目覚め
空には重い雲が掛かっており、今にも雨が降ってきそうだ。
遠くから雷の音が聞こえることから、山の方では雨が降っているのかもしれない。
天気が悪い中、少年達が白い胴着を着て掛け声と共に拳を突き出している。
「声は腹から出せ。体の軸がぶれないようにしろ」
少年達に言って、1人1人の動きを注視する。
力任せに突きをしている少年の腰を掴んで体の捻じり方を教え、恥ずかしがって声が出せない子には叱咤し、声を出させる。
指摘するのは、どれも武道の基本だ。体の軸がぶれない、腹から声を出す。それをこなすだけで、一定の強さは手に入るのだ。
それができず、ただ力任せに鍛えても、早々に頭打ちしてしまう。
強くなるには基本が欠かせない。基本があるから、強さは積み上げられるのだ。
「よし、今日は次で最後にする。俺と立ち合え」
稽古の締めくくりは、実戦である。これが俺が教える「久我刀捨流」の稽古だ。
いわゆる古武術。ただ、武器を使わない武術で、素手での格闘や投げ技を中心にしている。その中で少年達に教えているのは基本の型と、護身用の投げ技だ。
実戦的なものは教えていない。本格的な技術は教えて良いものではないのだ。「久我刀捨流」は殺人術である。
武術の多くは、結果的に人を殺す技術を学ぶものだが、「久我刀捨流」はその色が濃い。
戦国時代に生まれた、刀を捨ててでも敵の命を奪うための武術。それを磨き上げたのが「久我刀捨流」だ。
少年が俺の前に立って一礼すると、じりじりと距離を詰めてきた。
すっと腰を落とした少年の右足が跳ねる。中段蹴りが俺の脇腹を狙った。その蹴りを一歩下がって避ける。
少年は距離を詰めて下段蹴りを放つがそれも、すっと後ろに下がって空を蹴らせた。
続けて少年は打撃技を繰り出す。その拳の軌道を見切り、的確に捌いていた。
次はこちらの番だ。少年のみぞおちに向けて蹴りを放ち、当たる寸前で止める。それを横腹、顎、胸、首を様々な角度から仕掛けた。
少年の息が完全に上がったの確認し、頭を撫でて稽古を労う。こうして、10名の練習生の稽古を週2回行っているのだ。
稽古を終えた生徒達は俺に手を振って、神社を去って行った。
1人になると、俺自身の稽古を始める。頭の中で敵をイメージした。結局、一度も勝てなかった人物のことを。
「爺さん」
思わず呟いた。いかつい顔つきのくせして、人を惹きつける笑みを見せる祖父を思い出す。
俺はそんな祖父のことを爺さんと呼んでいた。昔はお爺ちゃんと呼んでいたが、俺に厳しい稽古をつけるにつれて呼び名が変わって行ったのだ。
不敬な呼び方かもしれないが、お爺ちゃんといえるような穏やかさは皆無だったから、爺さんで丁度いいと俺は思っている。
イメージした爺さんがゆるりと近づいてきた。構えることなく、散歩でもするように。これが一番怖い事を知っている。
瞬きをした時、爺さんは俺の懐に入っていた。掌底があごを襲う。たまらず後ろにのけ反るが、それを見逃してはくれない。追撃が俺を襲う。
嵐のような攻めを何とかしのぎ、攻めるチャンスを伺った。やっと、その隙が見えた。針の穴のような狭い隙を狙った拳は空を切る。
爺さんの拳が俺の目の前で止まっていた。わざと隙を作ったのだ。イメージなのに、ここまでやるのが、爺さんの恐ろしいところだ。
しばらく爺さんとの立ち合いを続けていると、ふと顔に冷たいものが当たった。雨だ。
荷物をまとめて境内から去り、自電車に乗って家路に着いた。
神社を出ると、田んぼが一面に広がっている。これが俺の住む町。田んぼや畑ばかりの田舎だ。
俺はここで育った。爺さんと祖母ちゃん、母さんと妹の美羽の5人で。父親は早くに死に、俺が5歳のときに母方の実家へと来た。
何もない町。そんな町で待っていたのは、爺さんによる過酷な修行だった。
「久我刀捨流」を受け継がせるために、毎日毎日、俺をしごき続けた爺さんは、もうこの世にはいない。
俺が18歳の時にぽっくり逝ったのだ。あれから3年。俺は爺さんから体に叩き込まれた「久我刀捨流」を子供達に教えている。
別に後継者が欲しいとかではない。何となく始めた武術の教室だ。
受け継いだだけで、何もしないのは気が引けたからかもしれない。
爺さんが過ごしたこの町で、何かを残してあげるのも供養になるかもしれないと今では思っている。
それに俺はこの町から出ることはないのだから。
祖母ちゃんはもういい歳で、母さんはその傍にいないとダメだ。
美羽は俺と違って頭が良い。進学校に行っており、今の成績なら良い大学に受かるだろう。
俺は家族を守らなければならない。爺さんがいなくなった今、家族を守れるのは俺しかいないのだから。
時々、この世界が狭苦しく感じることがある。代り映えしない世界、変化のない日常。そんな世界に捕らわれなかった爺さんを知っているから、余計にそう思うのかもしれない。
爺さんは若い頃、武者修行と言って、世界を飛び回っていたとのことだ。そこで、色々な人と出会い、様々な景色を見て、その思い出話を俺は楽しく聞いていた。
俺にもそんな世界が待っているのではないかと、あの頃は思っていたものだ。あの頃は。
雨粒が次第に大きくなってきた。じきに本降りになるだろう。
なだらかな坂を下り、小さな川に掛かる橋に差し掛かった。橋の傍には自転車が3台止まっており、近くから子供達の声が聞こえる。
自転車を止めて川を覗くと、稽古に来ていた子供達が遊んでいた。
雨が降ろうとしているのに元気なものだ。感心してしまうが、もう帰らせよう。山の方では雨が続いていたのだ。川が増水するかもしれない。
「おい、お前達。そろそろ帰れ」
「あ、先生! 一緒に遊ぼうよ!」
「遊ばん。早く帰れ」
「え~!」
子供達はぶすくれると、川の土手を目指して歩き出した。
ため息を吐いて見ていると、どこからか低い地鳴りのようなものが聞こえた。
その音を聞いた瞬間、俺は声を上げた。
「早く、川から出ろ!」
俺の声に子供達は振り返ると慌てて川を離れようとした。
その時、川の上流から濁った水が暴れるようにして、下流へと流れて来ていた。
逃げる子供達を飲み込もうと迫る激流。3人の内、2人は土手を駆けあがり逃げることができた。
もう1人も、あと一歩で川から離れることができる。だが、その足を更に増した水がさらった。
子供が悲鳴を上げ、川の流れの中に飲まれた。このままでは死んでしまう。そう思った時には、下流に向けて走っていた。
全力で走り、子供の前に回って川に飛び込んだ。
川の深さは腰の上まで来ていた。とてもではないが踏ん張れない。
流されながら子供の近くまで必死に泳ぐ。もがき続ける子供の体を手で摑まえると、川沿いに向かって泳ぎ始めた。
少しでも気を抜けば、濁流にもみくちゃにされてしまう。細心の注意をしながら、可能な限り急いだ。
下流に流されていると、体が浅瀬に乗りかかった。
足に力を入れて全力で踏ん張り、何とか川の流れから離れようとする。たった数歩で、何キロも走ったかのような疲れに襲われる。
一歩。更に一歩。足が流れにすくわれないようにし、力強い一歩を踏みしめる。
なんとか、ひざ下に掛かる程度の水位まで行くことができた。あともう少しだ。そう思った時、足元を流れる濁った水がじわじわと上がってきていた。
時間がない。このままでは、2人共流されて終わりだ。どうする。いや、もう、1つしかない。
抱きしめていた子供を持ち上げ、川沿いに向かって放り投げた。
「逃げろ! 早く!」
投げられた子供が四つん這いになって、慌てて川から遠ざかって行く。離れて行く背中を見て、深く息を吐いた。
水かさは増し、もう立っているのがやっとだ。力を少しでも抜けば、流れに飲まれて終わりだろう。
頭を過るのは残された家族のことだ。生命保険には入っている。まとまった金が手に入れば、美羽を大学に行かせてあげられるだろう。
家族のことを考えると、次に浮かんだのは爺さんの顔だった。
厳めしい表情で俺を見ている。おそらく、こんなことで死ぬことを許しはしないだろう。家族を置いて死ぬような男に育てたつもりはないと。
だが、次に見せたのは、愛嬌のある笑みだった。
俺のことを褒めてくれる時に見せる笑顔だ。爺さんは俺がやったことを認めてくれた。そして、許してくれた。
十分だ。それだけで俺の心は満たされた。もう無理をしなくても良いのだ。何ものにも縛られない世界に行ける。
体の力を抜いて、ゆっくりと後ろに倒れて目を閉じた。
体は生きようともがき、酸素を求める。だが、心が追い付いていない。諦めは心だけでなく、生きようとする本能すらも奪うのだ。
胸が焼けるように熱く、痛い。それもすぐに消えていく。これが死か。意識は遠退いて行き、暗闇に染まった。
◇
唇に温かいものが触れた。同時に肺が熱を持ち、その痛みにたまらず体を起こした。
肺の熱を鎮めるために呼吸をする。何度も咳をし、荒い呼吸で肺を酸素で満たすと、やっと落ち着いた。
次第に意識がはっきりしてくると今度は今の状況を考える。俺はさっきまで川を流されていたはずだ。となると、俺は生き延びたという事か。
「良かった! 大丈夫ですか!?」
女の声だ。振り向くと、白桃のような柔らかな色の長い髪の女がいた。
10代後半ぐらいだろうか。右目が隠れるくらいに前髪を伸ばしている。呆けて見ていると、視線が下に行った。
一糸まとわぬ姿の女。
目が飛び出るかと思う程の衝撃に襲われ、顔を背けた。
何故、目の前に裸の女がいるんだ。多分、夢だ。それか、あの世だ。ああ、あの世に違いない。
自分で自分を納得させていると、水面に映る顔に目が行った。
俺は頬に手を当てると、水面に映る顔も同じことをし、口を歪めると、同じように歪めた。
どういうことだ。映っているのは俺の顔ではない。なのに俺と同じ動きをする。
髪は同じ黒だが、長さも顔つきも違う。
やや伸ばした髪に、華やかさはないが、整った顔立ちをしている。そして、右目を切り裂かれたような深い十字傷。
俺ではない俺が、目を見開いて見返していた。