水溜まりの覇者
メコン川流域。
雨季が終わると川幅は狭まり、あちらこちらに水溜まりが残る。
水溜まり、と謂ってもそれなりに広い。
しかし『沼』と呼ぶには小さ過ぎる。一軒家の敷地くらいあるか無いか。やはり『水溜まり』としか謂い様が無い。
ベタはそこに棲んでいる。
群を作らず単独生活をする生き物が縄張りを主張する場合、多くは求愛・産卵・育児に都合がよい場所を確保しているからだ。
ベタは自分の生存の為に縄張りを主張する。
水溜まり丸々一つを。
水溜まりに取り残された同族は何匹もいる。
ベタは一つの泡巣にいくつもの卵を産む。同じ場所に取り残された同族は兄弟姉妹である可能性が高い。
────それら全てが敵だ。
体長7cm程度のベタにとって、家一軒分の水溜まりは決して広くは無い。
雨季が終わり今は乾季だ。水溜まりは徐々に徐々に干上がっていく。
共存する余裕は無い。
日に日に狭まる水溜まり。
それと共に減っていく餌。
同じ水溜まりにいる兄弟姉妹────それは繁殖の相手にならない生存競争の敵なのだ。
だから、殺す。
学名ベタ・スプレンデンス。
『フィン・スプレンディス』ヒレを広げ身体を大きく見せる魚類の威嚇行動が、そのままベタの学名にされた。
身体中のヒレを大きく広げ、全身の血流が活性化する。毛細血管がヒレを輝かせる様は特に『フレアリング』と呼ばれる。
水中に激しく燃える炎。
憎悪無く、許容無く、兄弟姉妹の情も無い。相手が死ぬまで闘いは止まらない。
何故ならここは水溜まりだから。逃げ場など何処にも無いから。
乾季の終わりまでに水溜まりの水はほとんど残らないから。
ベタの属するアナバス亜目には直接空気呼吸する為のラビリンス器官が存在する。
ベタはエラ呼吸をほとんどしない。
乾季の終わり。泳ぐ事もままならなくなった、小さな小さな水溜まり。
────それは同族を全て殺し、覇者となった者の玉座。
たった一匹となったベタが玉座に横たわり、空気を吸いながら静かに待つ。
やがて。
天上から一粒の水がベタを濡らす。
一粒が二粒、二粒が四粒、八粒、十六粒……
……雨季が始まる。
メコン川は再び川幅を広げ、ベタの身体を浸していく。
ベタは生き残った。
死闘、飢餓、乾燥、窒息に耐えた身体を土砂降りが祝福する。
やがてベタは繁殖の相手を見付けるだろう。自分と同じ、水溜まりの覇者に求愛するのだ。
────そしてまた水溜まりの覇権争いが始まる。