表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

オアシス~この恋が終わりを告げるとき~

作者: すたーず

自然を美しいと感じられるようになったのはいつからだろう。

幼い頃、この街に暮らしていた時、自然は日常にすっかり溶け込んでいて、それが貴重なものであると感じたことはほとんど無かった。しかし、何かある度に私は自然に助けられ、勇気をもらい、そうやって生きてきたのだ。でもそれは、一度や二度、大きく心を痛めつけないと、気が付くことの出来ない有難さなのかもしれない。

丘の上の小さな二階建ての家が、私の家だった。小さくて、決して裕福な暮らしは出来なかったけれど、そういう家にしかない温かさが我が家にはきちんとあった。私達は家族みんなでいつもリビングにいた。時々、誰かの心が荒んでいて、とんでもなくどうでも良いことで、大きな喧嘩になったりもしたのだけれど、どんなに喧嘩しても結局、リビングからは誰も出ていかない。そういう所が私は好きだった。


両親はずっとこの街で育ってきた。二人は高校生の時に出会った。その時、二人はただの友人だったらしい。大人になった二人は一時的にこの街を出て、仕事をして、でもきっと何かが合わなかったのだろう。二人ともこの街に戻ってきた。この街で再会したとき、偶然ではなく、必然的に「出会わされた」と思ったという。神から与えられたかのような、決して抗うことの出来ない強制力のある運命が二人を結んだのだ、と。全く同じように二人ともいっていた。だからきっと本当なのだろう。そうして付き合うことも無くいきなり父がプロポーズした。母は驚くこともなく、むしろそれが当然の事の成り行きであるとでもいうように、すんなりと、そのプロポーズを受け入れて結婚した。


という話を父はよく私にした。自慢気では無かったが、この決断に誇りを持っていることがよく分かる口調だった。それは、私にとっても誇らしいものだったし、これから先も父のその話を、その誇らしげな口ぶりで何度も聞きたいとも思っている。


私は恋愛とはそういう「運命」に導かれるものだと両親の体験談から学んだので、自分の恋愛観が人よりもイタイものになっていた。

そのせいか、大学を出るまで私の恋が実ったことはなかった。それでもいつか、両親のように本当の恋ができるだろうと、根拠もないのに自信を持っていた。



私は大学を出ると、東京で就職した。両親のことは好きだったが、二人は二人だけでやっていける、そういう安心感があった。母は、寂しくなるねと何度も言っていたが、いざ離れてみたら私よりもその生活を満喫出来てしまう、その時の流れに乗ることの出来る人だと私は思っていた。従順、単純、そんな言葉がよく似合う、とてもさっぱりとした人だった。だから、心配はしていなかった。かえって、私の方がホームシックになってしまうだろうと思っていた。

なんやかんやで、どんな時でも自分たちの暮らしを自分たちで確立して、平和に正しく暮らしている両親の存在は、私が一人暮らしをすることを決断する大きな後押しにもなった。


一人暮らしを始めて、東京の保険会社に入社した私は、営業部に配属され、それなりに忙しく、充実した日々を送っていた。それでも予想通り、私はホームシックになることがあって、両親に電話をすることがあった。そういう時両親は必ず、私の寂しさをまるっと吹き飛ばしてくれるような明るい笑い声を、電話越しに届けてくれた。

それは両親の優しさだった。

何事も無かったかのように、大したことではないような顔をして、深い海で溺れた私の心を救い上げてくれているのが分かった。それと同時に、弱音を吐くな、よっぽどのことが無い限り帰ってくるな、そういうメッセージが込められているようにも感じた。きっと、私が弱音を吐いたのなら、受け入れて、話を聞いてくれるのだろう。けれど、電話越しに聞こえた両親の笑い声は、「やっていける所までとりあえず行ってみろ!」とでも言うような、私を奮い立たせようとするものだった。

私は、いつもその声に励まされた。そして、いつか帰省した時には、その強さと優しさが同居した愛情に乾杯しながら、とびっきり美味しいご飯をご馳走してあげたいと思うのだった。



そんな風にホームシックになったりもしたのだけれど、それとは別に、しっかり恋をして、失恋もした。こっちに友人と呼べる人も何人か出来た。時々、会社の飲み会にも参加したし、友人とカフェでお茶をしたり、買い物をしたり、それなりに楽しくやっていた。道を外れたようなこともいくつか経験して、私は年相応の経験を積んだ、普通の女性に成熟していた。

都会の生活というものは、妙に騒々しくて息苦しいものだと想像していた私は、案外この生活を充実させている自分に驚いていた。

けれど時々、東京の強さや、自分の人生の失敗に自分が追いつけなくなって、心が疲弊することもあった。それはホームシックとはまた違うものだった。巨大な波が私を飲み込むように勢いよく襲ってきて、それなのに私だけを残して波が引いていき、結局砂浜に私一人だけが取り残されたような、そんな虚しさだった。そういう虚しさに襲われた時は、夜空を眺めることが私の習慣になった。空は果てしなく広くて、どこまでも繋がっている。無限の可能性を秘めた、雄大さがある。東京の空でも、田舎の空でも、アメリカでも、エジプトでも。どこでも、空は等しく、人々に生きる意味を考えさせる。この空の果てには、私の悩みを悩みとも思わず、逞しく生きている人間が多くいるに違いないと思わせる優しさがある。そういう空が紡ぐ言葉ないメッセージが、私の東京での生き方を後押ししてくれていたのだ。


そうやって、私は夜空と対話しながら、ゆっくりと丁寧に生きていた。それから何年か経って、ようやく仕事にも東京にも、慣れてきたころ、営業部に男性社員がやってきた。佐藤祐希と名乗る彼は、周りを寄せ付けない、凛とした空気を持つ人だった。失敗とは無縁で生きてきたような人なのだろう。でも、そんな完璧な自分に、彼自身も怯えているような、苦しみが私には見えた。いつか誰かに、鎧を剥がされてしまう日が来ることを恐れているようにも見えた。だから、とても不思議な、掴めない人だった。

噂によると予想通り、彼は優秀な営業マンで別の会社でも、成績はトップだったらしい。私の会社はあまり優秀な人がいなかったので、ヘッドハンティングされピンチヒッターとしてやってきたという。

彼は既婚者で、奥さんは専業主婦だという。仕事も家庭も順風満帆。絵に描いたような人だった。幸せとはこういう人が手に入れるのだと思わせる、幸福が形になったような人だった。でも私は、この人に近づくことをどこかで恐れていた。何かが狂ってしまう、嫌な予感があった。しかし、その正体を見抜けないまま、私は彼と共に営業をすることが多くなった。やはり、彼は噂通り優秀だった。

少しずつ、彼との仕事が慣れてきて、私は知った。彼はそんなに完璧すぎる人ではないし、話しかければ、白い歯を覗かせて笑うこともあった。軽い冗談を言ってくるような、普通の人間であるということも知った。それは嬉しい発見だった。そうやって良い意味でも悪い意味でも彼に対して警戒心が無くなってきたころ

「少しお茶しないか」

佐藤さんは仕事を終えた私にそう声を掛けた。

歯車というものはこうやって狂っていくのだろう。

その狂っていく歯車に、自ら気が付かないふりをしたのか、はたまた本当に気が付かなかったのか、それは覚えていない。

佐藤さんの顔をじっと見つめながら

「良いですよ」

と言ってしまったのだった。


入ることにした喫茶店の古びた木の看板には「オアシス」と書かれていた。かなり奥まった所にあって、昼間なのに大人の男女があちこちに座っていた。そういうところ…ある界隈では「オアシス」と呼ぶのに相応しい場所なのかもしれない。

そこで彼は奇妙だった。いつも快活な彼が、何か言いよどんでいた。

しまった、と私は思った。前にも一度こういう経験をしたことがあるのだ。




5年前、ちょうど私が東京へ越してすぐ、私は友人に連れられて、合コンに参加した。両親の偏った恋愛観を植え付けられていた私は、必然的に出会わされる場で出会ったもの同士の恋は「本物の恋」ではないと思っていた。しかし、案外私という人間は、単純だった。そこで何かと私を気にかけてくれた7歳年上の男性と、頻繁に連絡を取るようになった。何回も会ううちに私はこの出会いを「運命」だと感じるようになった。

彼と私は食の好みや服の好みが似ていたし、好きな映画も同じことが多かった。

そしてその時は訪れた。

「僕と付き合ってよ」

彼が言った。私の答えはもちろん決まっていたのだけれど、彼は言葉を続けた。

「でも僕、結婚は出来ないんだ」

彼の声は遠くにあった。

「奥さんがいるから」

彼は何かを諦めた顔をしていた。

その言葉を聞いしまった私は逃げ出すことも出来た。付き合えないと言うことだって出来た。でも私はそれをしなかった。いや、出来なかった。

「そんなの気にしないよ」

私はそう言った。

「不倫なんて、している人たくさんいるよ。」

私は焦っていた。彼が自分から離れてしまわないように必死だった。だから私は潔く、彼を肯定してしまった。この決断が誰にとっても、良い結果にならないことはお互いに気が付いていたはずなのに。

「いいの?」

期待を込めた彼の声が私の鼓膜に響く。その声が、その期待感が、私はとても嬉しかった。

「告白しておいて、その言い草はないよなぁ」

私はわざと拗ねたように言った。彼は私を抱きしめた。そのぬくもりは、悲しいほどに温かかった。




佐藤さんが何か言いだす前に、こちらから別の話を、と思った。

「自然が恋しくなっていたので、ここは落ち着きます。こういう店の雰囲気。」

私は言った。

「え?あぁ、うん。それは良かった。」

佐藤さんは上の空といった調子で返事をした。

「今日は話したいことがあって誘ったんだ。」

彼は言った。

あの日と同じ匂いがした。


私は佐藤さんを好きだ。それは出会った時から予感していた。

だから恐ろしかったのだ。

近づきたくなかったのだ。

あの時と同じ過ちを繰り返してしまう。

無意識のうちにそう思っていたのだ。

優しくて優秀で、それなのになぜか苦しそう。それが初めの印象だった。その不安定な魅力は、私の母性を刺激した。彼が配属されて仕事を共にして、その印象は更に強いものになった。惹かれていくのに大して時間はかからなかった。しかし、いざその気持ちに気が付いてしまうと、私は槍で体をえぐられたように、心も体も苦しくなった。痛かった。この想いから逃れたいと思ったし、彼と通じ合いたいとも思わなかった。


「君とお付き合いしたいと考えているんだ」

彼は神妙な面持ちで言った。

私はどうして毎回「愛人」ポジションを任されるのだろうか。

「お断りします」

私はきっぱりと言った。好きな人に告白されて、断ることの惨めさは例えようが無かった。

「本気なんだよ」

「あなたには奥さんがいます」

私は微笑んだ。なぜ、あの状況で微笑むことが出来たのか、それは未だに分からないのだが、あの時は自然に微笑むことが出来た。

「それに私、前にもそういうお付き合いをして、痛い目にあったのです。もう懲りています。」

「そうだったのか。」

「辛いとか、悲しいとか、罪悪感とか。そういうレベルじゃないんです。その人が自分の全てになってしまって。別れた後はこの世界から追放されたような、私自身もいなくなってしまったような、そういう孤独を感じるんです。もうあんな思いしたくない。」

「僕は本気なんだ。」

「奥さんと別れる覚悟がある人が言う言葉です。それは。」

そう言ったら、彼は黙ってしまった。

別れるよ、そう言ってくれるのをほんの少し期待していた私が、ものすごく惨めに思えた。

「お話が終わったのなら私はこれで。」

私はむっとしたので、千円札をテーブルに無造作に置いて出ていこうとした。

「別れるよ」

彼は言った。必死な声だった。

「本当に?」

私は分かっていた。彼が奥さんと別れることなんて出来ないことを。

「すぐにうまくいくかは分からないけれど、時間をかけて。」


一度付き合ってしまえば、例え奥さんと別れていなくても、結局、私は彼から離れることなんて出来ない。そうやって、ズルズルと不倫関係を続けてしまう。それが愛人の定めなのだ。

だから、付き合うまでは「もう別れた」だの、「明日には妻に話をする」だの言っておけば良いのだ。そして正式に付き合ってしまってから、「妻とは別れられなかった」と伝えて「それでも君への思いは本物だ。」と甘い言葉を付け加えれば、愛人はその甘い言葉に縋って、いつまでも愛人生活を続けていくのだ。

これが汚い男たちの鉄則だ。

でも彼はそういう駆け引きは出来ない。

「嘘が下手ですね。優秀な営業マンなのに。」

この不器用さが好きなんだ。

守ってあげたい脆さがある。弱さがある。

私は何か大きなものを失う覚悟が出来てしまった。

「もういいや。」

私は大きな声で言った。

「どういう意味?」

彼は言った。

「私の人生、もういいや。」

私はもう一度、席に座った。

「私、二回も不倫を経験して、きっとこれから、まともには生きていけないでしょうね。」

私はやけくそになって言った。それからグイっとアイスティーを飲み干した。甘くて苦くて、今の私の心そのもののような味だった。



その日は休みだった。私は地元の友人である、はなかちゃんに手紙を出すために、郵便局へ行った。

その帰り道、一人の女性とすれ違った。

彼女の世界は、私の住む場所とは違うような気がした。

白くて、霞んでいて、でもはっきりとした存在感のある人だった。

とにかく、とてつもなく悲しい空気が彼女を包んでいた。いつかこの人と深く関わるのではないかと思った。私は、良くないことと分かっていたけれど、彼女を追いかけたい気持ちを抑えることが出来なかった。彼女の後をつけていくと、彼女どんどんと人気のない方へと向かっていった。でも危険ではない、そういう自信が私の中にあって、どうしても彼女の正体を突き止めなければならない気がした。

やがて、彼女は足早になった。私は追いつこうとして必死で走ったのだが、結局追いつくことは出来なかった。

しかしこれ以上先へ、彼女を追いかけて行くことは禁止されているような、なんとも言えない不思議な圧力があったので、私はひとまず退散した。

また後日、この辺りで彼女に会えたなら、少し話をしてみようと心に誓いながら。



佐藤さんは私との関係がバレない様にと、私専用の携帯を買った。

ちっとも嬉しくなかった。

私は彼の一番身近にある、もう一台の携帯に愛を紡いだ内容の電話をかけることは出来ないんだと思うと、それはなんとも惨めだった。その虚しさを抱えきれなくて家に帰ってから一人でこっそり泣いたりした。

その一方で、会社で名前と名字を呼び間違えるのを恐れた私は、互いに名字を呼び続けようと提案した。長くこのお付き合いを続けていくための決断だった。「さくら」と下の名前で呼ばれたら、どんな気持ちがするだろうと考えると、辛くなるのでそれ以上考えないようにしていた。


「今度の休みに桜見にいかない?」

唐突に佐藤さんが言った。

「えぇ!バレないかな」

「レンタカーで遠出したらバレないよ」

「行きたいな。」

私の声は高揚感に満ちていた。


休日に出かけるは初めてだったので、私はいつもよりも念入りに化粧をした。まるで、高校生の初デートのようにソワソワと落ち着かない自分に苦笑しながら、私はいそいそを身支度をした。

「いつもより、気合い入ってる?」

「その言い方は嫌味ね」

「ごめん。綺麗ってことだよ。」

「一日一緒に居られるなんて夢みたいな話だもの。気合いが入って当然。」

「ごめん。寂しい思いをさせて。」

佐藤さんは本当に申し訳なさそうに謝った。

「いいよ。慣れてるもの。」

私は得意げに言った。こうやって都合の良い女に成り下がっていくのだ。私は自分の発言に呆れながらも、その言葉を撤回する気はなかった。


桜は満開だった。親子連れが私たちの前を歩いていた。子供の屈託のない笑い声が私たちを包んだ。本当に明るい笑顔だった。汚れを知らない眩い煌めきだった。

「可愛いね。」

私は言ったけれど、彼は気まずそうに、うん、とだけ言った。私は案外そういう所は気にしていないのになぁと思った。

彼は心からお花見を楽しむ人だった。周りのカップルはお花見をするというよりは、隣にいる愛おしい異性とどう触れ合おうか、そればかりを考えていることが目に見えて分かった。だが彼は違った。ただ、じっと桜を見つめていた。

「君のご両親は、桜を見ながら君をさくらと名付けたのかな。」

しんみりとした口調で言った。

「どうかな。今度お母さんに聞いてみるね。」

「見ていると癒されるし、勇気が貰えるんだ、桜って。健気に一生懸命咲いているから。君に似てる。名前の通りに。」

「健気かなぁ」

さくらって良い名前だよ、と彼は遠い目をして言った。

「いつかそう呼んでくれる日がくるといいなー」

私は冗談っぽく、でも本気で言った。

彼を両親に会わせることはない、さくらと呼ばれる日も来ない。そう思うと、世界が透けて見えて、自分の存在がよく分からなくなった。こうやって、虚しい愛人生活は続いていくのかと思うと、将来が見えなくて不安になった。でも、この人以外に私を必要としてくれる人がいないことも確かだった。



はなかちゃんから、手紙のお礼の電話が掛かってきたのは、その翌日のことだった。

「良くないことを、心の拠り所として始めたでしょう?」

はなかちゃんは突然そう言った。

「はなかちゃんには、隠し事って出来ないねえ。」

「手紙からそういうのがビンビン伝わってきたもん。それで、今度は何に手を出したの?」

「また同じよ。」

私は苦笑して言った。

「あーらら」

「私って、そういう人に好かれる傾向があるのかな」

「さくらがそういう男が好きなんでしょう。一定数いるものよ。そういうだらしない男を、可愛いと思ってしまう厄介な女が。」

「私はその厄介な女なのね。」

「そうよ。2回目だもの。」

はなかちゃんは、はっきり物を言うけれど、そこに嫌味はない。だから、他の人から言われたら、ムッとしてしまうような事でも、はなかちゃんに言われると受け入れられるような節があった。

私は、あの女性の話をした。はなかちゃんは黙ってその話を聞いていた。

「その話は、あなたの彼氏にはしない方が良い気がする。」

はなかちゃんは芯のある声で言った。

「歯車が狂いそうよ。」

「その人に会いに行くのもやめるべきかなあ」

「うーん、どうかな。たぶん、そのうち意図しない所で会えるわよ。」

はなかちゃんは言った。


はなかちゃんは不思議な勘が働く人で、地震が来る前の日はいつも、地震の夢を見るという。私が前に不倫をした時も、すぐに言い当てたし、はなかちゃんの飼い猫が死ぬ前日は頭痛がして眠れなかったという。

以前、はなかちゃんは、大きな事故を起こして、意識不明の重体になった。ちょうどその時から、そういう勘が働くようになったのだと言う。

はなかちゃんは終始、どこか含みのある声で私と話した。とても私を心配しているような口ぶりだった。だから私は敢えて能天気に

「あの人と次はどこで会えるかなー」

なんて言ってみた。


その日、私は午後から一人で映画を見る予定で、電車に乗った。昨晩は佐藤さんとずっと過ごしていて寝不足だったので、疲れていた。昨晩のことをぼんやりと考えているうちに、私は眠りに落ちていった。

「あの…すみません。」

私は誰かに起こされた。

私はその人を見て、ギョッとした。それはあの時、追いかけて見失ったあの女性だったのだ。

「落とされましたよ、これ。」

その人は私の手帳を持っていた。

「あぁ、ありがとうございます。」

私は上の空で言った。

「随分、お疲れのようですね。お体、ご自愛くださいね。」

その人はそう言って、では、と立ち去ろうとした。

「待ってください」

私は必死で彼女を呼び止めた。

「あの、お礼をさせていただけませんか。」

「手帳を拾っただけなのです。本当にお構いなく。」

その女性は何度もそう言ったけれど、私は半ば強引に彼女を喫茶店に連れ込んだ。

彼女とは何か深いところで繋がっている気がしてならないのだ。この出会いを逃してはならない。その思いだけが私を突き動かしていた。


その女性は、「あすか」と呼んで欲しいと言った。あすかさんは、ものすごく白くて、透けるほどの繊細な肌をしていた。体は今にも折れてしまいそうなほど細く、そしてとても美人だった。聡明な美しさだった。でもその美しさの裏側に哀しみと孤独が渦巻いているような、複雑な空気があった。


「どちらにお住まいなんですか」

私はそれとなく探りをいれるように聞いた。

「都内です。マンションに。」

庶民的な答えに私は拍子抜けした。

「あーそうですかー」

私は大層失礼な返事をした。あすかさんは紅茶を一口飲んで、小さく息を吐いた。とても色っぽいその仕草は、まるで私を誘惑しているかと思うほどだった。

「さくらさんは?」

「この近くです。」

「この辺りは自然が多くて良いですよね。私もこの辺に住みたいわ。」

あすかさんは窓の外を見つめながら言った。

「お仕事、お忙しいのでしょう?」

あすかさんがこちらに向き直って言った。

「私はパートしか経験が無いから、分からないのだけれど、あなたのお仕事はきっとお忙しいのでしょう。」

私はさっき電車の中でどれほど乱れた格好で、寝ていたのだろう。そして、この疲れが仕事の疲れではないことが、とてもばつが悪かった。

「いえいえ、昨日は友人と一晩中過ごしていたので、疲れが出たんです」

私は恋人がいると言えない自分が憐れだった。

「私、どうしても人と長くご縁が続かないの。」

突然、あすかさんがそう言った。

「大好きで、この人とは一生親しくさせてもらえるだろうなっていう人が何人かいたのだけれど、みんな事故やら病気やらで、亡くなってしまったの。気が付いたら連絡が取れなくなってしまった人もいたわ。何かひどいことを言ってしまったのかもしれないって思っているのだけれど、原因が分からなくてね。だから私、主人がいるのだけれど、子供は作らない約束をしたの。なんて悲しい約束かしらね。でも私は大切な人をこれ以上、失いたくないのよ。」

心から悲しそうな顔で、あすかさんは言った。けれど、この世を恨む様子が全く見られない所があすかさんの強さのような気がした。

「ごめんなさいね、私ったらこんな話…。初めてあった人にするなんて、さくらさんも困ってしまうわよね。」

「いえ。私、形は違うのですけれど、ずっと一緒にはいられないことが分かっているのに、一緒にいる人がいます。過去にもそういうことがあって。終わってしまえば、その日々は誰にも誇れるものではないし、話せるものでもないから、その時間は私にとって空白のような時なんです。そういう意味では、私もご縁が続きません。あすかさんと違って、私は自ら、その道に進んでいるので、一緒にされては嫌かもしれませんが。」

私は全て言ってしまってから、自分と同じにされたあすかさんが気を悪くしないかとヒヤッとした。

「あなたも大変なのね。でも私、それって悪いことじゃないと思うのよ。だってどうしよもないご縁なんですもの。でもそれが終わってしまった時、例えようのない何かが、自分を包んでしまって、前に進めないような気がしてしまうのよね。」

あすかさんは共感するように、小さく頷いた。その瞳は本物で、私は自分の存在が認められたような気がして、涙が出そうになった。それを誤魔化そうと、慌てて水を口に流し込んだ。それでも、人の心に染み渡るその優しい声は、水と一緒に体内に流し込まれ、ずっと反芻していた。



夕焼けがいつもよりも美しく見える日は、自分の中で何か答えが見つかった時だ。私はその日、夕焼けをこの世のものとは思えぬ感慨で見つめていた。果てしない空のように広がるその夕焼けは、世界でただ一人、私だけがスポットライトを浴びているような高揚感を与えた。

その日、はなかちゃんが仕事で東京に来るというので、私の家に泊めることになった。

「ここの夕焼け、田舎に劣らないね。」

はなかちゃんが驚きを含めた声で言った。

「今日の夕焼けは格別に美しく見えるよ。」

「その心は?」

はなかちゃんが尋ねた。

「何か嬉しいことがあったから、夕焼けが美しく見えるのよ。そうでしょう?」

私は、あすかさんのことを話した。はなかちゃんは黙ってそれを聞いていた。

「はなかちゃんの言う通り、もう一度再会してしまったの。やっぱりあなたって、そういう力がとても優れているんだわ。」

「その人は、どんな人だったの?」

「すごく美人よ。でも、その美しさをひけらかさないの。自覚していないとでも言うべきかなあ。そして、とても物悲しそうな何かを湛えているの。」

「へえ~」

はなかちゃんは、神妙な顔をしていた。

「一度会ってみたいな。」

「私も、はなかちゃんに会わせたいって思っていたの。いつか会ってよ。私、また会う約束もしているし、会う機会はいくらでも作れると思うわ。」




佐藤さんは、その日私を薄暗がりの小さなバーに連れて行った。微かな灯りに彼の顔がぼんやりと照らされている。その顔がいつもの彼と違って見えて、私は別の誰かと時を過ごしているような気がした。

「物語にはすべて終わりがあるだろう」

佐藤さんはワインを口に運びながら、言った。

「そうね。」

「君はハッピーエンドとバッドエンド、どちらが好き?」

「それは話によるかな」

「恋愛だったら?」

「どうしてそんなこと聞くの?」

私は何かに焦って、いつもよりも強い口調でそう言った。

「深い意味は無いよ。ただ、バッドエンドだった時にしか感じられない特別な美しさが僕は好きだったりするんだ。」

「特別な美しさ?」

「そう。恋愛においての話だけれどね。傍にいたら毎日、新しいその人に出会うことが出来るだろう。趣味や個性を知ることが出来る。例えば…、好きな食べ物や好きな音楽、マニアックなところで言うと、間違えて覚えた字の書き順だったり、ほくろの位置だったり。毎日一緒にいれば、そうやって、どんどんその人に関する情報が加算されていく。だから過去に手に入れた、その人の情報をいちいち振り返ることは無くなるんだ。」

いつもより饒舌な彼の言葉を私は黙って聞いていた。

「だけど、もう二度と会えなくなってしまったら、きっとその人との過去の思い出…とか、その人の癖なんかを大切なものとして一生心に刻むことになる。だから、字の書き順や、ほくろの位置っていう、過去に手に入れた情報がその人を思い出すための大切な要素になっていく。そうしたら、きっとハッピーエンドの人は何も感じないある瞬間に、相手を愛おしく感じることが増えるんだ。例えば、その人と同じ書き順の人に出会うたびにその人を思い出したりするんだ。うーん、伝わるかな。とにかく、その瞬間が、僕は堪らなく切なくて、美しいと思うんだ。」

佐藤さんはしっとりとした空気を湛えながら言った。

「ハッピーエンドにはない美しさね。」

私は佐藤さんの言葉をなぞるように言った。

「でも、君とはその儚い美しさを共有したくは無いよ。ハッピーエンドでありたいから。」

「その言葉が聞けて安心したわ。」

私は本当に安堵して、佐藤さんの肩に頬を寄せた。

「物語のバッドエンドは美しいかもしれないけれど、私の人生はハッピーエンドでありたいよ。」

私は目を閉じて、小さな声で言った。佐藤さんは私の手を静かに、強く握っていた。



私はまたあの喫茶店で、あすかさんと会う約束をしていた。はなかちゃんもわざわざ、東京に来てくれて、三人で会うことになった。

電話で、はなかちゃんも誘って良いかあすかさんに尋ねると、お友達が一気に二人も増えるなんて嬉しいわ、と言っていた。

あすかさんと、はなかちゃんは気が合うのかは分からなかったが、それなりに楽しそうに過ごしていた。はなかちゃんが、実家の田舎生活のことを話すと、あすかさんは興味深そうにその話を聞いては、遠くを見つめて懐かしいような顔をしていた。


「あの人、良い人そうだったね。」

あすかさんと別れてから、はなかちゃんはそう言った。

「そうでしょう。でも、悲しそうじゃない?」

私は、はなかちゃんの率直な意見を求めた。でもはなかちゃんは、まあねぇ、とはぐらかしてしまった。

「私に何かできる事があればと思うんだけれど。」

私は独り言のように言った。

「それは、あんたが苦しむことになるよ。」

はなかちゃんは低い声で言った。

「どうして?」

「……わかんない。けど、そんな気がするから。」

はなかちゃんは夜の街を、小さな呼吸で歩いていた。

「仲良くしてはいけないの?」

「熱心に向き合うと良いよ。そうしたら、たぶん道が見えてくる。」

「はなかちゃん、何かが分かっているような口ぶりじゃない。」

「分からないよ。でも今はこのままでいた方が良いってことだけは確かだよ。」

はなかちゃんはその日、それ以上、このことについては話そうとしなかった。私も、はなかちゃんのその小さな呼吸に合わせて、小さく息を吐いた。そうやって、「その日」が訪れるのを待つことにした。

夜の街を、はなかちゃんと二人、何も言わずにただ歩いた。夜という漆黒の闇に眼を凝らせば、あすかさんの美しくて、儚い横顔が浮かんでは消えた。その横顔が、懸命にこちらに何かを訴えているような、そんな気がした。



私の日常は、そんなに可笑しなことが起こることもなく、ただ淡々と過ぎていった。きっとこれから先もそうなのだろう。気が付けば、このまま三十路を迎え、結婚せずに佐藤さんと付き合い続けるか、仕事人間になるか、きっとそれだけの人生なのだろうと、訳もなく腹をくくっていた。


小さい頃の私は、周囲から何を言われてもニコニコとしていられる子供だった。駄々をこねたり、同学年の子供と喧嘩したり、そういうこととは基本的には無縁で生きてきた。どうしてそんな性格だったのか分からないけれど、そのほうが生きやすいことを無意識に理解していたのだと思う。そういう達観したところがある子供だった。

でもそのせいで、私はずいぶんと傷ついた。


中学生の頃、父と出かけたときに、とっても可愛いワンピースを見つけた。私はこんな可愛い服、自分に似合うはずがないと思った。だから父にねだるつもりもなかったし、自分で買おうともしなかった。でも、父がそのワンピースを見て言ったのだ。

「これ、さくらに似合うよ。」

「こんな可愛い服、似合わないよ。」

値段もちょっぴり高かった。

「そうかなぁ。似合うと思うけどな。一度試着してみなよ。」

私は試着室に連れていかれた。着てみて、うんやっぱり似合わない、やめよう。そう思った。でも父に見せたら

「すごく似合ってる。買ってあげるよ。」

と言われた。なんだかものすごく嬉しかった。その時に気が付いた。あ、私このワンピースが欲しかったんだって。でも着こなす自信が無くて、だから誰かに似合うって言ってもらいたかったんだって。私の家庭はそんなに裕福ではなかったのに、父はちょっぴり高いそのワンピースを買ってくれた。

私は嬉しかった。そのワンピースを手に入れたことも嬉しかった。でもそれ以上に、父の娘への温かい愛が嬉しかった。帰りの車の中で私はいつもより、よく喋った。父はいつもより、ゆっくり車を走らせた。


私は後日、その服を着て友人と遊びに出かけた。友人は私をジッと見て言った。

「結構攻めた服着ているね。私、そんなの着る勇気ないわ。」

「そんなの」という4文字に込められた皮肉が体中に伝わった。雑で、卑劣で痛い言葉だった。軽蔑しているのか、嫉妬しているのか。もはやそれすらも分からないけれど、ただその言葉だけが私の頭の中で反芻した。

心に鳥肌が立ったのが分かった。「友人」をシャットダウンしている音が頭の中で聞こえた。人はこんなにも悲しみで満たされてしまうことがあるのだと知った。

「この人」は、この服を買った時の私の高揚感、父の愛、ちょっぴり高い値段が書かれた値札、試着室で似合っていると言った父の声、お洒落な紙袋を照れ臭そうに持つ私、その態度にはにかんだ父の顔、帰りの車の中の弾む会話、そういう大切な瞬間を全てぶち壊している自覚はあるのだろうか。

「やっぱ、似合ってないかぁ」

笑顔で言った。怒りも悲しみも何も無いような表情で。

あの日は、雨だった。


早熟した私には、友達の配慮の無い子供らしい言葉が、あまりにもぞんざいに感じられた。その言葉の数々に傷つけられた。私はその友達らのことを、ひどい奴だとか、無作法だとか思っていた。でも大人になっていくにつれて、彼らも本音と建前をわきまえるようになった。そうすると、彼らはそんなに悪い人ではないと思えるようになった。ただ、子供だったのだと気が付いた。人は皆、そうやって礼儀を持った大人になっていくのだと学んだ。友達の成長っぷりをこうやって俯瞰的に見ている私は、人よりも随分生きづらい人生を送っているのだと思った。


はなかちゃんはそんな私の少々厄介な性格を出会った時から、見抜いていた。そして彼女もまた、非常に達観した考えを持つ人だった。けれど、彼女は私とは正反対の性格で、思ったことは敢えて口に出す人だった。

私が「これを言ったら傷ついてしまうから、黙っておこう」としていることでも「言ってあげないと可哀想。それがその人のためになるのだから。」と考える人だった。

私は彼女の考えに引きずられるようになって、それがとても心地よかった。はなかちゃんの言葉は、どんな歴史上の人物の名言よりも、確かな響きを持って、私の胸に飛び込んでくる。



「あすかさんに、直接聞いてみたらダメかなあ」

私は、はなかちゃんに尋ねた。

「何を聞くの。」

「何に悲しんでいるのですかって。」

「だって、相談されたわけでもないのに?」

「珍しいね、いつものはなかちゃんならズケズケとそういう…プライバシーってものに入り込んでいくじゃないの。」

「人聞きの悪いこと言わないでよ。私はその人のためになると思う時だけ、そういうことをするのよ。闇雲にしているわけじゃないよ。」

はなかちゃんは、薬缶を火にかけながら不服そうに言った。

「それはそうでしょうけど。今回のことは、あすかさんのためにならない?」

「向き合えばそのうち分かるよ、きっと。何で悩んでいるのか。」

「もうー、そればっかり!はなかちゃんがそう言うから、向き合うために悩みを聞き出そうとしているんじゃない!」

私は口を尖らせた。

「さくら。ちょっと落ち着いて。私の勘がそう言っているだけなの。私だってどうしたら良いか分からない。でもさくらも、あすかさんもどちらも傷ついてしまってからでは遅いじゃない。だから、慎重にしましょう。」

はなかちゃんは、ほとんど消え入りそうな声で言った。

「うん、そうだね。そうするよ。」

私の声も消え入りそうなほど小さかった。


―今日はどこにいこうかなー。映画でも見る?―

愛しい恋人の、その声があまりにも子供じみた高揚感でいっぱいだったので、私は嬉しくなった。

―映画なら気になるものがあるの―

私の声も彼に似て、高揚感で満たされていた。

「それはまた、ホラーなんじゃないの?」

佐藤さんは怪訝そうな顔をした。その顔すらも、どこか楽しそうだった。

「僕がそういうのを見て、怯えているのを見たいんだろう」

「そう、どんな映画よりも面白いのよ。」

「本当に悪趣味だなぁ」

彼がそういって笑った。私も笑った。笑い合って、笑い合って、彼といると、本当に笑うことが多かった。本当の私が、本当の心で笑っていた。健全だ、と思った。

それに私達は、最近もっともっと普通の恋人の距離感になってきて、何もかもが楽しくて、あらゆる景色が虹色に見えた。


「面白かったねー」

映画館を出て、第一声、私はそう言った。もちろん映画館から一緒に出ていくと、誰かに見られてしまう可能性があるから、バラバラに出て、電話で話しているのだが。こういうのも、初めは悲しかったのだけれど、慣れてしまえば案外楽しいものなのだ。暗がりの立体駐車場に停めている車の中で合流できるまでの時間が、妙にわくわくして、一日に二度も待ち合わせが出来るなんて素敵じゃない、と考えたりもした。

「僕は恐怖で、死にそうだったよ。」

疲れ果てた声が、電話越しに届く。その声から、彼の表情が安易に想像出来て、私は可笑しくて楽しかった。


夜のドライブは、私にとって果てしない不安を抱かせるものだった。

「この世界に二人っきりって感じがしない?」

私は車窓から見える、家の灯りの数々をぼんやりと眺めながら言った。

「逃避行、とか、駆け落ちとも言えるかなぁ。何かから逃げている感じもするよね。」

「それは楽しくないから嫌だなあ。」

彼は笑って言った。

「ううん。楽しいよ。だって、ずっと一緒にいられるんだもん、逃げている間は。うまくいけば、一緒に死ぬことだって出来るよ。それに、みーんな私たちが恋人同士だって知って、追いかけているんでしょ。私とあなたが恋人だって、みんな知っているのよ。素敵でしょ。」

「でも、それはきっと君が望んでいない、バッドエンドになるよ。」

「現実がバッドエンドよりも悲しいのかもしれない。」

私はついそう言った。

「ねえ、このまま行けるところまで逃げてみる?」

私は言った。

彼は何も言わなかった。

「冗談よー!本気でそんなこと言うわけないじゃない。まともに受け取らないで」

私は言った。沈黙をかき消すように。明るく大きな声で。

涙が頬を伝っていることが、バレない様に、私は外を見た。

街の灯り一つ一つが幸せな家庭を象徴するように、煌々と輝いていた。

「ごめん。」

彼が口を開いた。

「そういうのいい。」

私は言った。

「そういうの言われても虚しくなるだけだから。」

私は自分の言葉を噛み締めながら、言った。

こんな時でさえ、彼の声が愛おしく、彼の体温を感じられるこの空間が好きだと感じる自分が悔しかった。

「確かに、君には寂しい思いをさせてきた。でも、それは、こういう順番で出会ってしまったからなんだ。与えられた人生にはどんなに逆らっても逆らい切れないから、僕は今も妻といる。」

その声は、深い悲しみを含んだ、宵の声色だった。

「逆らい切れないって、やってみなきゃ分からないことよ。」

「やってみたら、きっと妻が」

やっぱり、奥さんが一番なんだ。所詮私は二の次。そう、それが不倫だ。分かっていた。でもやっぱり、彼に期待していた自分がいたのだ。

「奥さんが死んじゃう?」

「そういうような、大きなことになっちゃう。」

「濁した言い方ね。なんにも教えてくれない。」

私は吐き捨てるように言った。女って強いからそんなことじゃ死なないわよ、と言ってやろうかと思ったけど、それは言えなかった。


それでも、私と佐藤さんの関係は終わらなかった。終われなかったとでも言うべきかもしれない。そうやって、小さな溝が出来て、それでもそれを見なかったことにして、関係を続けていくことが出来る。所詮、面倒になりそうなことには首を突っ込まない。楽しいことだけを共有していく。それが不倫というものだから。



私達はそういう風に結局、大きなきっかけが無い限り別れることはない。この関係を承知で付き合ったはずなのに、彼の愛を世界で一人、自分だけが受けたいという愛人にあるまじき独占欲が、あの虚しい喧嘩を生み出した。

「さくらは、もう少しクールに恋愛していると思っていたよ。」

はなかちゃんが電話の向こうで驚いたように言った。

「もっと俯瞰的に、どこか他人事のように恋愛しているのかと思った。」

「それなら、不倫なんて、道徳に反した道へは行かないよ。」

「それもそうか。」

はなかちゃんが笑った。

「それで、今回は前の彼に対してよりも、色々と言っているようね。独占欲ってやつだ。」

はなかちゃんが言った。

「それだけ好きっとことで良いじゃない。」

「いいのかな」

「だって、別れるなんて出来ないでしょう」

はなかちゃんは私を見透かすような口調で言った。

「思いっきりいくところまでいっちゃって。駄目になったら受け止めてあげるから。」

はなかちゃんが小さく笑った。その声は強くて、頼もしくて、私は涙が出た。人前で泣くことが嫌いな私が、ここ最近、もう二度も人前で泣いてしまった。相当心が参っているんだなと思った。



あすかさんがいつもの喫茶店ではなく、公園で話したいと言ったのは、夏が終わりを迎える頃だった。最近はあそこの喫茶店の冷房が強すぎて、頭が痛くなっていたのであすかさんの提案は有難かった。

「ごめんなさいね。ちょっと外の空気を吸っていたくて。」

あすかさんは端正な顔を小さく傾けて笑った。景色が違うと、いつもと違うことを話せそうな、明るいパワーが漲る。私はそう思っているので、今日の話はどんなものになるか見当がつかなかった。

「いつも喫茶店よりも、気分が変わってちょうど良いです。それに冷房が」

「あそこ、ちょっと寒いわよね。きっと店主さんが暑がりなのよ。」

あすかさんが笑った。

「さくらさんは今、だれかとお付き合いしているの?」

珍しく、あすかさんが俗っぽい質問をした。

「一応、はい。」

私はお茶を濁すような言い方をした。

「聞いても良いお話かしら。」

「いえ…、はい。大丈夫です。」

「どんな方なの?」

「仕事が出来て、とっても不器用な人です。」

あすかさんは、そう、と言って微笑んだ。

「嘘が下手で、とっても優しい人です。優しすぎて人を傷つけるんです。」

「あなた、その人のことがとっても好きなのね。」

あすかさんは目を細めて言った。何かを思い出すような、柔らかい表情だった。

「私も主人と出会った時はそういうどこか落ち着かない高揚感があったわ。」

あすかさんは、もうあの頃のような若々しい気持ちは消えてしまったけれどね、と哀しそうに笑った。

「あすかさんの旦那さんはどんな方なんですか?」

私は、太陽に近づいていく雲をじっと見つめて言った。

「いいのよ。私の話は。楽しいものじゃないから。」

あすかさんの空気が、霞んでいくようだった。ここに彼女の悲しみの原因が隠れていると思った。

「私に出来ることなら、なんでもします。」

私は太陽が雲に完全に隠されたのを確認してから言った。

私の声にあすかさんは私を見た。大きな目が、更に大きくなって、それから目を細めた。

「あなたとなら、分かり合えることかもしれないけれど、言いたくはないのよ。」

あすかさんは歩幅を狭くして、地面に目をやった。

「私、こう見えてプライドがものすごく高いの。惨めだって人から思われることが我慢ならないの。だから心の中でいくら傷ついていても、人前では平気なふりをしていたい。そういう人間なの。だから、あなたにもこのお話はしたくないわ。」

あすかさんは私の顔をじっと見た。

「その気持ち、わかります。」

私は何故かほっとしていた。あすかさんが私に話をしなかったことで、私の中の何かが許された気がした。

「私も、そういう人間です。」

「似たもの同士ね。気持ちを分かってもらえて嬉しいわ。」

あすかさんの声は高く澄んでいた。霧を晴らすような爽快な声色だった。



その夜は、とてつもなく寝苦しかった。いつも布団に入ったら、すぐに眠れてしまう私が、じっと天井の木目を眺めて、何かから逃れようとしている。それは、何かと戦っているような、戦国武将の戦の最中の夜のような緊迫感だった。

「だあぁっ」

私は布団から這い出すと、冷蔵庫にあるペットボトルの水を一気に飲み干した。それでも、頭から何かが離れない。

こういう時は、散歩だ。と私は、薄いカーディガンを羽織って外に出た。空気は、もう秋の香りだった。空は暗くよどんでいて、少し高い。車も人影もなく、街頭もない。まさに闇だった。不気味なほどの暗さだった。どこからか、馬の足音が聞こえてきて、その上に乗っている武将が放つ矢か、銃で撃たれてそのまま私は死んでしまう気がした。

そんな不吉な夜だ。

でも私は散歩をしていたかった。家の中にいるよりましだ。そんな直感が私の歩みを進めさせた。


一人、ぼんやりと歩いていると、小さな白い光が、浮かび上がった。虫なのか、なんなのか、得体のしれないそれは、私を導くように、暗闇を静かにゆらゆらと揺れている。

好奇心旺盛、そういう言葉が似合わない私が、その日はその光の正体を知りたい、そんな欲求に駆られていた。しかしその光は、私が一歩近づくたびに白くかすんで、小さくなっていく。だんだんと小さくなっていくそれは、私が目の前にたどり着いたときには消滅してしまった。

「なんだったの、あれは。」

私は誰にも聞こえないような声で言った。安堵感から生まれた独り言だった。

でもその瞬間だった。

私の前に現れたのだ。

白く霞んだあすかさんが。

「あすかさん?」

私は今まで人の気配の無かった辺りを見渡してから言った。

「どうしてここに?」

あすかさんは何も言わない。ただ、微笑んでいた。

私は、それがとても奇妙だった。でも不思議なことに怖くはなかった。

あすかさんは私に、おいでと手招きした。私は何かを覚悟した。覚悟しなければならない圧力があった。その圧力は半透明なあすかさんから醸し出されるものではなかった。私自身の中から感じる、不思議な圧力が私に何らかの「覚悟」を持たせた。

私はゆっくりとあすかさんの方へ近づいた。私は、あすかさんに近づくたびに、少しずつ自分が霞んで、白くなっていくのが分かった。この世界ではない、どこかへ誘われるようで、夢見心地だった。そして、立っているのも、目を開けているのも難しいくらいに、体中に力が入らなくなった。


次に目を開けた時、私は知らない家にいた。知らない壁、知らない扉、知らない時計、ソファ、テレビ。そして廊下から聞こえる足音。あぁ、きっとこの家の人がこの部屋に入ってくるんだ。きっと私の知らない人……では無かった。佐藤さんだった。

「佐藤さん!」

私は声を上げた。でも彼は私の声には気が付いていない。

とても穏やかな顔をしていた。初めて見る顔だった。

「これが上手いんだよ。ここのコーヒーが。」

佐藤さんがキッチンにいるエプロン姿の女性に話しかけている。

その人はあすかさんだった。

「私も好きだけど、ちょっと高いのよね。」

「今度の休みに、コーヒーの専門店にでも行ってみようか。」

「これよりも美味しいものが見つかるかもしれないわね。」

2人が嘘の無い世界で笑い合っていた。その世界はとてつもなく平和だった。



私はあれからどうやって家に帰ったのか覚えていない。翌日、体中が痛くて、目が覚めた。

あの夜の出来事が、すべて本当ならば、私は気が付いてはならないことに気が付いてしまったのだと思う。

「夢かな。」

私の声は自信なさげに遠くに消えた。

目覚めても、なお私は夢の中にいるような気分だった。

「さくら、いるー?」

窓の外から聞きなれた声が聞こえる。

慌てて窓を開けると、そこにははなかちゃんが立っていた。

「どうしているの?」

「こっちに用事があって来てたの。ついでに寄ってみようと思ってね。」

携帯で連絡してくれれば良いのに、それをしないところが彼女らしい。

「私も話したいことがあったの。」

私ははなかちゃんを家に招き入れた。はなかちゃんに相談したら何かが変わる気がした。私が慌ただしく、お茶を入れていると、はなかちゃんは当然のようにソファに座った。

「この家、本当に落ち着くよ。好きだなあ」

はなかちゃんは、部屋中を見渡しながら笑った。

「実家みたいな雰囲気がある?」

「ううん。でも私を歓迎してくれている気がする。家中が。」

「私も大歓迎よ。」

「それは知ってる。」

「ばれていたかー。」

私は笑った。はなかちゃんは私の出した紅茶をすすって、小さく息を吐いた。はなかちゃんは、話って何?とでも言うような顔で、私を見た。

私は昨日の不可思議な体験を全て話した。

「それで、私はずっと嫌な予感がしていたんだ。」

はなかちゃんは、納得したように頷いている。

「これは真実なのかな。」

私は苦虫を噛み潰したような顔で、はなかちゃんに尋ねた。

「たぶんねぇ。どうするの?」

はなかちゃんは、同情するような顔で私を見た。

「友達の旦那さんが、自分の恋人だなんて滅多にないことよね。」

口に出して初めて、それが紛れもない「事実」であることを実感した。それは受け入れがたく、でも受け入れなければならないものだった。

「どちらを取るか…究極ね。」

はなかちゃんの声は、小さく響いた。その声色から心配してくれていることはよく分かった。そういう優しさが私には有難かった。でもだからと言って、その優しさに甘えてはいけないことも良く分かっていた。

「もう少し、考えてみる。今すぐにということでもないだろうし。今までだってずっとこの関係を続けていたんだもの。今さら急いだって仕方ない。」

私は、妙に冷静だった。

「早くしないと、バレてしまうかも。」

「それはあなたのあの不思議な勘?」

「ううん。単にそう思っただけ。」

「じゃあ、やっぱりゆっくり考えて行動するわ。」

私は小さく微笑んで言った。その声は震えていた。それでも気持ちはやはり落ち着いていた。はなかちゃんは、私の決心に何も言わなかった。

「はなかちゃんはどうして東京に?」

はなかちゃんは、眩しそうに眼を細めた。

「母に会いに来たのよ。」

「お母さんって、あの、昔亡くなったっていう。」

「そう。法事だけれど、これを私は再会だと思っているからね。」

はなかちゃんは静かに笑った。

「元気そうだったの。分かるの、法事に行くたびに私の中に、母の何かが入り込んできてね、それが元気そうだった。」

「そっか。良かったね。お母さんも、はなかちゃんに会えるのが楽しみだったのね。」

「生きていれば、どうにでもなるものよ、さくら。生きていれば、何度でもやり直せるんだもの。」

はなかちゃんは私の背中をそっとさすった。


あすかさんに会ったのは、それから数日後だった。

「あすかさんは、旦那さんのことが好きですか?」

私は言った。

「急にどうしたの。」

あすかさんは驚いたように言った。

「私の恋がどれほど本物なのか、知りたいんです。」

「私と比べてみるの?でも私が真実の恋をしているとは限らないわよ。」

あすかさんは困ったように言った。私には責任が重すぎるわ、他の人に聞いた方がいいわよ、とも言った。

「あすかさんの意見が聞きたいんです。」

「私は、主人のことがとても好きよ。あちらが私をどう思っているのかは、もはや分からないけれどね。私は、彼が幸せならそれで良いと思うくらいには、彼のことを愛しているつもり。」

その言葉は、目は、声のトーンは、醸し出す色は、真実だった。嘘の無い言葉の羅列だった。綺麗で、繊細で、太刀打ちできない、優しい愛情が彼女を包んでいた。

「でも、これは私の思いであって、これが本物の恋と言えるかは分からないの。だから、私を軸に、あなたの恋愛を計らないで頂戴ね。私よりも立派に相手を愛している人も、その逆に私よりも愛していない人も、この世にはたくさんいると思うから。」

あすかさんは、あなたの恋愛の流れを私の言葉で変えることだけは避けたいわ、と私に何度も言った。私が今、何かしらの大きな決断をしようとしていることが、あすかさんには分かったようだった。それと同時に彼女は、先日の夢に何も関与していないこともよく分かった。そして、本当に心の綺麗な人だと思った。誰よりも、佐藤さんを愛していることもよく分かった。ありきたりなこの感想が、私の決心を強めた。

「素敵です。私もそういう恋がしたいです。」

私は本心を口にした。

「でも、さくらさん以前、あなたの恋人のことを話してくれたでしょう。その時の言葉が私、とても心に響いたのよ。彼は優しすぎて人を傷つけるんですって、そう言ったでしょう。それって、きっとあなたのことも傷つけているのでしょう。それでもあなたはその人が好き。それはきっと本物だと私は思うのよ。それだけ、その人の悪いところも愛している証拠だもの。」

あすかさんは言葉を丁寧に、紡ぐように言った。

「あなたの恋は本物よ。」

あすかさんは、私の目をまっすぐに見た。優しい目の色だ。あすかさん特有の悲しみと優しさが同居した、人を惹きつける魅惑的な目だった。

私はあすかさんの言葉を聞きながら、本物の恋が出来たのなら、もうその事実だけで十分だと思った。

「あすかさん、私、自信が付きました。」

あすかさんは私の目を見つめている。

「私は、彼が幸せになれる決断をします。それが私の幸せになりますから。」

私も、あすかさんの目を真っ直ぐに見つめて言った。

夢で見た、あすかさんと生活する佐藤さんの表情は、幸せに満ちていた。大きな丸い幸せが彼の周りに溢れていた。そう、この決断こそが彼にとって、、そして私にとっての幸せなのだ。



「話って、」

「今日で終わりにしましょう。」

私は彼の言葉を待たずにきっぱりと言った。

「急にどうして。」

「急じゃないわ。ずっと前から決めていたんだもの。」

私は気持ちが揺らがないように、心を強く持って言った。

「運命には逆らえないって、僕が言ったからか。」

彼の言葉に、悲しみの色が含まれていると感じたのは、私の思い上がりだろうか。

「ううん。私が幸せになるための決断。」

私の言葉は、青く冷たい色を放っていた。

「私、人を傷つけてでも幸せになりたいの。あなたの傍にいたら私は不幸になってしまう。だから、さようなら。そういう私をあなたは好きになったんだもの。許してね。これが最高のハッピーエンドよ。」

私の言葉に、彼は愕然としていた。

「それにね、あなたは結婚しているの。奥様を大切にするべきでしょ。不倫なんてするもんじゃないわ。あなたの素敵な鎧が剥がれるきっかけが、私との不倫だったら嫌だしね。」

私は、喉の奥が震えるのを必死で押さえながら、言った。

「鎧ってなんの話?」

あすかさんが瞼の奥で、微笑んでいた。

私はそれ以上、何も言わなかった。黙って去っていく私を、佐藤さんは追いかけても来なかった。言葉を失ったのか、腹を立てているのか、悲しんでいるのか、それは分からなかったが、もうこれで良いのだと思った。これ以上、話していては私が私を抑えられなくなると思った。


外に飛び出したら、晴れやかな青空が広がっていた。

「すっきりしたねー」

私は必要以上に大きな声で言った。両手を大空に投げ出すように、目いっぱい広げて、大きく深呼吸をして、目をつぶって思いっきり叫んだ。目を開けると、周りを散歩していた人が何人かこちらを見ていたが、そんなことは気にしなかった。気にする余裕も無かった。

敢えてこんなことを口にしてみても、結局とても寂しいことに変わりはないのだけれど、それでもすっきりしたことは確かだった。


家に帰る道をゆっくりと歩きながら、彼が私に与えたものを、少しだけ思い返したみたけれど、一番に思い浮かぶのは、悲しみと苦しみが同居した果てしなく切ない幸せだった。



「そういう道を選んだのね。えらいと思うよ。」

電話越しに、はなかちゃんが感心しているのが分かった。私は、自分の行動が「えらい」と評されるものでは無いことだと分かっている。愛人なんて、道徳に反している。でも、この人生が、汚いものだとは思いたくない。私なりに懸命に生きてきた道なのだ。

はなかちゃんは、そういう私の心の叫びを、受け止めるように、汲み取るように、優しかった。私が、はなかちゃんに電話をかけたのは、訳も聞かず、世間の風潮も気にせずに、誉めて欲しかったからなのかもしれない。

「鎧、ずっと来ていてほしかったのよ。彼には。」

「あぁ、彼が纏っているとか言ってたやつ?」

「そう。彼は完璧なのよ。もし不倫がバレたら、私のせいで彼が台無しになっちゃうじゃない。そうなったら彼、きっと生きていけない。だって、ずっと優等生で生きてきたんだもの。鎧が剥がれたら、きっとすぐ砲弾に当たって…即死。きっとだーれも彼を救えない。」

私は笑った。

「今度こそ、一生、一緒にいられるって、疑いもなく信じられる人と出会えるといいね。」

はなかちゃんは、願うように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「うん。」

私は、素直に頷いた。


電話を切った私は、堰を切ったように泣き出した。別れたすぐ後も、はなかちゃんと電話をしている最中も、涙は出なかったのに、今はとめどなく溢れてくる。それは、哀しみ、苦しみ、寂しさ、そのどれでも無くて、それら全てでもあった。

夜の静かな闇と、この涙が、私の全てを洗い流していくようだった。



最後にあすかさんに会ったのは、佐藤さんと別れて、一カ月経った頃だった。

あすかさんの、どこか物悲しそうなあの空気は、この一カ月で随分と薄れていた。

「今日は本当に良い天気ね。」

あすかさんは、太陽のように笑った。いつも月のような、愁いを帯びていた彼女が、太陽のように笑う姿を初めて見た。それはそれはとても眩しくて、私は目を開けていられないほどだった。

「最近、幸せですか」

私はあすかさんに尋ねた。あすかさんは、眉毛を八の字にして私を見た。

「幸せよ。あなたにはそう見える?」

「はい。とっても。」

「ありがとう。嬉しいわ。」

「私も嬉しいです。」

私は心からそう思って言った。でも、きっと私は笑えていなかった。でも、本当に嬉しかったのだ。彼女のその太陽のように眩しい笑顔が。人間は時々、本当に嬉しくても笑えないことがあるんだなぁと、うまく笑えない自分に同情しながら思った。あすかさんは私のその表情に困惑しているようだった。そして遠慮気味にありがとう、と言った。


私はその日以来、あすかさんには会っていない。


私は、また両親とはなかちゃんのいる、地元に戻って、丘の上の実家で、生活している。東京での仕事は辞め、父に頼み込み、小さな飲食店を建てたのだ。

母は、おかえりー、さくちゃんがいる方がやっぱり楽しいから嬉しいわ、と本当に嬉しそうだった。もちろん、母のその言葉の裏に、私の荒んでいる心を励まそうとする確かな愛情があることは充分に伝わった。しかし傍から見たら、ただ能天気な母親に見える。そういう所が母の好きなところだった。父は私に一言、しっかりやりな。と言っただけだった。

私はやっぱり両親に似ていて、結局東京という都会の空気は合わないのかもなーと思った。


私は、自分の意志で始めた店をとても気に入った。風通しが良くて、自然が近い。森も海も一望出来て、穏やかになれる。刺激が多い日々の中で疲弊した心を、存分に癒してくれる、そういう場所だ。

私はその店の看板には「オアシス」と書いた。

そこは、いつか私が訪れたあの街中にひっそりと佇むカフェに似ていて、様々な年齢層の男女が多く訪れた。私は、どこか陰のある幸せを湛える彼らが一生、一緒にいられることを祈りながら、ペアのマグカップで、お茶を出し、注文を取っている。


「さくらー。今日はコーヒーお願いね。」

はなかちゃんが時々、こうして遊びに来てくれるのが私の一番の楽しみだった。

「オアシスって、落ち着くのよねー」

「一人で来るのは、あなたくらいよ。」

私は、笑って言った。

「いいじゃないの。それはそれで気楽なものよ。」

はなかちゃんは、私に小さな声で言った。

「それもそうね。」

私は笑った。はなかちゃんも笑った。


このさりげない温かな幸せは、私にとって、一生続く確かな幸せだと確信している。


最後まで、ご覧いただきありがとうございました。

初めての投稿で、ドキドキしているのですが、皆様に楽しんで頂けたら幸いです。

ブックマーク、評価、ご感想など頂けたら嬉しいです。

これからもどうぞ、よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ