋に入る事すら躊躇われる空気の中で、自分の逸る呼吸音が、急激に高鳴る心拍音が耳に入ってくる。


 血の気が引いて、今にも倒れそうになったその時――。




「――ッ!?」

「……永新君、大丈夫、静かに息を吸って、吐いて。ゆっくり、ゆっくり後ろに下がっておいで」




 視界と耳を塞ぐ冷たい熱に覆われ、永新の耳には囁き声のみがするりと入ってくる。

 頭が痛くなって、体が震える記憶を植え付けられた両親の喧騒は、完全に聞こえなくなっていた。


 振り返って見上げる永新であったが、声を発するより先に口元に人差し指が置かれ、白い彼女に手を引かれたまま音を立てることなく廊下を抜けて玄関へ、そのまま燼月邸の外へと抜け出して行く。


「勝手に連れ出してごめんなさいね、永新君。あのまま放って置くことは、出来なくて」


 西日に照らされて尚も際立つ白さを誇る家庭教師、月下香はそう言って、穏やかに目を細める。


 普段穏やかな両親の豹変を前にしたせいか、解放されたと思っていた息苦しさ、窮屈さが以前にもまして永新に纏わりつくように思い出され、永新は思わず泣き出しそうになる。


 ――男児たるもの、泣くべからず。


 倶利伽羅の生まれとしてそう叩き込まれてきた永新は月下の前で泣くものか、と口を「へ」の字にして我慢して、何とか月下の言葉に首を振るだけで感謝の意を伝えようと試みる。言葉を口にすれば泣き出してしまいかねない状況である程に永新の堰は決壊寸前であり、そこに温かな抱擁が加われば、所かまわず涙を見せてしまうと言うもの。


「私で良ければ胸を貸しましょう。貴方の心が穏やかになるまで」


 怖かった、母様と父様が、と永新が思いの丈を吐き出す度に、月下は頷きながら頭を撫でてくれる。そのひんやりとした肌が触れる度に心地よく、永新はさらに勢いつけて、わんわんと泣き続ける。


 しかし、燼月家のある土地は周囲に一般人の邸宅も置かれた住宅街であり、そのど真ん中で誰もが目を引く白い女性が幼い子供を泣かしている様は、風貌関係なく人目に付く。

 だと言うのに、奇異の目を向けられても、騒ぎが大きくなってきても月下は永新を抱いて離さず、気が済むまで泣かしてくれた。


 結果、騒ぎに気付いて家から飛び出してきた永政は二人を家に引き入れ、その場で月下の解雇を宣言した。


「――残念な結果ですが、受け入れましょう。今後も末永くお幸せに暮らしてくださいませと、奥様にもお伝えください」

「先生……」


 月下は、永政の解雇宣告に抵抗することも無く素直に受け入れた。

 永新からすれば父親の言う事は不当であり、永新は月下の味方をすべく口を開こうともしたのだが、月下本人から止められてしまっては、父親の決定に口を挟むことは許されなかった。


「私は貴方の先生にはなれませんでした。なのでその呼び名は相応しくありませんね」

「でも……」

「それでも、永新君が私の事を呼んでくれると言うのならどうか、(ハク)と呼んでくださいな」

「ハク……。また、もう一度、会えますか?」

「んふふ。その時が来たら、またお会いしましょう、永新君」


 たったの二回。

 月下、もとい(ハク)と会ったのは昨日と今日だけだと言うのに、永新はどうしてか、彼女を引き止めなければならないと感じていた。


 燼月家を後にする白を追って家の外に出たは良いものの、白は変わらぬたおやかな仕草で永新の額に口づけを落として去って行く。


 たった二回の出会いとそれだけで、永新の脳裏には決して消えない存在感を残したは良いものの、次の瞬間。






 ――シャララン。






 小気味よい鈴の音が、黄昏時の住宅地に鳴り響く。


 それが白の笑い声だと言われても違和感ない程に自然な、鈴の音色。

 しかし日暮れがかる住宅街には不自然で不釣り合いな程に大きな鈴の音に、永新は思わず顔を上げる。


 顔を上げた先、視線の先には沈み行く茜色の夕日が眩しく永新を照らしているのみで、視線の先には白い女性の影も形も存在していなかった。


「……僕は、()()()()()()()?」


 そして同時に、永新は自分がどうして燼月家の前で立ち尽くしているのかが分からなかった。

 思い出せるのは、家庭教師の背中のみ。それが意味する事が何なのかを推測するには、永新の頭があれば十分だった。


()()()()()()


 倶梨伽羅の指導が出来るのは、現行の倶梨伽羅か前線を退いた倶利伽羅のみ。

 後者は学園の教師として斡旋される事が多く、必然的に家庭教師は前者になる。しかし現行の倶梨伽羅を雇うには大量の金銭がかかり、現状維持が精一杯の最底辺倶利伽羅である燼月家には手が出せないような金額ばかり。そのため、最底辺の家格にある家は両親であったり兄や姉と言った先達に学ぶのだが、燼月家は永新のみの一人っ子。加えて母は動けないため父が率先して仕事をこなさなければならず、永新の面倒を見る暇はない。


 そう言った実情を汲めば、永新に家庭教師を見繕おうとした永政であったが、給与の低さに断られたと言う流れ(シナリオ)は易々と想像つくのであった。


 故に、永新は両親が待つ母の寝室へと戻り、こう言うのであった。


「僕、家庭教師なんて要らないよ。一人でも頑張るから。それで、母様を助けるんだ」


 と。

 その言葉に加えて、鈴の音を耳にして永新同様に白い家庭教師を記憶から消した永政は先程までの夫婦喧嘩を聞かれていたのだと察し、申し訳なさそうに頭を下げる。


「すまないっ、すまない、永新……!」

「永新、おいで……!」


 こうして永新は家庭教師を得ることなく、学園と独学のみで倶利伽羅の道を突き進む事になる。

 しかし、それはボートレースにおいて、積まれたエンジンの用意も無い、手漕ぎでの参戦と言う酷く惨めな結果が待っているだけの未来に突き進むのと同意である事を、永新は知る由も無かった。











 ――永新が「一人でも負けない」と誓ってから、二年の時が経った。


 それは長くも無く、かと言って決して短い時間であったわけでは無い。

 子供が成長するには十分過ぎるだけの時間が、流れていた。


「――火打ちッ!!」


 風を切る音、的に矢が付き立つ音、爆散する音。

 自分以外にも多くの生徒が活用する訓練場で、過去に日の目を浴びた永新に注目する人影は、たった一つのみであった。


「うーん、次はもっとこう……グッとやって、パッとやって、バビュンって感じでやってみて?」

「ごめん永恋。何言ってるか全然分かんないよ……」

「えー、分かんないかなぁ。貸してみて!」


 永新と永恋は年を二つ重ね、中には三つ重ねた同級生もいる中で成長を実感できていないのは、永新のみであった。

 その証拠に、二年前のあの時点では永新がトップの霊力の持ち主であったものの、今では――。



「――破魔弓術中級、火炎鳥」



 けたたましい馬の嘶きのような高音が訓練場内に響き渡り、永恋の番えた弓に火の鳥が宿る。

 火の鳥は羽を広げて的に飛来し、横に並んだ三つの的をまとめて燃やし尽くした。


 それは永新の火打ちなど比べ物にならない程の超火力であり、今も的があった場所には轟轟と燃え盛る炎が残されている。

 流石に永恋は四家に並んで同級生の中でも特別であり、皆が皆、破魔弓術中級を扱えるわけでは無い。とは言え、現段階で破魔弓術初級の中でも火打ちしか使えない永新は、第二次性徴を迎え始めた同級生に完全に後れを取る状態に置かれていた。


「こう! もう一回、やってみる?」

「……いや、今日は、もう」

「永新、そんなんじゃまた皆に置いてかれちゃうよ? ほら、もっと頑張ろうよ」


 加えて、永新は今もまだ、火打ちを放つだけで霊力切れを起こす体たらく。

 これにも理由があり、初級を収め始めた同級生は次々に霊力でもって肉体を強化する【纏炎】を習得していき、永新との力の差がどんどんと開いていくばかり。


 神童と呼ばれるだけの霊力の励起に成功していながらも、身体の鍛錬に没頭していた永新であったが、当然独学である以上それは非効率極まりなく、その間に家庭教師の力を借りて効率的な霊力の励起に励んだ上位家の面々はどんどんと追いついてくる。

 辛うじて身体能力だけは優れていた永新であったが、纏炎を覚えた同級生たちが自分を置いて先へ駆け抜けていく現状は、いつか味わった底辺の味がする。


 ――神童と呼ばれて早二年。

 最早その名で永新を呼ぶ者はおらず、永新は只人として誹りを受ける立場にあった。


 他にも挙げればキリがない程に永新の足を引っ張る要素は存在するのだが、永恋が言うように断じて永新が()()()()()()()()()()()()


 事実、火打ち一発で気絶していた永新も、三発までなら気を失わずに済んでいる。これを成長と言わずして何と言うのか。


 しかし、そんな植物の如き月日をかける成長速度を鼻で笑うかのように成長していく他の同級生たちからすれば永新の成長など、無いのと同じに見えるものだった。


 永新は今、寝る間も惜しんで鍛錬に励んでいるのだが、どんなに苦労をしても、永新の身体に眠る霊力は応えてくれない。


 永恋の配慮の欠けた物言いに、永新は奥歯を噛み締めて拳を固く握って、喉元まで昇ってきた酸っぱい物を飲み込んで訓練場を後にする。四家の嫌がらせより何よりも、昔から知る永恋にそれを言われることが、永新にとっては何よりも苦しく、悔しいものだったから。


「……ただいま」


 帰宅した永新は、今も変わらず母親が待つ寝室に真っ先に向かう。

 だがそれも二年経った今では意味も変わり、永新は日に数時間しか起きていられない母の世話をするのであった。


 一年前頃から新夏の容態は急変し、かかりつけ医の話では何時無くなってもおかしくは無いとの事。

 それに対する父親の、永政の反応は、かかりつけ医を「ヤブ医者め」と罵って殴り飛ばし、より良い医師に新夏を診せるために昼夜問わず妖魔と戦い続けている。


 故に、永新は永政の分まで母親の面倒を見て、家政婦もいない家の管理を任せっきりにされているのであった。


「今日はね――」


 医学知識も、霊力の知識も足りない永新に出来る事は、ただこうして大好きな母の世話をして、学園であった出来事に脚色を加えて話すことだけだった。


 静かな寝息だけが返ってくる一人芝居も終えて、永新は家の事に取り掛かる。

 兄弟も居なければ、家政婦もいない。そんな燼月家を支えるのは永政の収入のみとは言え、朝は遅刻ギリギリまで母親の世話をして、放課後は鍛錬の時間も割いて母親の元に戻り、家の掃除と片付けに、夜と朝の食事の支度。


 一年近くそんな生活をしていて慣れてきたとは言え、まだ第二次性徴が始まったばかりの永新の身体では不都合も多い。故に時間がかかって、気が付けば時間は夜の十時間近。


 家の鍵が開く音がして玄関に駆け寄ると、疲れた顔をした永政が姿を見せる。


「お、お帰りなさい、父様。ご飯が出来て――」

「――要らない。シャワーを浴びたらすぐにまた仕事だ。着替えを置いておいてくれ」

「……はい、父様」


 いつだろうか。

 最後に誰かと食事を共にしたのは。


 学園でも、昼食時は常に一人。

 これまでは永恋がしつこいくらいに付き纏ってきたのだが、八歳にもなると女性同士で固まる事が多くなり、そうなれば必然的に永新は一人になる。

 そして永恋の守りが消えた永新は、同じく最底辺の家格である同級生に虐められる。


『俺らの事、見下してただろ!』

『お前は倶利伽羅の恥だ!』

『見せかけの塵芥が!』


 最底辺の家格と言えど、虐めてくる彼らの背後に四家が絡んでいる事を、永新は何となくだが察していた。教室から連れ出される永新を見て、神来戸と御厨の二人が笑っているのを、視界の端に確認していたから。あの二人の差し金であるだろうな、とは気付いていた。

 しかし、それに気付いていながらも、永新は先生に虐めの事を告げる事は無かった。


 先生は永新の家庭の事情も知っていて、あれからも何かと永新に世話を焼いてくれているのだが、永新は「大丈夫です」と言って断り続けていた。それもあって先生に相談しづらいというのもあり、永新は自分で自分を「大丈夫ではない」と認める勇気が無かった。大丈夫だと、自己暗示を繰り返し繰り返し誤魔化すことで、永新は泣かずにここまでやって来れたから。


 それとは別に、四家に傷を付けたくないという理由もあった。


『――お前達! 何やってるんだ!?』

『永新、何かされなかったか? 困った事があれば、いつでも俺に言うといい!』

『なんたって俺達は、()()だからな!!』


 そう言って永新を苛める同級生を追い払ってくれたのは、天炎晴也。

 永新が神童だと言われるようになってから今日まで、変わっていく周りの人達と違って何一つ変わりなく永新に接してくれる晴也は、永新にとって唯一の救いでもあった。

 彼が居てくれるから先生に助けを求めなくて済んだとも言えるくらい、晴也の存在は永新にとって学園と言う狭い世界の中での柱。気軽に肩を組んでくれて、二人一組のペア作りでは率先して永新を誘ってくれる晴也を、永新も友達であると認識していた。初めは暑苦しくて敵わなかった存在が、今こうしてその暑苦しさに救われているのだと思うと、永新は過去の自分にもっと心を開けと悔やむ思いだった。


 そんな事を思い出しながら、永新は父親の為にと用意した夕食を片付ける。

 あの様子では朝も帰ってこないのだろうと思えるから、朝食の用意もしない。


 既に睡魔に襲われている永新であるが、これからは自分の時間。

 他でもない四家、天炎晴也から聞いた鍛錬方法を実践する。

 この一年間まともにやって効果が出た実感は無いのだが、効果が無いのでは、と晴也に尋ねたところ、ふとしたタイミングで効果が表れるから続けろと言われ、永新は律儀にもそれを続けていた。


 その内容は、全て肉体の鍛錬ばかり。一日活動して疲労困憊の肉体に鞭打つようで忍びないが、それでも効果が出る事を信じて続ける。現役の倶利伽羅である永政がそれを見れば霊力を励起させる事には繋がらない、意味が無いことだ、と伝えられるというのに、永政は永新に声をかけることなく、新夏にだけ声をかけて出て行った。


 そうして永新は疲れ果てた肉体の末、日付が変わったころに眠りにつく。

 目が覚めるのは早朝で、睡眠もほとんど取れていない状態で朝の支度と母親の世話をして、学園に向かう。

 疲れが残る永新は、学園に言っても舟を漕ぐばかりで、折角の授業の内容も右から左に抜けていくばかり。この一年で、永新は成績をガクッと落としており、その件に関しても様々な憶測を呼び、虐めの言意にもなる。怠慢であると言われてしまう事も多々あり、それに関しては事実であると思い込んでいる以上、永新は黙って言葉の棘を受け止め続ける。


 いくら寝ても寝足りない永新の目の下には濃い隈が出来ていて、いつでも眠たそうにしている永新に、永恋は苦言を呈する事が多くなった。


「……ごめん」

「ウチ、今の永新は嫌い。もっとしっかりしてよ。昔みたいに、かっこよくいてよ」


 永恋も成長したせいか、もう昔のように無条件で永新を好きでいる事は出来ない。

 しかし、今の永新にはこれが精一杯であると言う事を、永恋は知らなかった。知ろうとしていなかった。

 その事が、永新にとっては辛く、悲しいものであると、永新は気付いてほしかった。


 永恋になら「助けて欲しい」と言えるかもと何度も思った事があった。

 だがその度に、永恋の記憶の中にある「神童の頃の永新」との乖離を前に、永恋は永新に文句をぶつけ、永新に芽生えた勇気を無意識に摘み取ってしまっていた。


「……ごめん」


 だから永新は、謝る事しか出来ない。言っても届かないと、諦めがついてしまっているのと同時に、それを口にできる程信頼している相手が、いつの間にかいなくなっていたのだ。


 この頃永新は、学園で「大丈夫」と「ごめん」、この二言しか口にしていなかった。


「謝ってばっかり……! もういい、永新なんか知らないッ!」

「…………ッ、ごめん、なさい……」


 去って行く永恋の背を見て、永新は滲み出る涙を止められずにはいられなかった。


 自分はもう、どうかしたのかもしれない。

 学園で泣き出す程に、限界が近いのかもしれないと自覚した永新は、せめてもの思いで、晴也に助けを求めようと、教室に足を向けた。



 ――だが、往々にして不幸と言うものは重なるもので。



 下駄箱に晴也の靴がまだ残っていることを確認してから教室に向かうと、教室の扉を抜けて話し声が聞こえてくる。

 その声は甲高く、それでいて上機嫌。聞いた事のある声は、御厨七星の声だと判断して回れ右をしようとすると、目的の人物である天炎晴也の声も聞こえてきて足を止めざるを得ない。

 四家の者同士、教室で喋っていても何もおかしくは無いからこそ、永新は扉の影に隠れて耳を澄ませた。


「――最近では好きな相手を試す真似が流行ってる、って、随分下衆だと思わない?」

「彼女たちが言っていた話か。それで、永恋は実際に実行に移したと?」

「永恋が本気で()()を好きなのは、間違いないわ。ちょっとセンス疑うけどね。永恋が()()と距離を取るよう、あの子と仲の良いカナ達にちょこっと言い含めてみればそう言うんだもの。それにあの感じだと、実際にやってるみたいよ? 永恋からも相談されたし」

「見ていて良い気持ちでは無いがな。やられた方の気持ちを考えたことがあるのか」

「私に言われても。敢えて言わせてもらうなら、不安にさせる男が悪いのよ」

「……女って、恐ろしいな」


 それを聞いて、永新は最近の永恋の行動の謎が解ける。

 かと言って納得が出来るかどうかはまた別の話だが。

 永恋と自分を離してどうするつもりなのか、御厨七星が口にした意図にまで考えは及ばない。


 うるさい蝉の声が鳴り響く中、僅かな沈黙の後に二人の会話は再開される。


「それを言うなら晴也の方が怖いわよ。()()にいい顔しながら、こうして蹴落とす算段に参加しているんだからね」


「――ッ!?」


 七星の言葉に、永新は扉の影で息を飲んだ。

 音を立てなかった事だけでも褒めて欲しいものだが、残念ながら永新の精神状況は軽口を言える程平静では無かった。


 学園で唯一味方になってくれた晴也も、他の同級生と同じように永新を蔑んでいたのかと思うと、全身から力が抜けていく感覚に陥ってしまう。


 自分が今立っている地面が不安定になり、高いところから落ちていくような感覚の中、永新は天を仰ぐ。


 ――あの時かけてくれた言葉も全部嘘だったのか。


 そう考え始めると、晴也が駆けつけてきたところには常に先生や他の大人の目があったようにも思える。つまり晴也は、虐めに加担していながらも、彼ら彼女らが先生に目を付けられないよう見て回るペースキーパー。もしくは、永新は晴也と言う四家の友人がいると言う安心感を与える事で、大人たちの目が永新に向かないようにしていたのかと、様々な憶測が永新の頭を過る。

 一度でもそんな考えが染みついてしまえば、永新は先程まで抱いていた晴也への信頼が嘘のように脆く崩れ去っていく。


 思い出してみれば、晴也が味方であるはずならば、いじめ自体その場で無くなっているはずだった。それが何度も何度も繰り返され、その度に晴也が助けに来るなんて都合の良い話、考えるまでもなく怪しいのは分かるはずだろう、と永新は過去の自分を馬鹿にしたような、乾いた笑みと共に涙が溢れてくる。


「……その事なんだが、もういい加減――」



「――ねぇ」



「「ッ!?」」


 教室の扉を引いて現れた俯きがちな永新の姿は、二人にはまるで幽鬼でも現れたかのように映った事だろう。俯いているせいで永新の表情が見えない事が、格下であるはずの永新が恐ろしく映った要因でもあった。

 それに加えて、永新が永恋と帰った事を確認して二人はここに残っていたのだから、永新が戻ってくることなど想像もしていなかった。


「……」


 夏だと言うのに冷え切った教室に、喧しい程の蝉の声が響き渡る。

 そんな蝉の声に紛れて、永新の蚊の羽音のようにか細い声は、二人にとってはやけに大きく聞こえた。


「今の話、本当なの? 晴也……いや、天炎晴也」

「――ッ、永新! 俺は……! もう止めようって言おうと――」

「…………本当なんだ」

「違、くは、なくて……」


 晴也の第一声がもしも「違う」であれば、どれだけ良かったことか。

 そしてその言葉を望んでいた自分がいる事の、なんと愚かな事か。






 ――あぁ、もう、疲れた。






「永、新……?」

「ヒッ――」


 それが分かっただけでも収穫だ、とでも思うかのように上げた永新の顔は、()()()()()()()()


 全てを諦めたかのような、光の無い瞳孔は、七星は疎か晴也さえも映さない。

 ゆっくりと首を動かして去って行く永新の背を、晴也と七星の二人はただ黙って見送る事しか出来なかった。


 ようやく足が動くようになったのは、時報の鐘が鳴った頃。

 五分か、十分か。どれだけ時間が経ったのか分からないまま、晴也はようやく動くようになった足を前に踏み出し、永新を追うように教室を飛び出す。その背には、訳が分からないと言った様子の七星も続く。


「――何、今の!?」

「俺達は、()()()()()んだ!!」

「何よそれ! 絆されたって言うの!?」

「違う! 俺達は永新から、奪ってはいけない物を奪ったんだ! それがなんなのかは分からないけど、このままじゃ、このままじゃ――」

「何言ってるか、分かんないんだけど!!」

「このままじゃ、永新が自殺するかもしれないって事だ!!」

「――ハァ!? 何よそれ、そんな事になったら……!!」

「四家も底辺も関係ない。俺たち全員――取り潰しだ」


 倶利伽羅において、人殺しは大罪極まる。

 それは現世において、戦う力を持つ倶利伽羅にのみ課せられる刑罰。

 懲役も罰金も無い、人殺しを犯した者は情状酌量を汲む間もなく、即刻処刑。加えて、当人の家は善人も悪人も関係なく取り潰される、俱利伽羅においての極刑。


 当然、倶利伽羅の力は妖魔を祓うためのものであり、人に向けられるものでは無い。

 故にその刑罰はとりわけ重くされており、その法が定められた江戸時代から今に至るまで、執行されたお家はどんなに上位家であろうとも例外なく、取り潰しに逢っている。


 其れ即ち、倶利伽羅の力では無くとも、永新がこのまま自死を選択した結果、明るみになるのは虐めの被害。その要因である同級生に目が向かないはずが無く、僅かでも加担していた場合でもその刑罰が執行されるのは間違いない。

 逃れられるとしたら、実際に手を汚していない火加々美甘奈くらいのものだと言えるくらい、永新のクラスメイトは総じて永新を孤独に追いやった。


 晴也が「もう止めよう」と言い出したのは、永新が虐めだけで窶れていっているようには見えず、永新と仲が良いと勘違いした教師から永新の家庭の内情について聞かされたのが要因であったのだが、如何せん、その思考に至るには随分と遅すぎた。


 御厨と天炎が学園を駆け回る異常事態に手を増やして立ち去った永新を探し回ったのだが、永新が見つかることは無かった。燼月の家の場所を知る教師も永恋も、共に学園には姿を残しておらず、同級生の面々は翌日まで震えて眠る事となる。


 ――しかし翌日も、永新は学園に姿を現すことは、無かった。











「……ただい、ま」


 おかえり、と言う返事が返ってこないのを分かっていながらその言葉を口にするのも虚しく思えてきた永新は、覚束ない足取りで母親の元へ向かい、いつも通りの世話をし始める。

 だがその日は終始無言であり、必要な事だけをやり終えたら早々に母親の元から退散して、自分の部屋に閉じ籠る。


 家の事には全く手を付けず、永新は学園の制服を着たままベッドに飛び込んだ。


「……疲れた」


 もしもこの時、永新の手元にロープでもあったなら、それで首をくくっていただろう。


 もしもこの時、永新が刃物を握っていたなら、それで首を掻き切っていたであろう。


 だが、今の永新にはそれをするだけの気力も湧いてこず、ただひたすらに泥のように眠るのであった。

 今だけは全てを忘れて、深い深い、微睡みの中に堕ちていくことしか、出来なかった。


 ――この時点でその身に降りかかる不幸が終わっていない事を、永新はまだ知らない。

 故に、目が覚めて再び絶望する事を知らぬまま、永新は最後となる充足した睡眠に身を委ねるのであった。






「……ん、んう」


 泥のように眠った永新が目を覚ましたのは、明くる日の早朝であった。

 夢すらも見る事のない深い眠りから覚めた永新は、階下から聞こえる喧騒に首を傾げる。

 時間はまだ明け方の午前三時過ぎ。いつもより少しだけ早く目が覚めたのだが、いつもの時間でも喧騒が聞こえる時間では無い。


 不思議に思って着の身着のまま部屋を出ると、見慣れない格好の人物が家の中を行き交うのが見える。

 その出入りする先は、母親が眠る寝室。


「っ!」


 寝惚けた頭に思い浮かぶのは最悪の想定。

 階段を転がり落ちるようにして降りた先では、救急隊の人に驚かれたが、反応している時間も惜しいとばかりに母親の待つ寝室に飛び込んだ瞬間、医者の声が聞こえてくる。


「――午前三時十九分。ご臨終です」


 その声が聞こえた瞬間、永新の頭からサッと熱が引く。

 現実を受け入れられないでいる永新に、医者は否応なく現実を突きつけるが如く、新夏の顔に白い布をかけていく。


 最後にちらりと見えた母親の、新夏の横顔は普段と変わりなく、まだ眠っているだけかと勘違いしてしまう程に綺麗なままで、永新がやめてくれと手を伸ばすより早く、新夏の傍に立っていた永政が永新に歩み寄る。


 その歩様は、母を失った我が子を慰めるようなものでは無く、怒り心頭と言った様子を隠さずにツカツカと永新の元にやって来ては、皺の付いた永新の制服の襟元を掴んで持ち上げた。



「――何故ッ! どうしてッ! 昨日の時点で医者を呼ばなかった!? 答えろ、永新!!」



「――っ!?」

「落ち着いて、落ち着いてください燼月殿!!」



「落ち着いている!! 今この場でこいつを殺さないのが証拠だろう!? 答えろ永新!! どうして昨日の内に、新夏の異変に気付かなかったのか!! 知っていて眠りこけていたとでも言うのか!? お前は――」


「燼月殿ッ、それ以上はいけません!!」




「――お前は、母を見殺しにしたのだぞ!!!!!」




 襟元を持ち上げられ、涙を湛えながらも今にも殺さんばかりの眼光を向ける永政は医療班や医師に止められながら永新に残酷な真実を告げる。


 そう、昨日の時点で新夏の体に異変は出ていた。それこそ、日々の世話をする永新ならば気付かない事が無いようなサイン。だと言うのに、永新はそれを見落とし、先程帰宅した永政がその異変に気付いて医師を呼んだというのが事の顛末。その内容も、永政は医師に聞いて初めて知ったのだが、最愛の妻である新夏を失った今、永政は行き場を失った感情をどこかに放出しなければ自我を保っていられなかった。


 それは二人の息子である、永新もそうであると言う事を、知らずに。


「……」

「黙ってないでなんとか言え、永新!!」

「僕が、母様を……?」

「――ッ、しらばっくれるなァ!!」


 涙を浮かべ、現実を受け入れられないとばかりに呟いた永新。

 それは正しく母を亡くした子供の反応であるが故に、永政の琴線に触れる。


 刹那、医療班と医師の制止から解き放たれた右の掌が永新の頬を襲い、銃声もかくやと言う程の甲高い音と共に新夏の寝室に静寂がもたらされる。



「――」



 左目が暗い。

 顔の左半分が熱い。

 舌に鉄の味が広がる。


 そうして床に転がった永新は、永政にぶたれたのだと気付く。

 何故、どうして、と問いかけたいところだが、恐怖に歪んだ喉は掠れた吐息すら吐き出さず、口は堅く閉ざされたまま視線で訴えようと永政を見上げると、永政は酷く動揺した様子で、自分でも収拾がつかないところで暴れ狂っているようだった。


「お前が生まれなければッ! 新夏は霊力を失わずに済んだッ! 病にも罹らずに済んだんだッ! 俺の目の前から、消えろッ!! 何が神童か、何が才児か……! 俺の新夏を、返せぇッ!!」


「燼月殿ッ、落ち着いて、落ち着いて下され――」


 燼月永政は、その妻である燼月新夏を心から愛していた。

 倶利伽羅としての彼女を、一人の女性としての彼女を、誰よりも愛していた。

 そんな彼女が、出産と同時に霊力を失ったとなれば疑わしきは生まれてきたその子供。


 新夏が倶利伽羅としての仕事が出来なくなったから、と言うのは言い訳に過ぎず、永政は永新を見るのが辛いがために倶利伽羅としての仕事を必要以上に熟し、家にいる時間を少なくした。父親失格だと自分でも理解していながらも、妻よりも子を愛する自分を、どうしても認められなかった。


 けれどもそんな思いは永新が大きくなるにつれて、成長を見せる度に顔が新夏に似てきてくる事からやがて失せていき、最近ようやく永新を自分の子供だと思えるようになってきた矢先、最愛の妻である新夏の死。


 最早永政は生きる意味を失ったかのように荒れ狂い、遂には新夏にも明かしていない、墓まで持っていくつもりだった思いも全て吐露してしまう。


 到底子供に向けるべきではない言葉を口にした永政は、医師や医療班によってその場で取り押さえられるも、気付いた時には永新の姿は寝室は疎か、燼月家の中から消えていたのであった。永政が自分の口にした言葉の愚かさに気が付いたとしても、それはもう、遅すぎたのであった。






「……」


 朝焼けと街灯に照らされた住宅街は人通り全くと言っていい程無く、永新のような小さな子供が一人、それも顔面に傷跡を付けて、裸足で歩いていても気付いてくれる人はいない。

 早朝と言うにはまだ早い時間。周囲に立ち並ぶ住宅では、親も子も関係なく夢の世界にいるはずだろう。

 永新には、母親と寝床を共にすることも無ければ、父親とも共に寝た記憶は無い。母親に関しては病の関係上致し方ないものではあったが、その分の愛情は受け取っていた。だが父親に関しては、永新に対する興味が人一倍薄かった。

 そんな事は無い、と自分を殴り飛ばした父親をフォローするかのように父親との記憶を浚ってみるが、どんなに思い返してみても、永新の記憶に父親と戯れた楽しい記憶など、一切残っていなかった。


「……僕は、父様に、愛されていなかった」


 ひたひたとアスファルトを歩く永新の心は、ただただ虚しい。


 燼月家の為に、と寝る間も惜しんで母親の世話をして、鍛錬も重ねて。

 その結果、父親から向けられたのは感謝とは正反対の真逆の言葉。


 永恋にも見限られ、晴也にも裏切られた永新に残された、唯一の肉親から受けたのは、落胆に加えて「消えろ」と言う言葉。


 最早永新にとって、欲しい言葉をくれる人はどこにもいない。永新を置いて、皆どこかへ消えて行ってしまう。


 ――疲れた。


 永新の心に残るのは、その一言のみ。

 作り笑いを浮かべる事も、出来もしない術の鍛錬も、突き放されるばかりの人間関係も、考える事も、何もかも。


 十にも満たない永新は自然と、車の音がする方へと足を向ける。ひたひた、ぺたぺたと。


 霊力による身体能力の強化、纏炎が使えれば、永新のような子供の身体でも鉄の塊である車に轢かれたところでかすり傷で済む。けれども、それを使えない永新の肉体は脆く、車の前に飛び出せば簡単に轢き殺される。


 轟轟、と音を立てて通り過ぎていく車を見ても、永新は何も感じない。

 ガードレールも、永新のような子供が身を乗り出せば簡単に乗り越えられる。


 次に車が来たら――。

 そう考えて縁石に足をかけた次の瞬間、記憶に残る鈴の音が、永新の耳朶を打った。






 ――シャララン。






「ッ!!」


 その音を耳にした永新は、弾かれるように音が聞こえる方に顔を向け、断続的に続く鈴の音が聞こえる方に駆けていく。


 その音が鳴る方に何があるのかは、分からない。


 けれども、そこに行かなければならないと永新の本能が訴えるのだ。

 だから、永新は駆ける。小石が足の裏を突き破ったとしても。転んで擦り傷だらけになったとしても。


「――(ハク)


 音だけを頼りに入り組んだ住宅地の路地を抜けた先。

 そこにあったのは、真っ白な鳥居と、奥に見える小さな御社(おやしろ)


 その境内に佇む、初雪が如く白い女性。

 一度見たら忘れる事が出来ないような美しいその女性を、永新は今の今までその姿を見るまで忘れていた。その事に違和感を感じる暇も無く、永新は導かれるように、縋りつくようにその女性の元に駆け寄る。



「――(ハク)ッ!!」



 (ハク)は、まるで永新が来ることが分かっていたかのように振り向き、飛び込んでくる永新をその豊満な胸で抱き留める。

 そして、その冷たくも温かな手で永新の頭を撫でながら、永新が心から望む言葉を囁く。




「良く頑張りましたね、永新君。さぁ、たくさん泣いて、聞かせて下さい。貴方が何をしたいのか、何をして欲しいのかを――」




 母親とは違う。

 けれどもどこか似通った穏やかな口調を前にした永新は、たまらず涙が堰を切って溢れ出す。

 体中の痛みを、思い出しては喚きだす。

 心の痛みを思い出しては、(ハク)に強く抱き着くのであった。


 永新が眠りにつくまで、(ハク)はただひたすらに永新の話を聞いては頷いて、「よく頑張った」、「偉い」と言った、永新が欲しくてたまらなかった、永新を認めてくれる言葉の数々を届けてくれる。


 居心地の良い(ハク)の胸の中で、永新は限界を大きく超えて積み重なっていた疲労の重みが、やがて極度の睡魔に置き換わる。

 一定のリズムを刻む心拍を耳にしながら眠りにつく瞬間と言うものは、蕩けるよな甘い安心感を覚え、永新は泥沼に沈んでいくように深い眠りへと落ちていく。



 ――頭上で(ハク)が、恍惚とした笑みを浮かべているとも知らないで。



「…………あぁ、やっとこの時が来てくれた。うふふ、可愛い可愛い、永新。私の為の、永新。()()()()()()()()、永新。……大事な大事な、私だけの、永新――」



 黒一色に塗りつぶされた瞳で、整った眦を歪ませる狂気が、穏やかな寝息を立てる永新を覆い尽くす。



「はぁ……それにしても、本当に長かった。二年もの間、離れ離れだったなんて、私はまるで悲劇のヒロイン。そして永新、貴方は私の、私だけの特別なヒーロー……。あの母親に病を罹らせるのには苦労しました。死に体のくせに勘だけは鋭いのですから、近付こうにも近付けなかったのだけは厄介でしたが、父親がクズだったのは幸運でした。お陰で、永新は私を求めてくれた……」



 (ハク)が知る由も無いはずの永新に降りかかったあらゆる不運、あらゆる不幸を思い浮かべては、白の中に色濃く映る真っ黒な瞳と赤い唇を歪ませる。



「だから今度は一緒に、二人で、堕ちていきましょう……。どこまでも深く。暗闇の、深淵の底に、二人だけの世界に、堕ちていきましょう――」






 その後、永新は父親である永政の要請によって派遣された捜索隊の手によって、その日の夜遅くに見つかり、燼月家に帰される事となった。その間永新が何処にいたのか、と言う疑問が残っていたが、永新は(ハク)に関する事は一切口にせず、記憶の混濁と言う事でその件は治まりを見せた。


 永政からは「気が動転していた」「あれは本心ではない」と言った必死の謝罪が繰り返され、永新はその謝罪を受け入れる。けれども、一度崩れた家族関係はそう簡単に修復できるものでは無く、その時永政と永新の間には決して埋める事の出来ない溝が生まれてしまっていることに気が付いているのは、年幼い永新のみであった。


 ――それから長い年月が経ち、永新含む四家や永恋、彼ら彼女らは、十五の年の頃を迎える。











「……永恋、大丈夫か?」

「まだ、永新と連絡がつかないの」


 除夜の鐘にはまだ早いけれども遅くは無い、クリスマスの余韻と正月に向けての高まりで世間に穏やかな空気が漂う年の暮れに、永恋は祈るようにスマホを手に持っていた。


 六年前に永新の母親が逝去し、いじめに関しても形を潜めたあの頃。

 永新が翌々日に投稿して生きた事でクラスメイトが安堵した光景は、永恋から見れば甚だ不快でしか無かったものの、永恋は当時の自分の振る舞いを顧みて彼らに悪感情を抱くことは出来なかった。何しろ自分も大好きな永新に似たような態度を取っていたからだ。


 同時期に虐めも発覚し、四家は甘奈を除いた三名は当主からキツイお叱りを受け、筆頭の権利を剥奪。

 加えて燼月に対して不干渉を誓い、永新に関してはクラス全体で腫れ物を扱うかのような存在になった。


 そんな中で永恋は永新に罪滅ぼしでもするかのように今まで以上により一層永新に愛を囁くも、学園にいる間の永新は常にどこか上の空であった。


 実質永恋と甘奈の二人での筆頭争いになったため、永恋の小暮日家はこれまで以上に霊力の鍛錬にも力を入れる事になり、学園での授業が終わった後に永新と付き合う時間など許されなくなってしまったため、最近では永恋であっても永新との関りが薄かった。


 そんな中でも、永新と同じ誕生日である永恋は譲れない約束を永新と結んでいた。


 ――成人の儀を、一緒に受かろう、と。


 倶利伽羅には成人の儀と言うものが存在しており、これは満十五歳になった者が満十六歳になるまで繰り返し受けれる儀式の事で、成人の儀を突破した者は倶利伽羅として妖魔討伐を正式に実行できるようになると言うもの。

 期間が定められているのには理由があり、命の危険がある倶利伽羅の活動上未熟な者を正式な倶利伽羅として認める事は許されていないため、例年では同じ学級の四割弱が成人の儀を突破できない言われている。そして、突破できなかった者は倶利伽羅の補佐としての職務が任される。


 現段階で成人の儀を突破していない永恋は【倶利伽羅見習い】であり、正式な倶利伽羅としてスリーマンセルを組んで妖魔を祓いに行くには、この成人の儀を突破しなければならなかった。

 成人の儀が全ての倶利伽羅見習いにとって特別な物であることに違いは無いが、永恋の永新にとってはより一層特別な物であった。


 それこそが、永新と永恋が婚約を結ぶための最終関門。

 今の時点で永恋は永新に対する思いが変わっていない上、他の四家と同じように一度の挑戦で成人の儀を突破できるだけの実力を持っている以上、その関門は最早ハリボテと化しているようなものであった。


 そんな永恋であったが、心配の種は残されている。

 それは他でもない永新の事であり――。


「燼月、成人の儀を超えられるだけの実力、無いんだろ?」

「……永新なら、大丈夫だもん」

「俺も永新は十分な素質があると思っている。……だがしかし、俺も見守っていた限り、成人の儀を超えることは、正直難しいんじゃないだろうか」


 神来戸獅子王の言葉に加えて、天炎晴也が付け加えて永恋の考えを否定する。

 四家は、漏れなく満十五歳を迎えたその日に成人の儀を突破しており、他にも同級生の殆どは成人の儀を突破しており、既にクラス全体の七割が突破しているというまさに豊作の年であるのは間違いなかった。


 しかし、だからと言って成人の儀が簡単なわけでは無い。むしろ今年は年代の成長に合わせて例年よりも難しくしているというくらいだ。

 そんな成人の儀のレベルの高さに加えて、永新の実力を知る彼らが口を揃えてそう言うのだから、彼らの口にする判断は間違っていない。かく言う永恋も、永新の実力では成人の儀を突破する事は難しいと分かっていながらも、それを認められないでいた。


 現実を突きつけられて子供の意地っ張りのようにムキになる永恋に対して、年代筆頭の火加々美甘奈と、同じく成人の儀を一発で通った御厨七星が更なる現実を突きつける。


「逃げたんじゃありませんか? あの方の実力なら、受けるまでもなく落ちるのは目に見えていますからね。それもまた賢い行動とも言えるでしょう?」

「それもあるかもしれないわね。それに、最近あの子、何か変じゃなかった?」

「変……?」

「座額の成績は悪くは無かったのに最近はいつだって机に突っ伏しているじゃない。霊技の実習の時だって、前は追いつこうと必死でメモしていたのに、今ではまるで興味無さそうにしているもの。もう諦めたってことなんじゃないの?」

「……存外永新の事、気にかけてるんだな?」

「んなっ――!? べ、別に気になるとか、そんなんじゃないわよ! ただ、何かが引っかかると言うか……。え、永恋、そんな怖い顔しないでちょうだい。万が一にも、そんな可能性、無いから」


 クラスメイトの前では常に笑顔を絶やさない永恋ではあるが、永新が関わるとより一層表情が豊かになる辺り、本当に心から永新の事が好きなんだと伝わってくる。その想いを幼い頃から抱き続けて尚変わらない事は四家であろうとも永恋を尊敬する点であり、同時にその間に割り込もうなどと考える存在は男でも女でも存在しなかった。


「七星さんの言う事は、私も分かりますわ。他の皆さんと比べて少し、違和感があると言いますか……。晴也さんなら分かるんじゃないですか? あれだけ見てきたのですから」

「あぁ、俺も何となく感じているが、その違和感がなんなのかは分からない。獅子王はどうだ?」

「違和感、ですか。注視したことが無いので、何とも」

「ですが、違和感があろうとなかろうと、永恋さんの成人の儀はもう間もなく――」


 甘奈が次の言葉を発すると同時に、教室の扉が大きく開け放たれ、その場にいた生徒たちは皆、例外なく会話を止め、肩を竦ませる。




「――全員、動くな!!」




 教室に飛び込んできたのは、六歳の頃からこの学園にて面倒を見てもらっている老年の教師。厳しくも優しい、四家からしても恩師と呼べる偉大な教師であった。


 そんな彼と一緒に教室に姿を現したのは、現役の倶利伽羅数名。

 それだけでは驚きはしないものの、飛び込んできた倶利伽羅全員が臨戦態勢であるのだから、四家も身構える。


 しかし教室を見渡した倶利伽羅は目的のものは見当たらない様子で手にかけた得物を下ろしていく。

 その折を見て、筆頭である甘奈が一歩前に歩み出て事態の把握に取り掛かる。


「先生、これは、一体……?」

「う、む……。これは、だな……」


 どこか言いづらそうにする先生は頻りに永恋の方に視線を動かす。

 先生の心情を理解してか倶利伽羅が代わりに説明しようかと言う打診に制止をかけ、先生は「驚かずに聞いてくれ」と念を押してから説明を始めた。




「燼月に、燼月永新に……外法を使用した疑いが、かかっている」




「「「「――ッ!?」」」」


 四家のみならず、先生の言葉に教室全体が息を飲む。

 その中でただ一人、教師の言葉に理解が追い付かない様子の少女が一人。




「――嘘……」




 その言葉と共に小暮日永恋の手からスマホが落ち、返信の来ない画面にヒビが走るのだった。











「――あぁ永新。ついに勘付かれてしまいましたね」


 何を持ってそれに気付くのか、永新は長い付き合いでも底知れぬ女性、(ハク)の声に興味を示すことなく脱衣を繰り返し、やがて上裸になって女性と相対する。


「今日で、完成するんだろう。これで、俺は母様の元に、行けるんだろう――」


 十五になった永新は、顔付きは精悍になり、鍛え上げられた肉体は若さの塊のように生気を発している。その肉体は、実習試験で一位の成績を博した天炎晴也をも凌ぐほどに絞り上げられているのだが、永新にとってそれは自身の一つにもなり得ない。

 永新の縋るような問いに対して、(ハク)は否定も肯定もせずに感慨深げに呟く。


「……長かったですね、永新」


 外の肌を差すような寒さとは打って代わって、永新と(ハク)がいる室内には暖炉が置かれ、温かな熱が体を包む。


 八つの時に出会ってから、今日に至るまで約七年近く。

 その間、永新は永政の下で生活を送りながらも(ハク)と共に居る時間の方が長かった。それは他の者も同様で、学園の誰とも比較にならないだけの時間を、(ハク)と共に過ごした。


 (ハク)は様々な知見を永新に授け、実際に二人だけで妖魔退治に何度も向かった。

 当然、見習いの倶利伽羅が正式な倶利伽羅の許可を得ずに妖魔と相対する事は禁止されており、永新は倶利伽羅界において盛大な掟破りをしたのだがまるで意に介した様子は無い。


 それもそのはず、永新は只一つの目的の為ならば、掟の一つや二つを破ったところでどうとも思ってなどいなかった。賢しく穏やかだった頃の永新であれば、その事に多大なる躊躇が見られたはずであったが、八つの時に永新の身に降りかかった不幸の数々によって、永新の心はすっかり摩耗しきってしまい、最早正常に機能などしていなかった。



「……妖魔の血、一万体分。これだけあれば、俺は母様の元にいけるんだよな?」



 永新は、自分にとって母親である新夏の存在が何よりも大きかった事を改めて認識し、(ハク)に母の愛を求めた。


 けれども、(ハク)は母ではない。その事実に塞ぎ込んでしまった永新を奮い立たせるべく、(ハク)は永新に嘘を吐いた。


 ――そう、()()()()()のだ。


 これより執り行う外法で、永新は母親の元に行くことは出来ない。

 (ハク)は永新の願いよりも何よりも、自分の願いを叶えるために、妖魔一万体分の血を、永新に集めさせたのだ。

 しかし、実際には「――母親の元に行く事が出来る可能性がある」とだけ説明しただけで、断言したわけでは無い。


 故に(ハク)は今この瞬間で、初めて永新に嘘を吐く。


「……えぇ、行けますよ。必ず」


 その言葉を耳にした永新は、ほにゃ、と柔らかな笑みを湛え「そっか」と感慨深く息を吐く。

 十五歳、成人の儀を迎える年。様々な苦悩を今も抱える永新とは言え、わずかに残った幼さを見せる永新に(ハク)は静かに目を伏せる。


 永新と(ハク)がいる部屋の真ん中には窪みがあり、そこには妖魔一万体から搾り取った大量の血液が溜まっており、妖魔が死んでも尚蠢き続ける妖魔の血は、見習い倶利伽羅からすれば悍ましくてたまらないもの。

 しかし一万体を狩っては絞り尽くした永新にとっては最早その鼻がひん曲がりそうな臭いも悍ましさも慣れたもので、平静のまま(ハク)と見つめ合う。


 この妖魔一万体分の血だまりは、永新が自分の手で倒したもの。


 であれば、それ相応の実力が永新にもついているのかと問われれば、(ハク)は「否」と答えるだろう。


 何故ならば、永新が倒した妖魔は全て【最下級】の妖魔。所謂初心者向けの害のない妖魔。

 一体では人に危害を及ばすことは叶わないけれども、数が集まれば倶利伽羅にとって脅威になる存在。

 通常であれば【中級】から【上級】の妖魔十数体も狩れば十分の所を、母親に会うために必要な儀式の材料として(ハク)に掲示されたのは、永新に狩れる最下級の妖魔で換算して一万体分。


 それらを狩るのに、七年もの時間を費やしたのであった。


 始めの頃は、破魔弓術初級を三発しか使えなかった永新であったが、今では破魔弓術初級を六発も打てるようになった。それが永新の限界であり、破魔弓術低級すらも扱えない永新は早々に学園での生活に見切りをつけ、完全に妖魔一万体を集める事を中心とした生活リズムにシフトしていた。


「……そう言えば、この場所は誰にも見つからないんじゃないのか?」

「本来ならそうなんですが――」


 永新と(ハク)がいる場所は、その場所に真に求める人がいる時にのみ道が開く、と(ハク)より教わっており、正式な倶利伽羅に黙って妖魔を狩っていた際に身を隠すにはちょうど良い場所であった。


「――いるでしょう? 永新、貴方を真に求める彼女(あの子)が……」

「……永恋か」


 丁度今日、儀式の決行日は永新と永恋の誕生日。

 そして、共に成人の儀を乗り越えようと誓った約束の日でもあった。


「……後悔していますか」

「後悔……後悔と言えば、後悔しているんだろうけども、俺は間違っているとは思っていない。俺を救ってくれたのは父様でも永恋でもない。――(ハク)、お前なのだから。ここまで連れてきてくれて、本当にありがとう」

「――っ。嬉しい事を、言ってくれますね」


 七年前のあの日、(ハク)が永新に欲しい言葉をくれたように、永新は(ハク)に欲しい言葉を送る。前者は意図しての事だとしても、後者は永新の心からの言葉であり、本心であった。


「……そろそろ、始めましょうか。さ、永新、ここに入って」


 目線を背ける(ハク)に対して、永新は黙って血溜まりに足を踏み入れる。

 それは最早血溜まりと称するには些か悍ましすぎる霊力を放っており、底があると分かっていながらもどこまでも沈んでいくような感覚に永新は不安を覚える。


 それでも、(ハク)の期待する目を見上げ、永新は肩まで浸かっていく。



「それでは、始めますね。……永新、目を瞑って」



 永新の頭上にやって来た(ハク)は、永新の頭を両手で包み、祝詞を口ずさむ。

 穏やかで安心感を覚える声音は、永新にとって聞き慣れたもの。だがそれでも、体に纏わりつく重苦しい血液が邪魔をして(ハク)の声が非常に耳障りなものに変わってくる。


 不意に、聞こえる祝詞が止まったかと思い薄目を開けると、眼前には(ハク)の綺麗すぎる顔面が迫っており、目を瞠ってしまう。


「んむっ」


 目を細めて迫る(ハク)の口には、小さな何かが咥えられており、いつか見た鋭い犬歯がそれを食い破る。

 忽ち溢れ出した液状の物体は永新の口元に流れ落ち、口の周りを汚す。

 (ハク)は自分の口に残る液を永新の口に流し込むように口付けを行い、永新の喉をトクトクと流れ落ちていく。口の周りを舐め取っては、それをさらに流し込む(ハク)を前に、永新は全身が鉛のように重たくなったかのように一切の身動きが取れずにされるがままの状態であった。


 そうして味わうような長い接吻が終わって離れていく(ハク)の顔は艶めかしく、それでいて、悪意に満ちたような笑みを浮かべていた。



「――ッ!?」



 その顔を見た途端、永新の脳裏に忘れていた記憶が蘇る。


 ――こちらを捕食対象としか見ていない、忌避感を覚えさせられたあの時の顔だ。


 どうして今の今まで忘れていたのか。どうしてそれが無かったことにされていたのか。いくら考えても分からないし、もう遅い。

 (ハク)は確かに秘密主義ではあったものの、生きるために必要な事は欠かさず教えてくれていた。

 だからだろうか。(ハク)に気を許してしまったのは。


 私の勝ちだ、とでも言わんばかりに狂った笑みを浮かべて身悶えする(ハク)は、血の沼に沈んでいく永新を見下ろして最後に呟く。



『――私を、殺してください』



 と。

 それが何を意味するかなど、視界が妖魔の血で埋まっていくのと同じように、頭にどす黒い血液が侵食してきて何も考えることが出来ない。

 加えて体が裂けていくような激痛に苛まれながらも、血の沼の中では叫ぶことすら、藻掻く事すら許されない。


 沈み行く中で永新が最後に抱いたのは、純然たる怒りの感情。


 この沈み行く血の沼の先に、母が待っていない事への、激しい怒り。

 騙された事への、裏切られた事への、胸を締め付ける悲しみ。


 過去に比類するとも思われるそんな激情を携えて、永新の視界はやがて暗黒に沈んでいくのだった。











「……え、永新が、うちの子が外法に手を出した、と言うのは本当なのか?」

「――燼月永政!」


 教室に残っていた生徒に帰宅命令を出した先生が倶利伽羅と共に向かった先は、燼月家。

 その後ろには、四家と小暮日家の五人が着いてきていた。


 まず真っ先に行動に移したのは、小暮日永恋。

 彼女は告げられた報告を「認められない」とばかりに飛び出して行こうとしたところを四家の面々によって止められ、それでも尚も燼月永新の無罪を訴えた。

 そんな梃子でも動かない様子の小暮日に感化されたのか、天炎晴也、御厨七星もそれに続き、「筆頭ですので」と都合の良い言い訳を使う火加々美甘奈に加えて、「皆が行くなら」と神来戸獅子王も付いて来た。


 そうして辿り着いた燼月家には多くの倶利伽羅が集まり、家の中を隈なく捜査しているようだった。


 永新の父親である永政は酷く狼狽えた様子で倶利伽羅の調書に応じておりながらも、状況の理解がまるでできていない様子だった。


「せ、先生!? それに、貴方達は……小暮日家のご息女まで……!」

「永新のお父様、お久しぶりです。ですが、今は挨拶をしている暇はありません。永新は何処ですか? 永新は、外法になんか手を出す人じゃありません。永新さえ見つかれば、この無駄な騒ぎもおわるので……っ」


 調査、と言うよりも永新を捕まえる事に躍起になっている様子はまるで最初から永新が外法に手を出しているのが確定しているかのようで、永恋は大好きな永新の事を何も知らない人が永新を疑う状況、と言うものがどうしても許せない様子で永政に詰め寄る。


「落ち着け小暮日。先に説明しただろう。燼月、この場合では永新か。永新が見習いの規則を破り単独で最下級の妖魔を討滅していたとの報告が上がっているのだ。それも、複数回もだ」

「それは……ッ、それはただ、永新が自分の力を……!」

「そう思いたいのであればそれでいい。だが、もし仮に永新が外法に手を出していた場合、我々倶利伽羅はその責任を果たさねばならない。……外法に堕ちた倶利伽羅は、妖魔として滅さなければならないのだ」

「……永新は、絶対に外法になんか手を出していません。永新は、そんな事をする人じゃ、絶対に無いから」

「先入観は時として危険な場合もある。いざと言う時、私情を捨てられぬ者は倶利伽羅に相応しくは無い」

「先入観を持っているのは、先生も同じじゃないですか……」

「……もしも永新が本当に外法に手を出したのならば、それを止められなかった私にも責任がある。その時は私が責任を取る。良いな? ……お前たちに友を殺させるような真似は、絶対にさせん」


 先生の言葉に、真なる倶利伽羅としての、教師としての覚悟を前にして、生徒たちは思わず息を飲むが、対する永政は反対に肩を震わせた。


「別に友という訳ではありませんの。筆頭として、火加々美の名を背負う者として、私にも責務と言うものがあるだけです」

「右に同じ、だな」

「甘奈に獅子王、冷たい奴らだなぁ」

「……そもそも貴方達は接触禁止を言い渡されているじゃありませんか。それを、一方的に友だなんて」

「それは、甘奈の言う通りだけど……。悪いと思って行動に移さないよりも、行動で、態度で示さなきゃいけないと思ってるだけよ」


「――生徒がうるさくてすまないな燼月。それで、永新の往く宛に何か心当たりは無いのか?」


 先生のその声に永政は答えを言い渋るような素振りを見せるも、永恋の懇願するようなまなざしを受けて吐かざるを得なかった。


「ここ最近……いや、ここ七年くらいだろうか。妻を亡くしてから、永新とどう接していいか分からなくて、距離を取っていたんだ。俺にも仕事があって、永新はどうやら早朝に家を出てから、帰ってくるのは夜遅く。たまに顔を合わせる事もあったんだが、なんと声をかけたらいいのか分からなくて……」

「それはつまり、永新が、お前の子供が何処に頻繁に通っているか、今何処に行っているのか分からない、と言う事だな?」

「はい……。父親失格で済まない、永新……」


 永新に対して負い目がある事は伏せる永政に対し、大きな溜め息を吐く先生。

 燼月家の調査も似たようなもので、永新の手がかりはその家で僅かに過ごした程度の痕跡しか見つからずに、調査は早々に手詰まりの状態に陥っていた。


「何も出ないってことは、永新は無罪って事か?」

「そんな簡単な話じゃありませんの。一度かけられた嫌疑は本人を見つけ出すまで晴れる事は、まずありません。今も、燼月さんがこの騒ぎをどこかで嗅ぎ付けて早々に身を隠した可能性も捨て切れないのですから」

「私達に出来る事は少ないかも知れないけど、少しでも手伝いましょう」

「うん、そうしよう」


「永新、どこにいるの……?」


 永新を悪者に仕立て上げようとする倶利伽羅の面々を他所に、永恋は一心に願う。


 永新に会いたい、永新が無事でありますように、永新が――。




 ――シャララン。




 その時、永恋の耳に軽やかな鈴の音が届く。

 倶利伽羅の喧騒に紛れて尚もはっきりと、どの方向から聞こえてくるのか分かる大きな鈴の音に思わず顔を上げると、誰もその音が聞こえていないかのように先ほどまでの続きが繰り広げられている。


「ッ……!?」

「どうした、永恋?」


 今も断続的に響く鈴の音だと言うのに、自分以外の誰にも聞こえていない状況から思い至るのは、他でもない永新その人であった。


「永新……っ!?」


「ちょっ、待てよ、永恋!」

「どこ行くの!?」

「勝手な行動は慎めと言われただろう!」

「ハァ……。先生、着いてきてください」

「ん? って、お前達、止まらんか!!」


 永新を希った傍から聞こえた鈴の音は、まるで永新が呼んでいるかのよう。

 そう考えては、誰かの制止など最早永恋の耳には入ってこない。近付くにつれて大きくなる鈴の音だけを頼りに向かった先は、大きな白い鳥居と、小さな御社(おやしろ)が鎮座する静寂に包まれた境内。


 住宅街にあっても尚、存在感を放つその空間は酷く静かで、立ち入ってはならないような気配が感じ取れる。


「……いますね」

「あぁ、なんだこの、禍々しい空気は……」

「永恋、ここ、どこ……?」

「……あの社、誰か、いる」


「……小暮日を除いた倶利伽羅総員、構え。ここはもう、敵の領域(テリトリー)だ」



「「「「っ……!?」」」」



 この場において、永恋以外の四家は皆、既に成人の儀を終え正式な倶利伽羅として認められた者達。

 故に、この場における立場は生徒としてではなく、一人の倶利伽羅としてでなければならない。


「まさかこんなところに潜んでいたとはな……。でかしたぞ小暮日」

「あの、先生、ここは……?」

「ここは、異界。それもかなりの上等な妖魔がこさえた異界だ……。迷い込んだ一般人を食らうための巣穴、とも呼べるが、最悪の場合、お前たちは小暮日を連れてここから――」


 先生が七星の問いに答え、次なる指示を飛ばそうとしたその時。

 小さな御社(おやしろ)が内部から食い破るかのように粉砕され、大きな音が異界に鳴り響く。


 何事か、と倶利伽羅の四家と先生が武器を構えるより早く、永恋の体は動き出していた。


 その目は破壊し尽くされた御社(おやしろ)から飛び出してきた二つの影に注視されており、その影を見て永恋は声を張り上げる。


 喜びにも似た、悲恋の叫びを。



「――永新ッ!!!!!!」











 怒りや悲しみ、憎悪と言った激情に駆られるようにして目を覚ました永新は、己の身に起こった変化を気にすることなく、目の前で永新の変化を終始観察しては悪魔のような笑みを浮かべた(ハク)に対し、殴りかかる。


 そこで周囲を見渡せば、窪みに大量に収まっていたはずの血の沼は消えていて。

 そこで鏡を見れば、自分の手足が黒に染まり、胴体には無数の血管のように走る黒いひび割れがある事にも気付いていたというのに。


 永新は一にも二にもなく、ただ思うがままの激情をぶつけるかのように、(ハク)に殴りかかったのだ。


 そうしてただ一言。



「――騙したなッ!?」



 と、叫んだのは、自分の一撃で御社(おやしろ)が弾き飛び、その一撃が見事に(ハク)の腹部を貫通していることに、上空で気が付いた時だった。


 (ハク)の胴を貫いていることも、ただの踏み込みで上空に飛び上がったことも、身体に霊力が迸っていることも、この際どうだって良かった。


 血走った眼で訴えるのはただ一つ。



「――どうしてッ!! 裏切った!!!!!!」



 瞳孔が開き、眼下の住宅街全体に響き渡るような声を轟かせるも、腹部に腕が突き刺さったままの(ハク)は動じない。


 ただ、いつの日か永新が忌避感を覚える程の寒気を感じた笑みを湛えながら、怒り狂う永新を抱き留める。




「――あぁ、この時をどれだけ待ち侘びたものでしょう。さぁ、このまま私と、どこまでも堕ちていきましょう?」




 腕が貫通しているとは思えない程に平静な(ハク)が囁くその言葉はどこまでも魅力的で、そしてどこまでも破滅的であった。


 その言葉の通り、浮上した際の力はとうに失われ、永新と(ハク)は腕が突き刺さったまま地面に落下し、その衝撃で永新の腕は(ハク)の胴から抜けて自由になる。


「――うぐッ……!?」


 土埃が巻き上がる中、永新はそこでようやく自身の体に起きた変化に気付く。


 普通、あれだけの高さから真っ逆さまに落ちれば、纏炎を発動していても無傷では済まされない。

 だと言うのに、永新の身体は多少の鈍痛を訴えるのみで、一切体に支障はきたしていない。

 そもそも、永新の霊力で人の体を貫けるだけの力が引き出せるはずも無く、爆発的な霊力の増加が何を意味するか、未だ気付けない程永新は愚かでは無い。


「……外法」


 その事実に気付くと同時に、土埃の向こうから何ら変わらない声の調子で(ハク)が姿を現す。



「……あぁ、やっぱり、まだ力が足りないですね。すぐに治ってしまいました。ですが、もう心配はありませんね。私を殺せるまで、強くなるための道は用意しましたから」



 通常、人間であれば腹を貫かれてしまえば、血や臓腑を撒き散らすのが当たり前であるが、(ハク)は白い霊具に穴を開け、何事も無かったかのように白磁のような腹部を晒しているでは無いか。



「ふふ。お気に入りでしたが、これを貫けるだけの力が早々に芽生えているとしたら、私の見込みは正しかったという事です。ね、永新。また今度、新しい洋服を見に行きましょう。……それとも、続きをしますか?」



 まるで人が変わったかのような表情を浮かべ永新に話しかける(ハク)

 まるで姿が変わってしまった、自分自身。


 その事実が実に恐ろしく、そして、悍ましい。


 自分が今何処に立っているのか分からなくなるような不安定さに襲われながらも、永新は只一つの疑問を(ハク)に投げかける。


「……お前は、(ハク)は、何者なんだ」

「私ですか? そう言えば自己紹介がまだでしたね。七、八……九年越しの自己紹介とまいりましょうか。私は(ハク)。そして――」


 (ハク)の自己紹介の続きは、(ハク)本人の口からは聞けず、第三者の口から聞かされることになる。



「――シィッ!!!!!!!」



 舞い上がった砂埃が晴れた瞬間、永新は降り注いだ数多くの殺気に気付くも、続く空を裂く鋭い一閃は永新の反応速度では、到底回避に間に合わない。


 だがそれも、気が付けば永新は(ハク)の腕の中にいて、一閃を放った者から距離を取っていた。



「――やはり復活していたか、【妖魔の王】よ……!!」



 身の丈程の大太刀を構えるのは、永新の目にも新しくは無い老兵。

 それは先生であり、その後ろには見慣れた四家と、永恋の姿があった。


「永新……!!」


「妖魔の王、だって!?」

「先生、それは真ですか」

「燼月の姿……何、アレ!?」

「あれが、外法……!?」



「あらあら。私の台詞を取られてしまいました。そうです永新、申し遅れました。私は【妖魔の王】、私を殺してくれる貴方を求めて、封印を破って参りました」



 永新に密着した(ハク)は、全ての妖魔の元凶とも言われる【妖魔の王】を名乗り、艶やかで妖しい、熱っぽい視線を永新に送る。


「復活したばかりのお前さんに、集まってくる倶利伽羅の群れを蹴散らすことが出来るか? せめて、私の命を使って足止めくらいはできる。――次は、斬るぞ」


 大太刀を構えた先生を前に、永新は体の芯が凍える。

 四家が向ける武器の先には【妖魔の王】が存在しているが、先生の構える大太刀だけは、(ハク)に加えて、永新を捉えていた。


 それが何を意味するかは、考えるまでもない。


 ――外法に堕ちた者は、妖魔と同じ扱いをする。


 それこそが倶利伽羅の決まりであり、先生がその決まりを遵守している事の証左であった。


 どちらが口火を切ってもおかしくないこの状況で、永新は自分だけを見つめている永恋に視線を向ける。


 永新の心中は、(ハク)の正体を知って、外法に手を染めたことを知って、激しい混乱の中にあった。それでも、姿かたちが変わろうとも、自分の事を『燼月永新』だと認めてくれる永恋に視線が向けられる。


 ただ一人だけ武器を構えずに丸腰でいるのは、彼女が成人の儀を通っていない証拠に他ならず、それがまるで永新との約束を守るためだと言わんばかりに永新には輝いて見えたのだった。


「永新……」


 そんな二人を見た(ハク)が何を思ったのか、徐に永新から手を離して背中を押す。


「――彼は私に利用された可哀そうな子供。さぁ、返しましょう。彼は亡くなった母に会いたかっただけ。私がそれを利用したまで。眷属にでもしようかと思ったのですが……彼をお返しする代わりにどうです? 見逃してはくれませんか? 私も復活直後で実力の三割も出せていないのですよ」


「……見逃すはずがないだろう。何を考えている?」


「あら、貴方の可愛い生徒でしょう? 大切に受け取って下さいな」


「――永新ッ!」


 呼吸荒く(ハク)から逃れるように一歩、また一歩と倶利伽羅の元へ慎重に歩みを進めていたが、永恋が駆け出したと同時に永新の足も早まり、そして――。






 ――右腕が飛んだ。






「――ッ!?」


「っ、シィ!!!」


 眼前で永恋は後ろに引きずり倒され、気が付けば永新の前に立っているのは躊躇なく大太刀を振り上げた先生の姿。


 返す刀で脳天めがけて振り下ろす先生に対して、永新は切り落とされた右腕の痛みに悶えながら無意識に霊力を練り上げる。破魔弓術初級を数発放っただけで霊力切れを起こしていたあの頃とは比べ物にならないくらいの、膨大な霊力を。




「さぁ、共に唱えてください、永新。私はいつだって、永新の味方ですからね」




 いつの間にか隣に現れた(ハク)がそう言って耳元で囁くと、全身から沸き上がる霊力が何処に向かうべきなのか、正解が示される。



「右腕が、再生した……!?」



 千切れ飛んだはずの右腕の感覚が蘇り、熱が灯る。



「黒い、炎!?」



 窮屈な世界に押し込められたストレスを。



「先生、逃げてッ!!」



 神童と呼ばれたものの、いつしか落胆され、その名が堕ちて汚名を被る屈辱を。



「ば、化け物だ……!」



 信じたかった人に裏切られ、貶され、人殺しとよばれたあの日の、暗い淀みを。



「――馬鹿なッ!? くぅっ……!? ――絶っ、天……!!」



 始めて認めてくれた人に騙され、遂には自分の居場所が無くなった、絶望感を。

 それら全てをその手に乗せて、永新は迫り来る()に向けて放つ。


 唱える言葉は(ハク)から教えてもらっている。






「――極天」






 それは、倶利伽羅の持つ奥義と対になる存在の、いわゆる極地の技。


 右手に宿った黒い炎は、その言葉と共に先生に叩きつけられ、真っ白な鳥居の柱に先生の身体が突き刺さる。

 先生が最後に切り替えた霊技によって威力は半減されたとは言え、今も静かに白い鳥居を染め上げるかのように燃える黒い炎はその身を焼き続ける。


「永、新……?」


 たった一人、火加々美甘奈だけが先生の元に駆け付ける中、天炎晴也、御厨七星、神来戸獅子王は武器を構えたまま呆然と立ち竦み、永恋はようやく立ち上がった中で信じられない物を見るかのような目で永新を見る。


 その時点で、永新はもう、彼らと時を同じくする事は叶わない事を悟った。

 肩で息をしながら、黒い炎が消されていくのを遠目に見ながら、永新は静かに身を翻す。


「……(ハク)。連れてってくれ」

「うふふ、乗り気になってくれて嬉しいですよ」

「うるさい。お前は絶対に……殺す」

「はい、心待ちにしていますとも」


 極天を使った感想としては、これを用いたとて(ハク)は殺せない。そう感じ取れた。

 それだけ(ハク)は強く、そしてどれだけの強さを持ちながらも殺される事を望む理由が、永新には分からなかった。


 鈴の音のような笑い声を響かせる(ハク)は、あの時永新の背を押した時点でこうなる事を見越していたのだろう。(ハク)の事だから、もしくはそれ以上前からこうなる事を見越していたのかと思うと、(ハク)を死に導く事がどれだけ難しいか痛感する。


 そんな永新の背に、ようやく我に返った永恋が去り行く永新の背に「待って」と必死の声をかける。


「永新、待って……。ウチを、置いていかないで……! やだ、やだよ、一人に、しないでよ、永新……!!」


 (ハク)が横にいるのにも関わらず、永新の元に足を運ぶ永恋を止めたのは、その場に残る四家の者達だった。


「……そうだ、それが正しいよ、永恋。そして四家……及び倶利伽羅一同」


 離して、と藻掻く永恋は、いかに実力があれど同等の実力者三名に抑えつけられて抜け出すことは叶わない。そこに、後から駆け付けてきた燼月家周辺に集まっていた倶利伽羅達が異界に足を踏み入れてくる。当然そこには、永新を『人殺し』と詰った父親、永政の姿もある。正しくその言葉が本当になろうとしているのだから、永新は永政を見て内心でほくそ笑む。


「お前たちが俺を殺す気でいる限り、俺も同様にお前たちを殺す気でいる。その事を、努々忘れないで欲しいものだ」


 (ハク)に寄り添われた永新は、いつでも(ハク)の手によってこの場から離脱が可能な事を知って些か強気な口調でそう告げた後、近くにいる四家、では無く、永恋個人に向けてのみ言葉を発する。



「……こんな俺を好きでいてくれて、ありがとう。でも、これでお別れだ」



 瞬間、永恋は大量の涙を目に浮かべ、嫌だ、行かないで、と背を向ける永新に喉が張り裂けんばかりに泣き叫ぶ。


 だがその声が届く事は無く、永新と妖魔の王は次の瞬間には姿を消しており、その場には慟哭し泣き崩れる永恋の声が響き渡った。






 ……その日、燼月永新と言う倶利伽羅見習いは消息を断ち、外法によって妖魔と同じ扱い即ち、見かけ次第抹殺するようにと言う報せが日本中に散る倶利伽羅に届き、各地で燼月永新と妖魔の王による爪痕が確認されたが、その死は一向に確認されなかった。






 ――その日、六つで神童と呼ばれた少年は、才児にも、只の人にもなれず、十五と言う若さで妖魔の王の眷属となり、やがて【魔王】として倶利伽羅の間で伝説となるのであった。














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