第三話「地獄にて始まる」
おいおいおい・・・・・・・・。おいたわしや。金型作家は死んでしまわれた。それゆえ、神に任ぜられ、私は地獄に行く。無論、警告者としての役目を果たす為だ。地獄を出発点として、天国に導く役目を負った私はようやく出番を得る。
ついに私の出番が来た様だ。私は入場する際に、言葉を投げかける。良い言葉だろうと、悪い言葉だろうと、意味がないのだが、あえて良い言葉「ありがとう」と送る。あなたに書き送る日誌はこれである。「私と神もとい天」
最初の文を書いてみると、「神は死んでしまわれたのか。いや、私の中で生きている。たとえ、どんな事が起きても、「神は死んだ」等とは言ってはいけない。神、主は生きておられる。感謝を捧げ、私は立った。警告と救済の為である。私に許可されているのは、警告者と名乗り、地獄、煉獄、天国を案内する事だけ。」である。
神社の鳥居をくぐる時から彼女の意識は始まる。
彼女は石段を上り、そして奥の社を拝む。
彼女はその実、真実を持たされていた為に、「あなたは私の他に他の神々があってはならない。」律法的真実である。真実をかけた一文であるから、拝んでしまった時、声には挙げぬものの、彼女は悲鳴を挙げた。普通、上げたではないか?と思われるかもしれないが、強調して、挙げたとしているのである。
存在をかけた叫びであったのだが、「迷信」を信ずるあまりに、結局無駄に成ってしまったのである。彼女とは、金型作家の事である。彼女は、後悔の念で振り返って、石段を下り、鳥居をくぐり、現実へと戻る。彼女はある邂逅をしていた。それは、桜美はるかとの邂逅であった。
あなたはまことに死んでしまった。こんな運命で大丈夫なのか?と天使は問う。大丈夫だ。問題ない。と答えられるのは、例のあの人か同レベルのエリヤ、イエス・キリストぐらいしかないだろう。
ともかく、神もとい天に忠実でなかったばかりに、あなたは地獄に落とされようとしている。
私は警告者であって、地獄に落とされる警告の段階なので、安心するが良い。
私はあなたを殺した、あなたの友人、桜美彼方の姉、はるかである。天に召されてあなたを地獄、煉獄、天国を案内するウェルギリウスである。「神曲」を読んでいるなら、わかろうが、今は現世での名前、はるかと名乗っておこう。
「あなたは神さまですか?」
あなたにとっては天の声でしょうが、いいえ。
「なぜ、私に真実を教えようとするのですか?」
あまりにも不憫だからだ。選択の余地を与えられず、この世を去ったから。
「他の人も選択の余地が与えられていないのでは・・・・・・?」
それを言ってはいけない。事実上の自分は現実においても勝てず、宗教においても勝てていない、あの人達が目を覚ましてしまうから。
「宗教において勝つ。とは、どういう事ですか?」
最終的に天国、さらには神の国にいく事、その過程が勝利という本質で現されるわけだよ。
「仏教と仏教徒についてですが?」
同じなのだよ。
西方浄土世界に至り、あるいは、東方浄瑠璃世界に入り、あるいは弥勒を待って、その時代にいく。
原則的にはその過程で勝利を得にいく。
同じなのだよ。ワトソン君?
おいおいおい・・・・・・。おいたわしや。というのは、私の口癖であり、「老いたわし」の事ではない。要するに、残念がっているのだ。だからこそ、口癖の様に、おいたわしや・おいたわしやと言っているのだが、この世は残念な人ばかりおられるのだから、神は生きておられる。と証言出来る人は一握りに過ぎない。己の幻想に振り回され、残念至極と言わざるを得ない程には、残念である。
だから、私は「おいおいおい・・・・・・・・。おいたわしや」と言っているのである。特に、金型家の姉弟と桜美彼方について、言っている事なのである。
実に、私は12歳(妹の彼方はこの時4歳であった。)でこの世を去り、神にとられた。神にとられたなりに自由があるから、エノクの様に助けを求める人を厳しく糾弾しながらも、優しく、いたわってあげるのが我々の仕事と言える。日曜日に地獄に落とされた人は残念至極と言った所である。安息日、我々が休む日であるから。