微笑み(2)
「そっか。……残念だな。」
マルコーはもう無理に誘ってこようとはしなかった。青く、高い秋の空の下。僕らはその静けさと、吹き抜ける涼しい風に包み込まれた。
「なら、俺は行くよ。お前とは……明日で、しばらくさよならだな。」
「そうだな。僕も、残念だよ。お前がいなくちゃ、また毎日つまらなくなる。」
「何だよ、俺の暇潰し相手は嫌だって言ってた癖に。…お前もしっかり使ってんじゃねーか、この野郎。」
マルコーがいつものように肘で小突くと、僕らはいつものように互いに笑いあった。本当に変わらない。それは、まるでルチアが一緒にいた頃みたいにーー
それ以上は、考えるのを止めた。
「じゃあ…明日な。」
マルコーは今来た石畳の坂道を、下っていく。僕はその後ろ姿を何も言わずに見送った。そうだ。今日ルチアに会ったら、僕はあちら側とは一切の関わりを断つんだ。それがきっと、互いにとって一番いいことなのだから。
目の前にある木の扉のノブを回すと、ひんやりと湿った空気が僕を迎えた。やけに片付いていて、生活感というものがなくなっている。父親が片付けていったのだろうか。何だか自分の家に帰って来た筈なのに、何だか帰る場所がなくなったような、そんな虚しい気分になった。これからは、ここは僕一人の家なのだ。あんな父親でも、寂しさを紛らわせていたとでも言うのだろうか。
ーーいや、そんなことは考えるべきじゃない。
無意味な問答を止めて、僕は荷物を取り込みにかかる。荷物を小さな木のテーブルに移してから中身をみると病院で渡されたタオルやら下着類やら、色んなものが地味にかさばっていて、マルコーには申し訳なくなる。
ひとしきり色々なものを仕舞っていくと、荷物の底に何かを見つけた。取り出してみると、それは酷くよれよれになったノートと、本だった。何故こんなによれているのかは、考えるまでもない。
水に濡れたからだ。
中身だって。僕は全部覚えているんだ。
僕はーー
「っ、……!!」
衝動的に、手に持った本を床に叩きつけたくなった。だけど、大きく振りかぶったところで動きが止まった。
ーーこんなものさえ、なければ。ーー
だけど、また同時に甦ってくる。三人の日々。あれほど楽しかった日々は、僕にはなかった。
ずっと一人だったから。
また涙がこみ上げそうになって、僕は本を持ったまま両手を落とした。病院であれだけ泣いたと言うのに、僕は心の中で自嘲する。何とか落ち着いたところで、この本の置場所を考えなければいけないことに僕は気が付いた。そして自然と目についたのは、
父親の書斎だ。
全ての元凶といってもいい、その場所。恐る恐る扉の前に行き、そっとノブだけを回してみると、軽い手応えが返ってきた。扉は開いているようだった。前は父親の目を盗んでやっと入れていたのに、この部屋も出入りが自由になったということなのだろうか。何て、皮肉なことだろう。そんなの、今の僕にとっては何の意味もないことだ。
ーー入りたくない。ーー
入らなくていいと思った。しかし、何故か僕はそのままノブを掴む手を引いていたのだった。