第六話「天国にて始まる」
おいおいおい・・・・・・・。おいたわしや。幻想とは振り回されるものでも、慎重に取り扱うものでもない。むしろ、毅然と向かい合い、立ち回るべきものである。もしも、あなたの幻想が増幅しているなら、「爆縮」するがいい。もしも、何かしら心配事があるなら、行ってみて、見て来るが良い。人間には見る能力があるのだから。それを使って、何でも確認するが良い。
という訳で、私はただの幻想に屈しないのです。人間には屈しない心があるはず、それを信じて日々を生きる事。「第三の聖典」で言う幻想とは、むしろ、現実側と言えます。それならば、現実的に生きる事がその幻想の為に成るのです。
天国。
いきなり始めてしまっても、意味が分からないと思うので、説明するが、何故、地獄、煉獄、天国という順番なのかと言うと、一番、最低な結果から中、最高の結果が見れるいわば、リザルト画面にあたるからだ。もしも、リザルト画面に疑問を覚えるならば、天国はあなたのもの等ではない。
罪なき人間達が集うこの天国では酔わない酒、数えきれない程の果実、贅を尽くした建物があった為に、人々は満足し、そして、ご満悦であった。その様子を例えるならば、飛べない鳥が翼を持った様に、足りないものが満たされた。というたとえが当てはまるだろう。
彼らは皆跪拝をして、かつ祈り文句に賛美を加えて、つまり、神の別名で呼んで、崇拝していた。
「なぜ、この人達は神を崇拝するのですか?」
「今の状態が神によるものである事を知っているからです。唯一無二の神、ああ、私は数えきれない程の罪を犯しましたが、主イエス・キリストによってゆるされました。その事を甘んじて受け入れ、賛美します。あなたの御名はほむべきかな。あなたの御名は絶対です。賛美とは、事実の確認でもあるのです。全霊の神、あなたの名はここまで、全霊をもって、表現されるべきものです。」
「私は祈るべき神を知りません。一体誰に賛美を捧げればいいのでしょうか?あなたにでしょうか?」
「何と、無信仰の状態から信仰への状態へと変わりたいと願うのですか。ならば、祝福を授けましょう。頭を差し出しなさい。」
作家はひざまずいて、頭を垂れた。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたにあります様に。アーメン。」
作家はこうこたえる
「イエス・キリストを信じ、神に祈りを捧げれば良いのですね?イエス・キリストを信じます。」
作家は改めて、聖徒と成った。まだまだ、信仰が足りないものの、聖徒の仲間に成ったのである。
おいおいおい・・・・・・・。おいたわしや。名前を借りた作品達に感謝を。本当は異世界ファンタジーだったのを。わざわざ、この様な形にしたのは、やはり、名前が使えるか?という疑問から生まれたものであり、これからも続けるべきかは読者次第と言えます。しかし、続けるべきでないのならば、他の世界観に触れてみる事も重要かと存じます。やはり、「涼宮ハルヒ」シリーズや「うみねこのなく頃に」等の禁忌に触れてしまった作品の二のたたらを踏まない為に、再度、書いていく事が必要なのだと思います。「うみねこのなく頃に」の禁忌はロウだったので、メタフィクションでも書く事にします。