第一話 龍樹の賢者、ラギータ
■第一話 龍樹の賢者、ラギータ
光のないトンネルの様な場所に、遠巻きから足音が響く。
一つは軽く、歩幅は小さくコツコツと。一つはその小さな足音の速度に合わせる様に、大きくゆっくりとガシャリ、ガシャリと。
鳴り響く音は、革靴が木材の上を歩く様にコツコツ、ギュッギュッと鳴る。ガラスとブリキで作られたランタンが、宙に浮かぶ様にふわふわと周囲の暗がりを明るく照らしている。
壁や床面は、木の蔓や根などが複雑に絡み合って出来たものであった。そんな蔓で編まれた洞窟を、腰まで伸びた金色のくせっ毛を、フワフワとなびかせ歩くのは、深く深い群青の瞳に金縁の丸眼鏡の少女が一人。ガシャリガシャリと鳴らす足音の主の姿は見えず、少女は緩やかな上り坂になっているその洞窟を進んでいく。
どれくらい進んだろうか? 随分と歩いたその先からは光がこぼれ、トンネルの終わりを告げる様であった。
少女はトンネルを抜け出すと、開けた場所に出る。そこもやはり、木の蔦や根、大きく広がる幹で編まれた、特大のゆりかごの様な、何者かの巣であるようなそういった空間であった。
深い緑と褐色の枝間から、木洩れ日が差し込み、その光景は、古の姿をそのままに残した、巨大樹の揺籃地と言うにふさわしい、安らぎに溢れ、時間が緩やかに流れる……そう言った様な場所であった。
その奥には、艶々と真っ赤に光る鱗に身を包み、巨大な両翼を小さく背に畳んだ、紅のドラゴンが地に伏せ何やらゴソゴソと動いている。
鋭く、鈍く輝く爪が伸びる五本の指は、その体躯に合わせて拵えた巨大な筆を握り、木造りの大きな器から墨を含ませ、巨大な木版に何やら文字を書き込んでいる。
来訪者に気が付いたドラゴンは一声発したが、その視線は木版に向けられたままである。
「あぁ。来たか、ルア」
その独特な発音と低く重たい声は、聴く者に力強い印象をあたえるが、同時に声の主の穏やかさを感じさせた。
「久しぶりね、ラギータ」
「あぁ、最後に会ったのは……五十年前か?」
「大体、三十年位だわ」
「そうだったか。まぁ、待て。傑作が出来そうなんだ」
「相変わらずね。のんびりしているわ」
ラギータにそう答えると、ルアは近くに伸びる木の幹に腰を掛け、自分の部屋の様にくつろぎ始めた。
「フーゴ、水筒からコーヒーを出してくれる?」
ルアの声がフーゴを呼ぶと、彼女のすぐ側の空間がまるでカーテンでも開けるかの様にペロリとめくれ上がり、そこからフーゴがその大きな鋼の巨体をのっしりと現した。
「ほぉ、また珍しい事をやっとるな」
「銀で錬成した魔法の糸を、マントに編み込んで擬態の魔法を定着させたのよ。名付けて、『ステルス・カーテン』これがあれば、何処へでもフーゴを堂々と連れて行けるわ」
「相変わらずネーミングセンスが無いなお前は」
「余計なお世話よ」
ルアとラギータの会話をしり目に、フーゴは肩から下げた革細工のカバンから水筒を取り出し、良く冷やされた、深く香り立つコーヒーをコップに注ぎルアに差し出す。ルアはクッとコップを煽ると、水を乾いた喉に流し込むかのようにゴクゴクとその中身を飲み干した。
「うーん、生き返るわ」
「冗談のつもりか?」
「モノの例えよ」
「しかし、ブラックコーヒーをガブガブ飲む様な者は、この狭い世界でもお前だけだろうな」
「そうかしら? 特にアイスコーヒーなんて、飲むとスッキリしていい気分になるのだけれど?」
「そりゃ、カフェイン中毒だな」
「失礼ね」
「モノの例えだ」
ルアと他愛のない会話をしつつも、ラギータは筆を動かす。そして最後の文字を書き終えると、ルアの何十倍もある巨体をグッと起こし、木版を離して見たり、近づけてみたりと忙しなく自身の作品を観察する。
「まぁ、まだまだだな」
「今回はどんな作品なの?」
「うん、『勇往邁進』と書いた」
「ゆうおうまいしん? どういう意味なの?」
「東雲の言葉で、困難に恐れることなく、目標に向かって一気に進むと言う意味だ」
「サムライらしい言葉ね」
「何にせよ、これくらいの気概がないと、物事を成すのは難しいと言うことだ。お前も覚えておくと良い」
「頭に入れておくわ。で、そろそろ本題に入ってもいいかしら?」
「まぁ、そう慌てるな。道具を片付ける」
大きな巨体とは裏腹に、ラギータは先ほどまで使っていた筆や器などを、入念に手入れをしながら片付けを始める。筆には筆の、器には器の収まるべき場所があらかじめ決められているかの様に、それは見事にその場所へと収まって行った。
「相変わらず几帳面ね」
「道具と言うものはね、一生ものなんだ。大事に使えば魂が宿り、磨いてやれば心を宿す。そういうもんだ」
龍の賢者ラギータ。
彼は、この世界が生まれて間もない頃から生きると言われる古代の龍。その緋色に輝く瞳は、ディプレシオンの全てを見てきたと言われ、その知は、古今東西あらゆるモノを極めたとされる。
彼の兄弟である、「海原の守護者バラウール」は海の最果ての滝に住み、「黒き覇王フォルテベレル」は世界の何処かに封じられていると言われる。この三匹の古の龍こそが、龍信仰のたっとぶ対象であった。ラギータは予知の力を持ち、近い未来を夢に見る事で最善を成すと言われる。
おそらく彼は、ルアが約三十年振りに自身を訪ねてくる事を夢に見た。彼女が突然現れても眉一つ動かさず、まるで待っていたかの様な素振りを見せたのはその為だろう。
「さて、錬金術絡みの話だろ?」
「何でもお見通しね」
フゥッと、ルアは息を吐きその場から立ち上がると、ラギータを見上げた。
「この一年、随分と研究してきたつもりなのだけれど、難解な部分が多すぎて流石に参っちゃったわ」
ルアは腰に下げた革細工のカバンから、ゲオルグの書を呼び出すと呪文を唱え始めた。
「アレフ、ベス、ギメル、ゲマトリア三重封印術式解凍。ヌン、レーシュ、ヴァヴ、ヌン、クォフ、サメフ、レーシュ、七星の転輪起動」
エメラルドタブレットの起動詠唱の開始と共に、彼女の周囲に七つの輝きを持つ光球が現れ、ルアを太陽に、ゲオルグを月に見立て、まるで天球儀の様にその周囲を規則性を持って回り始める。七星の転輪とルアがシンクロし、強大なエネルギーが無尽蔵に発生する。その波動は龍の賢者を圧倒させる。
「これは……この力は」
ラギータの精神は、この強大な力が発する波動に、古の、神の力の一端を感じた。
「ルア・マグノリアが命ずる。目覚めよ、エメラルドタブレット」
ゲオルグはその本の姿を、翡翠に輝く石板へと姿を変え、その身をルアの傍らに寄せる。
「エメラルドタブレット、正常稼働しました。OSヘルメス安定起動、供給生体エネルギー80%」
人工知能型アシスタント「ケーリュイオン」の無機質で、まるで感情を感じさせない声が、エメラルドタブレットの立ち上がりを告げる。その様子に、ラギータは目を丸くし言葉を失っていた。
「ゲオルグの真の姿よ」
「これが……魔導書とでも言うのか」
ラギータの声は、想定を遥かに超えた未知との遭遇と、痛い程にその身を刺す、溢れ出る神の如きエネルギーの胎動に、その思案を見い出せない事を語るに十分であった。