絶望と諦め
翌日、港にはカラとリゼの姿がありました。ですが周りを見回してもニルギリとアッサムの姿はありません。
私の後ろにクラシック先生の姿を見付けるとカラはドレスを詰まんで淑女の礼をしました。
リゼもカラに習って礼をします。
居合わせた貴族たちも話し掛けては来ませんが先生とカラに挨拶を送っていて、先生は微笑んで挨拶を受けていました。
「来ていないわね」
リゼがため息を付いて出港間近の船を見ました。
あれから1度も口に出していませんでしたがやはり2人を気にしていたのでしょう。
カラが船の名簿を調べてくれてアッサムは来た翌日の船で戻っていてニルギリは夏休みギリギリの船に予約を2人分で取り直していました。
連れで考え付くのは妹です。
もしかしたら…ニルギリは妹を連れて戻るつもりかもしれません。
横で聞いていたクラシック先生が私の肩を抱いて慰めてくれました。
「ルナフ。私に先生を紹介して」
リゼに頼まれて複雑な心境でクラシック先生を紹介しました。
「私の恩人のキーマン・クラシック先生です」
「リゼ・グランボアシェリ・バニラです」
クラシック先生はにこやかにリゼの挨拶を受けました。
「ご両親はお元気?なつかしいわ、戻ったらよろしく言ってね」
リゼの表情が変わりました。
「…クラシック、伯爵の…」
リゼの声は緊張していて、クラシック先生の息子さんを知っている口調でした。
「まぁ、息子を覚えているの?そう」
先生は嬉しそうにリゼを見返しました。
「私は伯爵ではなく子爵未亡人だけど」
それを聞いたリゼの表情が残念そうに曇りました。
きっと子爵から息子さんが伯爵になったと思い当たったのでしょう。
社交界から引いた先生に爵位は意味が無いと分かっていても言わないではいられませんでした。
私が言おうとするとクラシック先生は肩にある手に力を込めます。
「ルナ」
カラの目も『何も言うな』と止めていました。
昨日の会話が思い返されて、悔しさを隠すように下を向きました。
リゼもその場の雰囲気が悪い方に固くなったのを感じて口を閉じます。
「私は先に戻りましょうね。ルナフ、卒業を楽しみに待っているわ」
クラシック先生は優しく3人を見て待たせていた馬車に乗りました。
この国の者なら馬車に着いている紋章から侯爵家だと分かりますが隣国のリゼにそれを求めるのは無理です。
「ルナ。元気で、早く帰ってきてね」
「うん…」
カラと手を握りあって別れを惜しみました。
「リゼも気を付けて帰ってね。お互い良い結果になる事を願っているわ」
カラの言葉から一歩引いた空気が伝わってきます。
「ありがとう」
リゼが硬い表情でカラにお礼を言いました。
この雰囲気で別れるのは避けたいのでしょうがカラが何を怒っているのか分からないので動けないのでした。
遠ざかる港を見ていたらリゼが聞いてきました。
「カラは何を怒っていたのかしら。確かに子爵だと軽んじた気持ちを隠しきれなかったのは謝るけれど、それだけで契約を反故に仕掛けない態度を取るなんて」
リゼは話しているうちに怒りが膨らんだらしく口調がきつくなっていきました。
カラが見えなくなるまで、私はじっとカラを見ていました。
「ルナフったら」
放って置かれて不機嫌なカラが責める口調で言ってきます。
リゼの視線は私に謝罪を求めていました。
「ごめんなさい」
心を騙して謝罪を口にします。
この感情を噛み砕けるまでリゼに本当の笑顔は返せないかも…。
長い半月をリゼに逆らわず過ごしました。
保身に走る自分を情けないと思いますが、これを超えられなければ卒業後の生活は出来ないと分かっているからです。
「ルナフ。元気が無いわね。里帰りしたらホームシックになっちゃった?」
「そんなこと無い。少し船に酔ったのかも」
「本当に?」
この半月で覚えた笑顔をリゼに向けました。
カラと私の間にも身分の壁はありますが、カラはカラなりに私を気遣ってくれます。
それはリゼも同じです。
少し違うのは身分の違いが超せない壁を作る危険をカラは知ってる事だと思います。
自惚れかも知れませんが、カラは身分の違う私を友達と言ってくれるようになって少しずつ優しく温かく変わりました。
隣国の港が見えた時、1年半前の不安と期待を抱えてこの港を見ていた記憶が思い出されました。
あれから1年半が過ぎて…望んだような未来ではないけれど、選べる道はまだ残されていると思えます。
帰るまでは2度と戻らないと思っていたふるさとで、会いたいと思っていた懐かしい顔を見たら心から『帰りたい』と思えました。
現金ですが、生まれ育った国を本当に捨てる事は出来ないのだと思い知らされた帰郷でした。
港にはバニラ家の馬車が迎えに来ていました。
何故かアッサムが馬車に乗っていて、異国へ置き去りしたリゼの態度をネチネチと責めてきます。
一方的に話すアッサムの話では私が仲間の伯爵令嬢と仕組んでリゼを騙した事になっていました。
「リゼ、君はルナフに騙されたんだから僕の妻になる条件付きでなら許してあげても良いよ。だけどルナフは許さない、侯爵もルナフは国外追放にすると言ってるから」
アッサムがどう話を作ったとしても『国外追放』の言葉をアッサムが知っているとは思えないので口にしたのは侯爵でしょう。
罪人になるような事はした覚えがありませんが何を言っても聞いては貰えない気がしました。
幸いこのまま戻るお金はギリギリあるので戻ってしまおうか、と一瞬だけ思いました。
でも、寮の部屋には公爵夫妻とクラシック先生からいただいたドレスが置いたままなのです。
他の物は捨てられても構いませんがドレスだけは…そして…体が震えました。
罪人にさせられたら…。
恐怖から周りに兵士の姿を探しました。
心臓が痛くなるほどだくだくしています。
罪人になったらもう自分の国にも戻れないんだ、って思ったら心がポッキリ折れました。
いっそ処刑されてしまえば楽になれる。
後から思えば笑えますがその時は真剣に考えていました。
「ははは、怖いか、怖いだろう。俺を蔑ろにした罰を存分に味わえばいい」
私の怯えを見て高笑いするアッサムをリゼが警護の者に取り押さえさせました。
「まだ分からないの?今はリゼより僕が上なんだよ」
アッサムの言葉ももう私には聞こえませんでした。
ただ公爵夫妻の思い出のドレスだけは返さなければ…それだけをずっと思っていました。
「僕じゃなくルナフを捕まえろよっ!」
怒鳴るアッサムの態度に押さえている者たちが混乱した顔をリゼに向けました。
彼たちは帰国するリゼの警備としか公爵から命令されていません。
リゼはアッサムが侯爵家の馬車に乗って迎えに来たと思っていましたが、実は帰国の日を知っていたので勝手に迎えに来たのでした。
「捕らえてお父様の前へ連れて行きなさい」
リゼは迷わず命令しました。
ハッキリした証拠が無い限り、ルナフを罪人にすればカルチェラタン公爵家との商談は間違いなく白紙になるでしょう。
カラだけではなく公爵夫妻もルナフを気に入っていて留学から帰ったら手元に置きたい口振りでした。
そんなルナフを罪人にしたら折角結んだ国交が断絶するかもしれないのです。
「アッサムは別の馬車で屋敷に連れてきて」
リゼは放心している私を支えならが馬車に乗りました。
「別の馬車に乗るべきなのはルナフだろう」
アッサムが強引に乗ってこようとするのを警護の者たちが捕まえます。
「公爵に叱られるのはお前たちだぞっ!僕は侯爵家を救う鍵を握っているんだからな。分かったらルナフを降ろして」
アッサムは私を指差して言いました。
自信満々なアッサムの態度にリゼの中に『もしかしたら…』と迷いが産まれました。
ルナフを処罰するだけの証拠を、アッサムは本当に持っているかもしれないのです。
「ごめんね」
リゼは謝りながら放心している私を別の馬車に乗せ、アッサムを侯爵家の馬車に乗せました。
馬車の揺れに身を任せていたら、アッサムの言葉が頭の中でリピートを始めました。
思い出したくなくて両方の耳を手で塞ぎ膝に額を押し付けました。
「カラ…カラ…クラシック先生…助けて…」
悲しすぎて涙も出てきません。
2度とカラに会えないかも知れないと思ったら、古い昔のお母様の言葉が頭の中で爆発しました。
『お前なんか死ねば良いのに』
何度も何度も頭の中で弾けるお母様の声にアッサムの声が重なって私を責めました。
死にたい…心が『死』に傾いて体から力が抜けていきました。
呆然と馬車の壁を見ていたらリゼの『ごめんね』が耳に甦りました。
頭の中で繰り返されるリゼの声が私を現実に引き戻したのです。
侯爵家の凝った内装の馬車から『ごめんね』と言われてこの馬車に乗せられた記憶が浮かび上がってきます。
「…リゼは…信じてくれなかったんだ…」
そう思ったら急に笑いたくなって、気が付いたら黒い馬車の天井を見上げて笑っていました。
「ふふ…」
私がどんなに『無実』を訴えてもリゼも信じてくれなかったのですから誰も信じてくれないでしょう。
投獄されるのでしょうか、それとも…死刑は廃除されたので殺される事は無いでしょう。
だから…『国外追放』…。
リゼも信じてくれなかったのですからカラも信じてくれないかもしれません。
大きく、大きく深呼吸しました。
目を瞑り、開いた時は全部を諦める覚悟が付いていました。
前を走る公爵家の馬車では不機嫌なリゼと満面な笑みのアッサムが向き合って座っていました。
ニルギルが帰国してない事実がアッサムの言動を強気にさせていました。
アッサムがリゼの隣に移動しようとしますがリゼが頑として拒否します。
「再開の抱擁くらいさせてくれても良いでしょ」
「悲鳴を上げるわよ」
御者に聞こえるようリゼはわざと大きな声で話します。
「お嬢様」
御者の警戒する声が返ってきます。
アッサムはムスッとしてリゼを見ました。
「ルナフが『国外追放』ってどう言う事」
リゼは怒った顔でアッサムに聞きました。
「御者に聞かれたら困るだろ」
そう言いながらアッサムはリゼの隣に移動しようとします。
「離れてっ!」
リゼが声を上げると馬車が止まって警護の1人がアッサムを馬車から出して御者の隣に座らせました。
「ルナフが厳罰になっても良いんだね。リゼの対応次第でルナフを庇ってあげても良いんだよ」
リゼは振り切るように言い返します。
「侯爵令嬢を恐喝するの。お前たちお父様への正確な報告を忘れないように」
「わ、分かったよ」
アッサムが悔しそうに言って『ガツン』と御者台を蹴りました。
「話して」
「公爵に聞くんだね」
へそを曲げたアッサムは口を閉ざして何も話しませんでした。
侯爵家では緊張した侯爵夫妻がリゼの帰宅を待っていました。
侯爵はリゼを見てホッとした顔をしてから私に厳しい目を向けました。
「ルナフを捕らえておけ」
「お父様っ!」
侯爵の命令に騎士が2人私の両側から腕を取りました。
覚悟はしていましたが、現実になってみればやはり絶望で足の力が抜けそうでした。
リゼが侯爵に走り寄ります。
「何故ルナフを捕らえるのですかっ」
「良く無事に帰ってきた。もし今日の船でお前が戻らなければ陛下から『信書』が隣国の王に送られる事になっていた」
リゼが目を見開いて侯爵を見ました。
侯爵の言う『信書』とは真実を公にするよう相手国へ強く要求する公的文書の事です。
他国に向けた陛下の最強武器とも言える物でした。
「何故『信書』なんて…私はこうして無事に帰ってきました」
リゼは動揺を隠せず侯爵に言いつのりました。
「隣国で冷遇されていたのはアッサムからの報告で知っている。お前がルナフを庇うのは分からぬでも無いが、他国の侯爵令嬢と伯爵を拘束し侮辱するのを見過ごす事は出来ぬ」
「お父様っ、急いで止めさせて下さいっ!その『信書』で再び国交断絶の危機になってしまいます」
リゼは悲痛な顔で侯爵を止めました。
「アッサムがどう話したか分かりませんが私は隣国で公爵夫妻とその令嬢から親切なもてなしを受けました」
「リゼ、ルナフを庇う必要は無いんだよ」
後ろからアッサムがしたり顔で言ってきました。
「あなたはお父様に何を話したの。あなたをカルチェラタン家に同行させなかったのは女の子3人だったからよ」
リゼはわざとカラの爵位を言いませんでした。
それはアッサムに悪用させたくなかったからです。
「待て、今カルチェラタンと言ったのか」
侯爵の表情が固くなりました。
「ええ、カルチェラタン家よ」




