第五十四話 キルゲル対水嬌
水滴が落ち、波紋が広がる様な感覚が体を狂わせる。
同調していた意識が薄れる。体と心のバランスが崩れているのだと分かった。キルゲルもそれに気付き、一気に風を放出する。甲高い風の音が響き、周囲一帯を風が切りつける。広がる波紋にその風をぶつけ、それを中和する。
放出した風で、周囲一帯の木々がなぎ倒され、自らの体にも切り傷が刻まれていた。これで、キルゲルは体の自由を取り戻し、視線を女性の方に向ける。視線が交わり、キルゲルは刃を振り抜く。風の刃が彼女の頬を掠め、血が飛び散る。
その瞬間、彼女の表情が僅かに変化した。怪しむ様な眼差しを向けられ、キルゲルは不適に笑みを浮かべた。
「何をしたんですか?」
「自分で考えろ」
さっきのお返しだと、言わんばかりにそう言い放ったキルゲルに、女性は静かに俯き、
「そうですか……。分かりました。もう、貴方の自由はありません」
と、静かに告げ、握った拳から水滴をまた一つ落とした。波紋が広がり、また体が動かなくなる。放出していた風ごと全てを停止させる。また狂う。体と心のバランス。それでも、キルゲルは強い視線を彼女へと向ける。
それと同時に頭の中でキルゲルの声が響く。
(晃。少し、芝居に付き合ってもらうぞ)
(えっ?)
(いいから聞け。いいか、この後――)
キルゲルが一通り話し終えた後、彼女に向かって告げる。
「これで、我を拘束したつもりか?」
「さぁ? どうでしょう」
「フン。貴様は分かっていない。我の力量を――」
拳を握り、風を放出しようとしたキルゲルに女性は呟く。
「分かっていないのは、あなたの方です」
静かな彼女の声で、異変に気付く。体の感覚が先ほどよりもブレ、意識が僅かに遠退く。表情を歪めるキルゲルは、彼女を睨み叫ぶ。
「貴様……。まさか――」
「そのまさかです。あなたには暫く眠って頂きます」
「ふざけるな! 貴様――」
「――おやすみなさい」
キルゲルの声を遮り、彼女がそう囁くと同時に雫が零れ落ちる。その瞬間、キルゲルの意識は落ち、体が元に戻る。風が消え、ただ一陣のそよ風がその場を吹きぬけた。
切なげな表情を向ける女性は、深く息を吐く。口から漏れる息が白く染まり、彼女はゆっくりと歩き出す。そんな彼女の顔を見据え、静かな口調で問う。
「キミは――誰? キルゲルと親しげだったけど……」
「私は水嬌。五大鬼獣の水の名を受ける者」
静かに淡々とした口調でそう返答する水嬌。名前の意味は分からないが、水の名を受けると言う事から水属性なのだと理解した。
「水の名……と、言う事は水を司るって事だね」
「貴方の名は?」
「僕は桜嵐晃。それで、キルゲルとはどう言う関係で?」
好奇心からそう聞く。キルゲルが話したがらない過去。その過去に一体何があるのか、ただ気になっただけだったが、彼女の表情は明らかに曇った。
「あ、あの、その。別に、言い難いならいいですけど」
慌ててそう答えると、彼女は軽く首を振る。
「別に、言い難いわけじゃないです。ただ、知らない方が良い。あなたにとっては辛いかも知れないから」
「辛い事?」
「それより、あなた方はこの現象に関与しているのですか?」
水嬌の問いに、軽く首を傾げる。この現象。それは、町を覆う黒い壁の事だろう。五大鬼獣はこの現象の原因を知らない。だが、ここでその原因が久遠だと答えていいのか迷う。五大鬼獣である彼女の目的が何か分からないからだ。
暫し沈黙していると、頭の中にキルゲルの声が過る。
(ここは、何も知らないフリをしろ)
(けど……)
(いいから、黙ってろ)
(分かった)
キルゲルに静かに返答し、僅かに表情をしかめて見せた。一応、怪しまれない様に取った行動だったが、水嬌は特に気にする様子も無かった。
「この現象は、鬼獣の仕業じゃないの? 僕はてっきり力のある鬼獣がやったものだと思ってたんだけど」
もっともらしく返答し、逆に問う。水嬌は表情を変える事も無く、「鬼獣が扱うモノにこの様な結界術はありません」と答え、僕は「それじゃあ、誰が?」と考え込む様に視線を逸らした。
すると、水嬌は相変わらず淡々とした口調で、
「私の考えでは、この現象は封術師の仕業だと考えてます。以前にもこの様な現象がありました」
「以前? それって……」
「その時は町が一つ消滅するほどの巨大な力が暴発し、大勢の死者が出たそうです」
悲しげな瞳を見せながら淡々とした口調でそう述べた水嬌。過去に起きた事件。それが何なのかは詳しく分からないが、その時と同じならまた大勢の死者を出す事になる。それを考えると、体が震えた。だが、その時キルゲルの声が響く。
(悟られるな)
と。何の事か分からず視線を上げる。水嬌と目が合う。まるでこちらの様子を窺う様なその視線に、咄嗟に視線を左右に揺らした。そして、考える。この場をごまかす為の言い訳を。だが、全く良い言い訳は浮かばず、ただ慌てる。
水嬌は僕が落ち着くのを待つ様にただ黙っていた。だからだろう。キルゲルが更に言葉を続ける。
(このまま別の理由で慌てたフリをして、呆れさせろ。それが一番手っ取り早い)
キルゲルの言葉に思わず口を開く。
「や、ややややばいぞ……。昨日出された課題まだ終わってない……。こ、殺される……。完璧に殺される!」
咄嗟に出た嘘だった。とりあえず、これだけしていれば呆れるだろうと。予想通り、水嬌は呆れた様に小さくため息を漏らすと、鋭い視線をコッチに向けた。
「あなた、分かってるんですか! この状況を!」
「何言ってるんだ。これは重要な事なんだよ。あ、あの人の課題は必ずなんだ。もし忘れたら――」
もう一押しだと、更に早口でそう答え、口を震わせる。その瞬間、突然とし水嬌の視線が冷ややかなモノへと代わり、やや怒りの篭った声色で告げる。
「消えなさい。事の重大さが分かっていないなら、今すぐ消えなさい」
全てを言い終えると、水嬌は消えた。泡の様に。まるでそこには何も無かった様に。少しの間対峙していただけなのに、握った拳には汗がにじんでいた。
『わりぃな。あんな芝居させて』
不意に具現化されたままのキルゲルがそう声を掛けた。そんなキルゲルに笑いかける。
「いや。良いって。いつも助けてもらってるし。それより、彼女とはどういう関係?」
『無駄な詮索は止めろ』
やはり、話してはくれなかった。水嬌との関係について。よっぽど知られたく無い過去があるのだろう。そこまで知られたくない過去を、僕は無理に聞きだそうとは思わず、静かに立ち上がり、
「分かった。それじゃあ、行くぞ」
『ああ。気をつけろよ。奴は強い』
キルゲルの強い言葉に走り出す。青桜学園に向かって。




