旅の始まり
祈りの言葉を終えたリリセーラは、最後に一礼した。
「クルスさん、お待たせいたしました。それでは行きましょう。また争いに巻き込まれては大変ですから」
「ああ、分かった。どこか行くあてはあるのか?」
「近くに小さな村があります。そこの教会にお世話になりましょう」
特に否定する要素はない。黙って頷いた。
歩き始めたリリセーラの横に並んで歩く。なだらかな下り坂を進んでいると、小さな石造りのアーチがあった。
「これは?」
「ここは教会が定めた聖域の1つです。聖職者以外の立ち入りは禁じられているのですが、残念ながらこの時世では守る人も減ってしまっているようですね」
なるほど。あの湖は聖域だから、身を清めていたか。そのような湖に何故、俺はいたのだろうか。
いや、そもそも、俺は何なんだ。姿かたちが変わってしまっているのは間違いないし、この体も今までの自分とは大違いだ。
全くの別人と言ってもいい。どうして、こんなことに。
「どうかされましたか?」
リリセーラの声で我に返った。
「いや、大丈夫だ。悪いが、この世界のことを教えてくれないか?」
「分かりました。では、世界が大きく変わったところから、お話ししましょう」
一息吸い込むと、遠くを見ながら口を開いた。
「ある日、モンスターの首領である魔王が現れ、世界は混乱に陥りました。人々は力を合わせ、魔王と戦い始めたのですが、戦況はじわじわと魔王側に傾いていきました。そんな時、魔王を打倒する程の力を持った者達が現れました」
ちらりと俺を見たので、軽く頷いた。
「彼らのことを人々は勇者だと言いました。勇者は複数いて、東西南北と出身地は様々でした。勇者達は覇王具を手に魔王の討伐に行きました。結果は、西の勇者デスティンが魔王を倒し、世界を救いました」
「覇王具?」
「我々、教会が管理する強力な武具です。この大陸の覇者、アインゼンが生み出した武具と言われております。普通の武具とは比べ物にもならない力を秘めているため、危険な物として教会が封印しているのです。ですが、魔王討伐には欠かせないので、勇者達には貸出されました」
「なるほど。その力があって、デスティンって奴は魔王を倒したのか。他の勇者達はどうなったんだ?」
俺の問いかけにリリセーラは表情を暗くした。あまり言いたくない事なのかもしれない。
「残念ながら、東と南の勇者は魔王に敗北しました。北の勇者は魔王と直接対決はせず、モンスターの軍団と戦っていたそうで存命です」
「そうか。勇者でも魔王に勝てないものなんだな」
「はい、残念ですが……。勇者デスティンがフォード国の王女と結婚し、王となった後は、先ほどお話しした通りです。他国に侵略し、版図を広げております」
デスティンという奴は、野心家なのだろう。勇者と言えど、清廉潔白な訳ではない。欲望のない人間はいないのだ。それが大きいか小さいかの違いで、デスティンは特に大きいのだろう。
戦争を肯定するつもりはないが、目的のために戦いを仕掛けるのはよく聞く話だ。無駄な殺しは許せるものではないが。
「ここまでで、ご質問はありませんか?」
「いや、なんとなく分かった」
分からないのは、俺自身だ。ここがどこか知らないことも問題だが、自分に何が起きたのかが一番知りたい。
「戦乱の世の中だってことは分かった。……じゃあ、俺は何だ? 俺は一体、何者だ? 俺なのに俺じゃない。何か分からないか?」
「ごめんなさい。分かりません。服装からはミズホ国の人であるとは思うのですが。でも、記憶はあるのですよね?」
記憶は間違いなくある。それだけが、俺であることを教えてくれているのだ。
古武術のこと、爺さんのこと、祖母ちゃん、母さん、美羽。いくらでも思い出すことがある。間違いなく、俺は武智 久琉守だ。
「クルスさん?」
「……何でもない」
「そうですか。もし、よろしければ、クルスさんのお話しをしてくださいませんか? 何か分かるかもしれません」
「そうか。分かった。ちょっと長くなるかもしれんが」
そこから、俺自身について語り始めた。
小さな頃に父親を亡くし、母方の実家で爺さんから古武術を仕込まれ、その爺さんが死んだ後、家族を守るために実家で働いていたこと。
そして、俺が激流に飲まれたこと。
俺の語りにリリセーラは何度も相槌を打って、黙って聞いてくれていた。
できる限り簡潔に説明したつもりだが、伝わっただろうか。
「クルスさん、大変だったのですね。子供を助けるために命を投げだしたのですから」
「俺の話を信じるのか?」
「嘘を吐かれるような方には見えませんので。それに」
リリセーラは優しく微笑んだ。
「私の命も救ってくださった方を信じない訳がありません。クルスさんの言葉は、あなた自身の行いで真実であることを伝えています」
慈愛に溢れた笑みに、またむずがゆいものを感じ、目を逸らした。
今日、何度目だろうか。俺とまともに接してくれる女がいたら、先にこの妙な感情を抱いていたのかもしれない。
「クルスさん、私からご提案したいことがあるのですが、よろしいですか?」
「ああ。何だ?」
「私の旅にお付き合いいただけないでしょうか? 旅をできるだけの力はありますが、何があるか分かりません。そんなときに助けていただきたいのです。クルスさんとなら、大変な旅を乗り切れると思ってます。いかがでしょうか?」
リリセーラの提案に目を閉じて考える。
俺に何が起きたのか分からない今、俺は俺の記憶以外に知っていることは皆無と言っていい。ならば、多くのことを知ることが大事だ。
爺さんがよく言っていた。旅を通して多くの事を学んだと。あの爺さんが言う事だ、間違いはないだろう。
「俺から頼むべきことだな。リリセーラ、お前の旅に俺を連れて行ってくれ」
「良かった。嬉しいです。では、これから、私の事はリリと呼んでください」
「はっ? 何でだ?」
女を愛称で呼んだことがない俺に難題を突き付けてきた。リリ。たった2文字だ。難しいことではない。
口にしようとするが、なかなか言葉を発することができない。
「クルスさん、私の名前は?」
「……リ」
「えっ?」
「リリ! 満足か?」
満面の笑みで大きく頷いた。なんで、こんな思いをしなければならないんだ。
「では、クルスさん。行きましょうか」
歩き出したリリを見て、少し違和感を覚えた。
重心が左に少し傾いている。リリの横に並び、その顔の右目を見る。右目が開いていない。だから、重心が傾いているのだ。
リリの後ろに回って、歩を進めて右側に付いた。
「クルスさん?」
「右目が不自由なんだろう? 俺がサポートする。一応、従者だしな」
リリは呆けて俺を見ると、小さく笑った。
「本当に優しいですね。楽しい旅になりそうです。これから、よろしくお願いします」
「ああ、よろしく頼む」
何が何だか分からないまま、この世界を旅することになってしまった。
正直、不安はある。心細さも少なからずある。だが、リリの横にいるのは、どこか心地よかった。
リリは楽しい旅になると言った。俺も同じ気持ちだ。
爺さんはこんな気持ちで旅に出ていたのかもしれない。
俺は憧れた爺さんの背中を追っているようで、どこか面白くなってきて思わず口元がほんの少しだけ緩んだ。