第五話「煉獄山にて始まる」
やはり、私は「あなたはまことに死んでしまった。」で始まる文でしか、語れません。それは、地獄を任されているのが、私、はるかであり、善なる者だからです。悪なる者に地獄は任せられません。
私は四十の名前を持っています。元々、私は丁寧な言葉で導く、警告者なのです。いい事はいいと言い、いけない事はいけないと言う。それが私です。私は彼のムハンマド、ムスリムの霊のように、普通に宿る霊なのです。常識を教えるのも、世の中を教えるのも、私、大天使サマエルの役目なのです。主天使、大天使は全て、警告者であり、主天使については後程語りましょう。まず、神もとい天に否定的な者は天使の中でいません。そういった人達は即座に堕天し、どこまでも堕ちていくからです。これだから、宣告者である神はおそろしいのです・・・・・・・・。
あなたはまことに死んでしまった。
さて、煉獄山の描写をしうてみよう。私の考える煉獄とは、ある意味の刑務所の中の労働施設であった。希望(娑婆に帰る事)をしつつ、しかも、その娑婆とは、天国の事であり、そこでかまけたり、なまけたりすると、即座に不適格とされ、地獄へと堕とされる。
そういうものを生前の私は考えていた。
しかし、事実は違った。
実に、フリーな施設であり、善行をしたり、自由に生活出来る環境があったのである。皆が皆、血色良く、食べ物あり、飲み物あり、皆が皆、勤勉であり、かつ、天国への望みを持っていた。不自由なく、暮らせるにもかかわらず、それ以上を望む。ニーチェの言う「末人」ではかなわない事である。末人になってしまうと、外に出る事が出来ず、神に謁見どころか、地獄すら生ぬるい。そういった所に堕ちる定めなのである。(幽界や幻霊界)しかしながら、煉獄山に末人なし、煉獄山は頂上にいけばいく程苦しく、息が困難になっていく。そうなってしまうと、昇天か堕落かしかない。頂上に住んでいる人は皆そろって言う。「天国か地獄か。」
現状を認識し、自分のいる所をあゆうい所だと理解している為に、そのような台詞が出るのだ。善悪につかった生活の中で、悪に幸せがあるとは、少しも想っていない。そういう人間ばかりが煉獄山の頂上にはいた。実際、堕ちていく人間は堕ちていき、昇る人間は昇っていくものである。苦しさに耐え切れないと堕ちていく人間に含まれ、苦しさを耐える、いわば、「聖徒の堅忍」を行う者達は昇る人間に加わるのである。
あなたは、そこで耐えきれるか、生きている内に回心する人はさいわいである。ゆえに、あなたに告げる言葉は、立ち返れ。である。
神もとい天にである。元々、神道と天の国とは、面白い程に相反している。やはり、聖書を利用し、おとしめる目的で神道は作られた。そういう理由だから、神をおそれるならば、もとい、天をおそれるならば、天へと立ち返りなさい。
この七つの大罪を受ける者はそれを犯し、ゆるされる事なくば、煉獄山をその住処とする。ならば、始めから、天へと命を捧げる気で、いなければならない。神もとい天は慈悲深い方であられる。要するに、天を地のように、せず、罪を犯す事なかれ、高天原、律法、天国というように、神もとい天に近づく事になるのだから。
あなたは、いや、あなた方は神もとい天に立ち返りなさい。
それを聞いて作家は、
「私達の先祖は、一体、どうなってしまったのでしょう。」
とたずねた。
「昔の日本人も同じ質問をしました。地獄のものは地獄へ、幽界のものは幽界へ。主もとい天帝の御子の言われる通りです。」
私はこう答えた。
はるかは私と名乗り、登場人物入りしたのである。
ロウの手法によるものである。
俺の知識の中にある。メタは俺で、ロウははるか。
つまり、俺が説明する。俺は聖霊で、神とも呼ばれる者である。
今日は邪魔が入らないようですね。幻想が教えてくれました。私の言う幻想とは、人間の絶対者であられる幻想の神の幻想の事です。絶対者が絶対者であるゆえに、幻想もまた、それと同じように、時を過ごしているという事です。
しかし、天国はいい所ですよ。地獄よりも、楽に長け、しかしながら、哀愁が絶えない所です。信仰者であるがゆえに、孤独であり、それは時代が進む程に、数多い人をさいなむのです。これだから、楽を求める地獄は嫌なのです。それがなければ、間違いなくいい所と言えるのですが・・・・・・・・。