学園生活の始まり3
「時間がある時お父様の話をしたいの」
先生は他の生徒に聞こえないよう声を落として言いました。
「今から聞きます」
「お開きになった後私の部屋へ」
「はい…」
もう何を聞かされても驚かないと思います。
終わって寮官室を訪ねると、先生は私に椅子を勧めました。
「お父様が寮を辞めさせてあなたを手元に引き取ると言ってきているの」
「…え」
お父様から寮に入れられて今日で4日目です。
あのお父様がそんなに直ぐ気持ちを変えるとは思えません。
きっとお父様の気持ちを変えさせる何かがあったのでしょう。
「そうですか」
心の中で『後2年』と自分に言い聞かせながら答えました。
「あなたの気持ちを聞いても良いかしら」
「私はお父様に従います」
抑揚の無い声で答えました。
「そう、でもお父様からの話は学園長がお断りになってしまったの。戻して万が一命の危険に晒されたら後悔するから、とおっしゃって」
先生を見返してしまいました。
「酷い仕打ちをされたのですもの、今は学園の中で気持ちを休めなさい」
先生は納得できない私に話して下さいました。
「あなたのお父様はあなたに恥をかかされたと年明け最初の夜会で怒ってらして、罰に寮に入れたと武勇伝のように話したそうよ。それを聞いた公爵に叱責されて、公爵が参加する夜会にお父様は出入り禁止になったの」
公爵様がお父様を出入り禁止にしたのは私を哀れに思った気持ちも少しはあると思いますが、本当の理由は子供のようなお父様の言動に感化された愚かな者が他にも増えないよう押さえ付ける意図があったのです。
「カルチェラタン公爵様が…」
「違いますよ、あなたが良く勉強を見ている方のお父様よ。カルチェラタン公爵は黙って見ていたそうよ」
クラシック先生はお茶を煎れながら聞いた話を私にしてくれました。
「お父様は我慢出来なかったんでしょうね。お母様の事で笑い者になってプライドがズタズタになってる時に追い討ちを受けて、あなたのせいにしなければいられなかったのよ」
先生は『可哀想な人です』と呟いた。
先生は一呼吸して先を話しました。
「その話が一昨日ね、あなたが寮に入った翌日になるわ」
私は頷きました。
「昨日の昼間お父様が学園を訪ねてきて、あなたを引き取ると言ったの。それを学園長は断ったの。でもお父様は力付くでも取り戻すと言われたそうよ」
聞いていて可笑しくなりました。
自分のプライドのために私を使っても事態は悪くなるだけに思えるのは私だけでしょうか。
「そして今日、王室の新年のパーティーであなたを引き取るから出入り禁止を解いて欲しいとフレーバー侯爵夫妻から公爵に伝えさせたの」
先生は私を見ます。
「結果は、分かるわよね」
「…はい」
お父様の焦りがここにお父様が居なくても見えるようです。
「暫くは休日の外出を禁じます。あなたの安全を守りたいの、分かってね」
「…はい」
先生はため息を付いて昔の話をしてくださいました。
「あなたのお父様は私の1年下で、この学園の高等部で一緒だったのよ」
「…え、…」
「お父様が立派な方で、あなたにはお祖父様ね。良く愚痴を言っていたわ。お父様の背中が超せなくて、努力しないのに結果を欲しがって昔から子供みたいな人だったの」
先生は思い出しながら笑っていました。
「大きくなっても変わらないのね。あなたも大変だと思うけど、嫁いだらしがらみは絶ち切れると思うわ。フレーバー侯爵夫妻は『嫁はルナフしか居ない』と言っているそうよ」
先生の言葉は衝撃でした。
「フレーバー侯爵様が…」
「今夜もおっしゃったそうよ」
崖から突き落とされたような絶望感をどう表せば良いか分からないくらい私は現実を受け入れられませんでした。
立ち消えになったと思っていた話を急に目の前に突き付けられた気がしました。
ミラン様と夫婦になる。
それは今の私には耐えられそうもありません。
「ルナフ?」
多分泣き笑いの顔をしていたんだと思います。
先生は私の前に立ち抱き締めてくれました。
ふわりと匂う先生の香りと布を通して伝わる体温に、初めて人から抱き締められているんだと脳が教えてきます。
自分がどれだけ人の体温に飢えていたのか思い知らされて、私は先生にしがみついて大声で泣いてしまいました。
「しっかりしてるように見えてもまだ13歳なのよね。ルナフは結婚したくないの?」
「…したくない…お父様も…」
先生は深いため息を付いた後に言いました。
「ミランは誉められた生徒ではありませんものね。あなたのお父様と考え方が似てますからなおあなたは辛いのね」
先生は1年間教えていたのでミラン様の性格を良く分かっていました。
ミラン様とお父様が似ている…先生に言われて初めて気付きました。
身勝手な考え方はどちらも同じです。
「あなたの為にはどうすれば良いのか、私も少し考えてみましょうね」
動揺を静められずその日はとうとう眠れませんでした。
あのミラン様と妹のトラブルの後、お父様からも侯爵夫人からも婚約の話しは一切ありません。
私が知らないだけでお父様と侯爵夫妻の間では話しが進んでいるのかもしれない、と思ったら諦めが私の気持ちを占めました。
ミラン様と夫婦になる…貴族の娘に産まれたのですから受け止め従うのが決まりなのに、心は『嫌』と震えています。
辛い生活を死ぬまで続けるくらいなら、お金が無くて苦しい生活でも自由に暮らしたいと気持ちは望んでしまうのでした。
この時はまだ侯爵夫妻は私の味方だと甘い考えを持っていました。
帰省していた寮生が戻ってくると決まって私を指してヒソヒソと話します。
きっと『親から寮に放り込まれた娘』と言われてるのでしょう。
カラは寮内で苛められてないか手紙で心配してくれました。
避けられていると自分から言うのはやはり辛くて、『人の多い所は慣れてないので普段は部屋に居る』と話しました。
「ルナが学園内しか動けないなら私が寮に遊びに行くわ」
カラは言いましたがそんな簡単にはいきませんでした。
校内は教師の目がありますが寮はそう言うわけにはいきません。
クラシック先生から警備の準備が出来るまで待つように、と言われてしまいました。
3学期が始まると、学園と学園の敷地内にある寮の往復が私の生活になりました。
今までは思いもしなかったのに、先生に聞いてからは何処かでミラン様に会ってしまいそうで、何をするにも周りが気になって、暫くはピリピリしていました。
私が外に出られないので半月に1度カラの方から寮に遊びに来てくれます。
その日だけ寮に女の先生が増えるのですがカラは気にもしません。
カラとたくさんお喋りをして、カラが帰ってしまった後は今日の楽しかった事を考えるようにしました。
落ち込む気持ちを意識して持ち上げないと際限無く落ちてしまいそうで必死でした。
そんな時お父様から手紙が来ました。
戻ってきて公爵に弁明するようにとあって、言い付けに背くならフランソワーズ伯爵家から追放するとありました。
現実を見れば、追放されれば今日から生活に困ります。
学園も去らなければなりません。
それを分かってお父様は手紙を寄越したのだと思います。
お父様の手紙を見て、逆に帰る気持ちが消えました。
思えば今までも貴族らしい暮らしをしてきたわけではありません。
学園を出されたら…、15歳まで教会の孤児院に入れていただいて自立しよう。
私はそう決めていました。
気持ちの奥に、貴族で無くなればミラン様との婚約も流れる、そう願う狡い私が居ます。
クラシック先生に手紙を見せて、荷造りをするつもりでした。
ですが、話は違う流れを連れてきました。
お父様は追放されたら私が困って帰ってくると思ったのです。
お父様が強気で押してくる背景にこの時代の貴族の女性の自立の難しさがあると思います。
婚姻を結ぶまでは生家で養われ、婚姻した後は相手に庇護されて暮らすのが当然だと思っていたお父様は、脅しに追放を突き付けて来たのでした。
「直ぐに退学の手続きは出来ませんからまだ荷造りは必要ありませんよ」
「時間が掛かるのですか?」
「貴族の退学ですからね、城からの許可も必用なんですよ」
先生の話は私を引き留める時間稼ぎでした。
「ここを出て何処へ行くの?」
「教会を頼って孤児院に入れて貰えるようお願いして、15歳になったらピアノか勉強の先生になり自立したいと思っています」
「そこまで考えているのね」
クラシック先生は哀れむ視線で私を見ていました。
「生活は厳しいですよ。それを承知ですか?」
「今までも貴族の暮らしはしてないので大丈夫です」
それから数日して、私の『退学は認められない』と学園長から言われました。
「君の中等部卒業までの費用はもう支払われている。フランソワーズ伯爵に国から支払い命令が出たからね」
言葉にならない私に学園長から説明がありました。
「貴族の姉弟は中等部までの教育は義務付けられている。聞いた事はあるね」
「それは…ありますが、私はフランソワーズ家から出されたら平民になります」
爵位を剥奪された貴族はみんな平民になるのです。
ですからフランソワーズ家から出される私も当然平民になります。
「良いですか。平民がこの学園に居てはならない。君がこの学園の中等部を卒業するまでは貴族です。分かりますね」
その場は学園長に頷くしかありませんでした。
春になって、私は2年になりました。
1年で使っていた校舎から隣の校舎に教室も移りました。
出入口が違うので3年にも新しい1年にも会いません。
そこでやっと分かりました。
学年で校舎が違うのです。
ミラン様とニアミスしないのはだからでした。
高等部からは教室は別でも食堂とラウンジは3学年共有スペースになるそうです。
中等部は勉学に重点を置き、高等部はこれから先の人脈を作る場所に変わるのです。
何故高等部から?
浮かんだ疑問の答えはカラの説明で理解できました。
高等部へ進学するのは伯爵以上の貴族の姉弟ばかりで、中等部も子爵、男爵の姉弟とは初めからクラスも違っている事を初めて知りました。
子爵の爵位は貴族の次男、三男が新しく家を構える時に与えられたりします。
男爵はその土地の古くからの地主が多く、稀に長年騎士として勤めた人への恩賞として1代限りで与えられる爵位です。
お母様の里は地主から男爵になりました。
昔は裕福だったそうですが、代が変わると次第に廃れお母様がお父様と結婚する頃には財政難は逼迫していました。
ですから『結納金』『仕度金』としてお父様はお母様の里に大金を渡したのです。
金額は知らされていませんが、かなりの額だったと思います。
この時代の身分制度では、伯爵と子爵は雲泥の差があって、間に上位貴族と下位貴族の目に見えない仕切りがありました。
お婆様が男爵の娘のお母様にマナーを教えようとしたのは、この仕切りを越えた婚姻を許した事でフランソワーズ伯爵家の名に傷が付くのを恐れたからでした。
それほど爵位が優先する貴族社会なので、その縮図のような学園ではクラスを分ける事で仕切りとしました。
当然上位と下位では教室の階も違い使う階段も違います。
食堂も上位は上手の右で下位は左と暗黙の決まりがある事も、何時もベルの後から付いて行っていた私は知りませんでした。
下位が上位のテーブルに近付こうとすると、教師がやんわりと止めに入ります。
教師でも上位の姉弟に言葉で指摘は出来ないので、下位を止めて態度で示すのです。
それを見て、自然に上位も下位との接触を避けるようになるのです。
勿論寮も同じです。
逆に寮の方が監視の目が行き届かない分もっとはっきり分けられていました。
入口も別で中も交わらないよう厚い壁で仕切り接触する場を学園は完全に絶ち切っていたのです。
それほど身分の差を重視しているのに男女の意識は気薄でした。
同じ教室で学びそれなりに会話も交わします。
でもそれが恋愛に発展しないのは婚姻は家同士の結び付き、当主が決めるものだと幼い時から刷り込まれて育ったのが大きいと思います。
こうして社会に出てからの上下関係を生徒に理解させるのも学園の教師の仕事なのでした。
図書館も本来は家庭教師を付けられない子爵や男爵の姉弟のための施設でしたが、実際利用するのは知識を深めたい上位ばかりで下位の姿は皆無なのでした。
私は自分でも知らないうちに上位貴族と顔繋ぎをしていたのです。
後から笑い話になりましたが、その中にカラのお兄さんが居たと知ったのはもっとずっと先の話しでした。