第三話 噂
「ヨオオオオシ! 今日も一日頑張るぞ! さぁ、晃行くぞ」
絶好調と言うべきハイテンションの水守先生が、朝のホームルームを終えると同時にそう叫んだ。何処に行くのか、気になる所だがあえて無視する。毎朝の事だが、あのテンションにはついていけない。
小さな吐息を漏らし、窓ガラス越しに廊下を見据える。一時限目から移動教室なのか、忙しなく生徒達が行き交う。新入生とは実に初々しい。自分の事を棚に上げているとはよく言うが、そこは軽くスルーしよう。
そうこうと色々考えながらぼんやりしていると、視界に突然巨大な顔が現れる。隆々とした骨格の顔と悪人の様な目が一瞬見え、凄まじい衝撃と共に消えていった。遠くの方で何かがロッカーとぶつかる音が聞こえてくるが、気にしない。逆に気になるのは、目の前でコッチを睨む見慣れない女子生徒。
髪は短めでボサボサの金髪。目付きは博人に引けを取らない程悪い。関わるとろくな事が無いと思うが、あそこまで真剣に睨まれると流石に声を掛けないわけには行かない。
「な、何?」
「お前、桜嵐晃だろ」
相変わらず目付きは悪いまま、多少乱暴な口調で聞く。否定する事もないので、そこは素直に返答する。
「えぇ。まぁ、そうですけど、どちら様で?」
「アタシは、霧咲遊里。一応、新入生」
「はぁ……それで、僕に何の用」
不本意ながらそう尋ねる。
すると、腕を組み軽く首を傾げた。そうしたいのはコッチだが、一応彼女の返答を待つ事に。
暫しの沈黙の後、タタタタッと軽快な足音と共に聞き覚えのあるハイテンションの声が廊下から響いてきた。
「うああああっ! 桜嵐――あーきーらー!」
「んっ?」
霧咲さんが振り返り、土煙を巻き上げるその影に険しい表情を浮かべる。廊下を行き交う生徒が明らかに変な目を向けるが、その人影は目も暮れずこちらに迫っていた。その事で不意に先程の言葉を思い出す。『さぁ、晃行くぞ』と、言う言葉を。
小さく「あっ」と短音を漏らせば、霧咲さんが「へっ」と奇声を上げる。そして、土煙と共に現れたその小さな影が、両拳を振り上げ叫ぶ。
「コォォォラァァァァッ! 恥ずかしかったじゃないか!」
「はい?」
思わず奇声を上げると、霧咲さんが僕の方に顔を向けた。視線がぶつかり、引き攣った笑みと共に、
「妹?」
刹那に放たれた水守先生の飛び蹴りが霧咲さんの腹を抉った。
「ふぐっ!」
「誰が、発育が悪いだ!」
「誰もそんな事言って無いよ。先生」
諌める様に水守先生の頭を撫でると、涙目で僕の顔を見上げ、鼻息を荒げ口を開く。
「うーっ! うーっ!」
「まぁまぁ」
「って、何で付いて来てないのよ! 私、ずっと一人で喋ってたんだよ! 恥ずかしかったんだよ!」
顔を真っ赤にする水守先生。何とも可愛らしいその眼差しに、吸い込まれそうになるが、その気持ちを抑え笑みを返す。
その横で腹を押さえ蹲る霧咲さんが、「ううっ」と小さく呻き声を上げた。そこでようやく水守先生も霧咲さんに気付く。
「あれ? 七組の霧咲さんだよね?」
「七組なんだ。それは、知らなかった」
「知り合い?」
「ついさっき、衝撃と共に現れたのが、彼女です」
簡易的にことと次第を説明すると、水守先生は軽く頷き眉間にシワを寄せる。その渋い表情に小首をかしげると、水守先生の小さな手が服の裾を握った。その行動に訝しげな視線を送ると、僅かに瞳を潤ませ唇を動かす。
「浮気は……ダメだよ」
「浮気なんてしてません。って、そもそも、先生とはそう言う関係じゃないから」
「うっ……うううっ……。私とは遊びだったのね」
「先生……」
疲れ切ったため息を吐き、頭を掻いた。
その後、水守先生とミニコントを広げ、休み時間を終えた。一体何がしたかったのか良く分からなかったが、何と無く霧咲さんには悪い事をした気がする。と、思ったのは束の間だった。次の休み時間も、その次の休み時間も、暇さえあればやってくる。しかも、用件を言わずそのまま帰っていくから気になってしょうがない。
新手の嫌がらせだろうか。
「ふぅ〜っ……」
授業が始まって数分。これが五度目のため息となる。休み時間の事を考えれば、自然とため息も零れてしまう。
そして、六度目のため息を吐いた時、背後から肩を叩かれた。叩いたのはもちろん後ろの席の信二なわけだが、振り返るべきかを一瞬考える。だが、すぐに振り返り尋ねた。
「何?」
「ため息ばかり吐いて、どうした?」
「ああ……。ちょっとな」
意味ありげにそう口にすると、信二も悟った様に言葉を口にする。
「霧咲……さんだったか? 彼女に何かしたのか?」
「いや……。別に何もして無いけど……」
「人は知らない所で怨まれている物だ。お前もきっと――」
「いやいや。怨まれるも何も、会ったの初めてだから」
そう言うと信二の疑いの眼差しが向けられた。何で疑われているのか、少々気になる所だが、それを口にするわけもなく、言葉を続ける。
「まぁ、僕の方に非があるにしても、見覚えが無いからねぇ……」
「どっちにしろ、早めに謝るんだな」
「んーん。話聞いてたかな?」
僕の話を完全にスルーした形で話を終わらせる信二にそう問うと、ふと思い出した様な顔で次の話を切り出す。
「最近噂になっている化物の話を知っているか?」
「化物? 珍しいな。信二がそう言う噂を信じるのか?」
驚きのあまり、そう聞いていた。この手の噂など全く相手にしないと思っていた信二から、こんな話を聞かされるとは思っても居なかった。いつも冷静だし、こんな話を聞いたら「馬鹿馬鹿しい」何て言いそうだが、意外だ。
あまりの驚きっぷりに、信二が怪訝そうな眼をこちらに向ける。
「何だ? 噂話をしてはいけないのか?」
「いや……。ちょっと驚いた。それで、噂になってる化物って?」
僕の言葉に不満があったのだろう。腕組みをした信二が、眉間にシワを寄せこちらを睨む。その眼を真っ直ぐに見据え、愛想笑いを浮かべると、小さく息を吐き、信二が話し出す。
「何でも、剣術に長けたウチの生徒らしい」
「はぁ?」
「どれ程の剣術の持ち主なのか、是非手合わせしたい」
「……」
無言で頭を掻き、深々と息を吐いた。何と無く、こんな気がしていた。あの信二がこんなにわかな噂をした時点でおかしいとは思っていたが、まさか手合わせしたいだなんて……。命知らずもいいところだ。
僕も信二の言う噂についてはある程度耳にしている。何でも夕刻辺りに人気の少ない路地に現れるとか。右手に細い刃物を持ち、壁や地面を切り裂いているらしい。時々獣らしき影も見掛けるらしいが、その時は決まって大量に散ばった血痕が残っているとの事。恐ろしい事この上ない。
軽く身震いし、小さく息を吐いてから正面を向き直る。生徒に背を向けたままの化学教師、大竹先生は着慣れた白衣のポケットから赤のチョークを出し、黒板に線を引いていった。