インク
瀬田は満員電車に乗り合わせている。通勤時間帯は殺人的で、注意していないと押し潰されてしまいそうだ。
その中で、瀬田という男は野球帽を目深にして、首だけ動かして周囲の人間を値踏みしている。
と、後ろにいる女性に瀬田は目を止める。年齢は瀬田と同じくらい、四十代半ばと言ったところか。黒のジャケットに同じ色のタイトスカート、肩に小さな鞄をかけている。女性は鍔が広めの帽子を被っており、上からでは顔は見えない。
女の着ているスーツはとても良い生地に見えた。
ふと、瀬田はあることに気付く。
――おいおい。
鞄の口金が、外れている。
――行けそうだな……。
特有の勘とでも言うのか、ターゲットを決めた瀬田はチャンスを窺う。
と、電車ががたんと揺れた。
その瞬間、瀬田は女の鞄から素早く財布を抜き取った。口金を音もなく跳ね上げ鞄から財布を抜き取るまで、女が、周囲が気付いた様子はなかった。
瀬田は何食わぬ顔で次の駅で降り、そのまま改札を出て更に歩き、つい、と路地裏に入った。
この瞬間が堪らない。瀬田はわくわくしながら財布を開く。
だが期待していたほどには金は入っていなかった――代わりに。
――?
小さく折り畳まれた紙片が入っていた。瀬田はそれを開く。
思いの外大きく広がったそれは、少し黄ばんだ離婚届だった。男側にだけサインがしてあった。瀬田は何となく、そのサインを読む。
――馬鹿な。
みるみる瀬田の目が見開かれていく。
それは――他でもない瀬田自身のサインだった。
――美奈!
呼吸が荒くなっていくのが自分で分かった。
確かに、先ほどの女性の背格好はかつて一緒に暮らしたこともある女のそれだった。
――いつまで俺を引きずっているんだ、一体、何年……。
美奈と別れ、この『仕事』を始めて。
瀬田は思わずその場でしゃがみ込んでしまう。
――こんな屑を、何でだ……。
離婚届をぐしゃぐしゃにする。わなわなと、震えが止まらない。瀬田はとっくに離婚が成立したと思っていた。そのギャップを受け止められない。
――何でだ!
離婚届を破り捨てる瀬田。摩擦で熱されたインクが瀬田の鼻腔をくすぐり、その匂いはある種の郷愁を呼び覚まし、更に彼を打ちのめす。
『あなたを待っていたいのよ』
夜遅く帰宅しても、必ず待っていてくれた美奈。
――ごめん、ごめんなさい……。俺はそんな、待ってもらうような男じゃないんだ……。
瀬田はふらふらと立ち上がり、どこへともなく消える。