規格外の肉体
自分の顔を触れば、水面の男も顔を触る。何度やっても、水面の男は俺の動きに合わせて動く。
「あの? どうかしましたか?」
背後からの女の声に振り向こうとして止めた。
あのままなら、あの女は裸でいることになる。そのような姿を見る訳にはいかない。
自分の服に目を向けると、着物と袴姿であることに気づいた。
着物の紐を緩めて脱ぐと、背中を向けたまま服を差し出した。
「着ろ」
「えっ? あっ! 私っ!?」
「早く着ろ」
手にした着物が引っ張られたので、手を離した。衣擦れの音が聞こえると、女が声を掛けてきた。
「服、着ました」
「ああ、分かった」
ゆっくりと振り返ると、女は着物を羽織っていた。
顔を見ると、慈愛を感じる柔らかな顔立ちをしており、その顔を見ると不思議と高鳴った鼓動が穏やかになった。
じっと見つめていると、女が首を傾げる。
「あの、あなたは?」
「俺か? 久琉守だ。武智 久琉守」
「タケチさん?」
「ああ。久琉守でも構わない」
女は目を伏せると、小さく頷いた。
「では、クルスさんと呼ばせてください。クルスさんはどうしてここに?」
女の問いに、すぐに答えることができなかった。
周りを見ると、まったく見た事のない景色に囲まれており、小さな湖の真ん中に俺と女がいる状況であった。
近くに川はないため、流されてここに来たとは思えない。
一体、ここはどこなんだ。俺は一体、何故、ここにいるんだ。次々と浮かぶ疑問に目眩がしてきた。
額に手を当てていると、女が不安そうな顔をする。
「分からないんですか?」
「ああ、まったくな。ここはどこなんだ?」
「クルーゾです。本当に分からないんですか?」
「クルーゾ? どこだ、それは?」
全く聞き覚えのない単語に、眉をひそめた。
疑念を抱いた俺を見てなのか、女は困り顔をした。そんな顔をされると、俺が悪いことをしているような気がする。
「ブルドーズ国って分かりますか?」
「いや」
「では、アインゼン大陸は?」
「知らん」
「そうなんですか。参りましたね。記憶はあるのですか?」
女の問いかけに頷いた。この顔に服のことはさっぱりだが、間違いなく記憶はある。
俺の顔をじっと見た女の表情が曇った。
「クルスさんは、ご自分のことは知っているんですよね?」
「ああ、それは分かる」
「でも、ここが分からない?」
「ああ、分からん」
分からないものは分からん。クルーゾだの、ブルドーズ国など知らないし、アインゼン大陸など増々分からん。
知らない言葉を投げかけた女はため息を吐いて、肩をすくめた。
「記憶喪失、という訳ではなさそうですね。自分のことが分かるのですから」
「そうだな。で、お前は誰なんだ?」
すっかり忘れていたことを思い出したので聞いた。
この女が何者なのか。それを知ることができれば、何か分かるかもしれない。
「私は、リリセーラ・ファルム。イスタル教会の循導師です」
「循導師?」
また分からない言葉が出てきた。女は困り顔で笑った。
「分からないですよね。簡単に言えば、世界を旅して困った人々を助けているんです」
「そうなのか?」
このような若い女が世界を旅して、人助けをしているのか。感心して、大きく頷いた。
人のために動くのは難しい。世界を旅するだけでも過酷なことだ。この女、ただ者ではない。
「お前、すごいな」
「えっ?」
「すごいって言ったんだ。誰かを助けるのは簡単なことじゃない。俺はそう思っている」
「あ、その。ありがとうございます」
リリセーラは俺から目を逸らして、照れ顔をしている。誇れることだ。照れることではない。
「あ!」
リリセーラが声を上げた。
「目を瞑っててください。私、着替えてきますので」
言われて思い出した。リリセーラは俺の着物を羽織っているだけなのだ。どこかに着替えがあるのは当然だ。
すぐに指示に従って目を瞑った。目を閉じたお陰で、困惑していた頭の中が整理されていく。
とはいえ、分かったのは、ここが全く知らない場所で、俺は顔も違えば服も違うということだ。やっぱり、分からないことだらけだった。
「クルスさん、目を開けても大丈夫ですよ」
目を薄っすらと開けて、リリセーラの声が聞こえた方に目を向ける。
湖のほとりに、純白のローブを着たリリセーラがいた。安っぽい言葉だが、綺麗だと思った。
女にそう思ったのは初めてだ。
同年代の女は大体、俺のことを避けていた。怖いのだそうだ。自分ではよく分からないが、周りが言うのだからそうなのだろう。
女との接点は母さんと美羽と祖母ちゃんを除けば、ほとんどなかったため、女に何かを感じることがなかった。
不思議な気持ちを抱いていると、リリセーラが手を振る。
「どうしたんですか? 風邪を引いちゃいますよ?」
そうか。俺はびしょ濡れだった。濡れたままでいるのは体に悪い。リリセーラの元へと向かい、着物を返してもらった。
水を吸った着物を手で絞って水気を抜いてから、袖に手を通した。
湿り気があるが、裸でいるよりはマシだろう。袴も絞りたいところだが。
「悪い。後ろを向いていてもらえるか」
「あ、はい」
袴を脱いで、力を入れて絞る。その時、ふと違和感を覚えた。力を入れた時の感覚が今までと違う。
1回絞っただけで、ほとんど水気が切れていた。それほど力を入れたつもりはないが。
「クルスさん、どうかしましたか?」
「ああ。いや、何でもない」
袴をはいて、リリセーラに声を掛けると、振り返ってまじまじと見てきた。
「どうかしたか?」
「その服、ミズホ国の物のようですね」
「そうなのか? 着物のようだが」
また知らない国の名前が出てきたが、着物があることに少し安堵した。訳が分からない世界で見知ったものがあるのは嬉しい事だ。
この着物、かなり上等なものなのか、肌触りがとてもいい。着物を撫でていると、リリセーラが笑った。
「何だ?」
「いえ、初めて眉間のしわが取れたので。ずっと険しい顔をしていたから」
「そうなのか?」
思わず自分の眉間に手を当てる。思えば、周りからも険しい顔をしていると言われたことがあった。
それが素の自分だと思っていたが、そうでない時もあるのか。
変に感心していると、離れた所から金属がかち合う音が聞こえた。
こちらに向かって来ているのか、音は徐々に大きくなり、しばらくすると音の正体が分かった。
西洋の甲冑らしきものを着た3人の男が走ってきていたのだ。
俺は数歩前に進んで、リリセーラの前に立った。男達の放つ気から、嫌なものを感じ取ったからだ。
男達が俺達の存在に気付いたのか、足を止めて息を整えている。俺とリリセーラを交互に見ると、口をにやりと歪めた。
「おい、女がいるぞ」
「ああ。それも上玉だ。このまま殺されるぐらいなら、最後ぐらい楽しみてぇ」
「だな。おい! 痛い目見たくなきゃ、女を置いて消えろ! なぁに、悪いようにはしねぇさ」
下卑た笑みを浮かべる男達をじっと見据える。俺の目が気に食わないのか、男達の目に怒りの色が宿った。
「んだ、その目? 女の前でカッコつけたいのか? 良いぜ。女の前でじわじわと殺してやるよ!」
男達が剣を抜き、一斉に駆けて来た。
相対するために歩を進めると、相手の剣の間合いに入る。つま先に力を込めて、相手の懐にもぐり込もうとした。
「なっ!?」
男達の声を背中で聞いた。何故、俺は男達の間をすり抜けてしまったのだ。踏み込んだだけなのに、風のような速さで突き抜けてしまった。
何があったのか分からない。ただ、おかしいとしか言えない。力を入れた時の感覚が、今までのものとは全く違う。
「ちっ! そのまま逃げれば良かったのによぉっ!」
怒声を上げて、また一直線に駆けて来た。俺は腰を少し落として、手を軽く前に出して構える。
相手の動きをしかと見極めて動くしかない。この体はおかしいのだ。下手に動けば。
「でりゃあ!」
男の内の1人が剣を振り上げ、一気に振り下ろす。その剣の流れを見極め、すっと半身になって避ける。
軽く曲げた左手で素早い突きを繰り出すと、拳が男の顔にめり込んだ。男は白目を剥いて鼻血を垂らすと、その場に崩れ落ちた。
男達が驚愕の声を上げるが、俺が一番驚いている。
本当に軽く突きを出しただけだ。やはり、この体は異常だ。ほんの少ししか力を込めていないのに、軽い一撃で人を沈めてしまう。
体自体が凶器と言っても良い。これは力の出し方に注意しなければ。
「ちぇあっ!」
1人の男が剣を横薙ぎした。
極力抑えながら、地をトンと蹴って後ろに下がった。それでも思った以上に距離が開いた。
男は空ぶった剣に引っ張られて、体勢を崩していた。今度も、つま先に少し力を込めて前に踏み出す。
それでも思う通りにはいかず、男の懐どころか、密着してしまった。
ここからの打撃技は限られてしまう。それならば、投げ技を決めるしかない。すぐさま男の首に手を回して、空いた手で男の腕を引っ張る。
体を捻じって男を地面に叩きつけ、呻く男の顔を殴打した。
こちらも一発でのびてしまったことに、残った1人の顔が恐怖に染まった。
武器を持った男達で素手の男を襲ったのに、簡単に返り討ちにされたのだ。今にも逃げ出したい気分だろう。
だが、ここで逃がすつもりはない。
男との距離を詰めるため、つつつと前に進み、つま先に込めた力を爆発させて飛び掛かった。
男の顔目掛けて拳を突き出すと、放たれた矢のように男の顔に拳が突き立った。
顔がへしゃげる程の一撃に、男は仰向けに倒れて行った。
この一撃は中国拳法でいう「箭疾歩」に近い。距離を詰めるための歩法で、間合いを一気に詰めると同時に攻撃を繰り出すというものだ。
瞬く間に倒された男達を見て、一息ついた。
何でこんなに体が軽く、力強いんだ。まるで自分の体ではないような感覚がする。髪型も違えば、顔立ちも違う。その上、この体だ。俺は別人になってしまったのか。
「クルスさん、大丈夫ですか?」
リリセーラの声で我に返ると、軽く頷いて返した。
「大丈夫だ。こいつらは山賊か何かか?」
俺の問い掛けにリリセーラは男の1人の姿を見て、首を振った。
「ブルドーズ国の兵士ですね。おそらく、戦場から逃げて来たのでしょう」
「戦場? 戦争しているのか?」
「はい。フォード国とブルドーズ国の戦争です」
「フォード国?」
また知らない国の名前が出てきた。もう驚くほどのことではないが。
リリセーラは俺の顔を見て、神妙な表情で口を開いた。
「10年前、魔王を討伐した勇者デスティンが治める国家です」