第二話 遭遇
式が終わり、教室へと戻った。
今日からお世話になる教室は、意外にも綺麗だった。流石にキチンと掃除されている様だ。廊下側の三番目が僕の席だ。すぐ後ろは信二、その後ろに博人となっている。吉井は窓際の一番後ろの席になった。
凄く刺々しい視線が背中に突き刺さるが、気にせず頬杖を付いたまま黒板を見据える。澄んだチャイムが鳴り、騒がしかった教室が一気に静まり返った。何処かでヒソヒソ話が聞こえるが、興味が無いので聞き流す。
三分が過ぎる頃か、教室のドアが乱暴に開かれレディススーツに身を包んだ小柄な女性が乱入してきた。そして、第一声が――
「うぉぉくれた!」
だった。とても元気の溢れる明るい人の様だ。黒髪にポニーテール、綺麗な顔立ちと裏腹に、額の右側に切り傷の様なモノが見えた。何と無くだが、危険な匂いを感じるのは、僕だけだろうか? いや、多分クラスの大半は同じ匂いを感じたと思う。妙にざわついている。
ざわざわする生徒達に、乱入してきた女性は、教卓の前に立つと出席簿を開き明るい笑みを生徒に向ける。思わずその笑みに見入ってしまったが、それはやはり僕だけでなく、ざわついていた生徒達もいつしか静まり返っていた。
「うんうん。流石に緊張しちゃってるよね。先生も緊張してるんだよね。だから、三分も遅刻しちゃって、ゴメンね。三分って言ったら、カップラーメンだって出来ちゃうだよね」
何が言いたいのか分からないが、先生がこの場を盛り上げようと努力していると言う事は分かる。でも、僕の見る限り、スベッている。間違いなく。その異様な空気を悟ったのか、引き攣った様な笑みを浮かべている。
「う〜ん。もしかして、スベッてる? って、聞かなくてもスベッてるんだよね。ハハハハ……」
弱々しく笑う。流石に可哀想になってきた。そろそろ、何らかの助け舟を出した方がいいのだろう。しかし、ここで共倒れになると言う可能性もあるわけで……。
悩んでいると、吉井の声が聞こえた。
「先生。とりあえず、自己紹介しましょう。早く先生の名前も聞きたいし」
「だよね、だよね」
吉井の言葉で、先生の表情がパッと明るくなり、調子のいい口振りでそう言う。何とも分かりやすい人だ。でも、こんな先生だと、きっと楽しい高校生活が送れそうだ。
頬杖を付き、廊下側の窓の外を見据える。別に何が見えるわけでも無いが、空を見ていると心が落ち着く。ジジ臭いと自分でも思う。親にも良くそう言われた。別に気にはしてないけど、人前ではなるべくしない様に努力している。
小さく息を吐き、視線を戻す。黒板をチョークがリズム良く叩く音に耳を傾けながら、小さな先生の背に目を向ける。ポニーテールの髪が尻尾の様に揺れ、可愛らしい鼻歌まで聞こえた。先生と言うより同級生か年下に見えてくるのは、その行動が子供っぽいからだろう。
そうこうしている内に、チョークの動きが止まり、振り返った先生が明るく可愛らしい笑みを見せる。
「私の名前は水守琴音。呼ぶ時は琴音ちゃんか、琴音先生って呼んでね」
語尾に音符のマークが付くんじゃないかと思うほどの笑みを向ける先生に、生徒達の反応は薄い。いや、薄いって問題じゃない。明らかに引いてる。全ての生徒が、今の先生の発言に――。
「水守先生」
「あや? エッと、キミは桜嵐晃君だね。先生の事は――」
「いや。流石に慣れなしく琴音ちゃんなんて呼ぶのは、まずいと思うんですけど」
「エーッ! 何でだよ! 先生が良いって言ってるんだよ?」
まるで子供の様な口振り。本当に先生なんだろうかと、疑いたくなる。思わずため息を吐くと、水守先生は子供の様に頬を膨らす。
「コラ! 何でため息吐くんだよ!」
「す、すいません……。水守先生」
「あーっ! だから――って、もう良い……。キミは特別に琴ちゃんと呼ぶ事を許可しよう!」
な、何故そうなる。しかも、生徒全員の視線が集まり痛々しく胸を貫く。何だ、僕は恥をかく為に発言したのか。いや違う。場の空気を戻そうとして発言したはずだ。何故、こんな状況に追いやられているんだろう。
肩を落としもう一度小さなため息を漏らす。やっちゃいけないと思っていたが、思わず出てしまったため息に、水守先生が更に言葉を荒げる。
「うぉぉぉい! だから、何でため息吐くんだよ!」
「水守先生……もうやめ――」
「だ・か・ら、琴ちゃん! 聞いてた? さっきの私の話聞いてた?」
「しつこい……」
思わずそう口にしてしまったが、すぐに後悔する。水守先生が涙目でコッチをジッと見ていたからだ。その表情に教室内の空気が一変し、ざわざわと生徒がザワメク。所々で「先生、泣かしてるぞ」何て言う声も聞こえ、完全に僕が悪者になっている。呆れて言葉の出ない僕に、更に追い討ちを掛ける様に、水守先生が涙声で、
「琴ちゃんって……呼んで……グスン」
と、言った。その言葉で生徒達のヒソヒソ声が広がり、冷たい視線が更に集中する。胸が苦しい。恋じゃない。この息の詰まる空気に耐え切れず、胸が苦しいのだ。この空気から逃れる為に、窓の外へと目を向けた。なんだか空が滲んで見える。
またため息が出そうになるが、そこを我慢して水守先生へと視線を戻すと、潤んだ瞳がジッとコッチを見ていた。その目を真っ直ぐに見据えていると、周りの空気が『琴ちゃんって言え』と訴えているのが分かる。その為、僕も渋々「琴ちゃん」と、呼んだ。
すると、泣き出しそうだった顔が、満面の笑みに変わり「エヘへ」と可愛らしく笑う。子供か、と言いたかったが、もう僕の心が折れていたのでそれ以上何も言わなかった。
その後は何事もなく過ぎ、無事に入学初日を終えた。
教室での水守先生とのやり取りで疲れ切っていた為、足早に帰路に着く。重い足取りで帰路を進んでいると、不意に足が止まった。いつの間にか静まり返った周囲の空気が告げる。これ以上近付くなと。
ヒシヒシと肌を刺す感覚が強まり、物陰から静かな足音と共に何かが姿を見せた。それは、異様な空気を纏った不気味な存在だった。四足歩行の獣。姿は狼に似ている。青白い光を身に纏い、美しい毛並みを逆立てる。威嚇している様で、これ以上足を進める事が出来なくなった。
一瞬、頭の中に色々な事を思い出す。走馬灯……と、言うべきなのだろう。死の直前に色んな思い出が蘇ってくるって、良く言うから。そんな感じで色々な記憶が一瞬で蘇り、ハッと我に返った時、青白い光を放つ獣がコッチに向って駆け出した。
「ガウッ! ガウウウッ!」
「うわあああっ!」
獣の声に思わず悲鳴を上げる。咄嗟にどう対処するか考えるが、逃げる以外の考えが浮かばず、走り出す。だが、すぐに回り込まれ逃げ道を塞がれた。鋭い牙をむき出しにし、その獣が飛びかかってきた。その瞬間、目の前がプツンと真っ暗になった。全ての機能を停止してしまった様に。
その後、何があったのか分からない。ただ、目を覚ました時、そこは部屋のベッドの上だった。