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鼠の目#4

作者: 土成 謹造

鼠の目1 http://ncode.syosetu.com/n4350c/

鼠の目2 http://ncode.syosetu.com/n4350c/

鼠の目3 http://ncode.syosetu.com/n7156d/


からの続きです。


<主な登場人物>


オレ=初老のフリーランス便利屋、通称、鼠。説教多し

オカマのマリー=オカマバーの女将、陸上自衛隊OB

ケンスケ=オレの助っ人、仏外人部隊脱走兵

山下=定年前の所轄の刑事

和田さん=事務所の雑用を請け負ってくれている素敵な女性

和田洋子=和田さんの一人娘

川崎真知子=オレの依頼人。川崎徳一の孫

川崎真理子=真知子の妹

徳永高男=波動研究会の会長、川崎徳一の嫡外子

後藤=徳永の部下、事務方、対外折衝部門の長

宮崎一平=和田洋子のサークル仲間。波動研究会の末端メンバー

長田=波動のメンバー、徳永の非公然活動を担う

滝川順平=靴屋の隠居、川崎徳一の戦友

川崎徳一=本名・李光徳、川崎姉妹の祖父

川崎聖一=川崎徳一の息子であり、川崎姉妹の父。徳一の死後、失踪

上島上等兵=滝川、川崎の上官。こすからい古参下士官

最後の急登を巻き、ダラダラと谷へ下ると、次第に川崎姉妹の経てた仮殿、つまり古神道でいうヒモロギにあたる部分が見えてきた。

やっと着いたか、というのが長田の偽らざる気分だった。

普通の状態ならいざ知らず、ケンスケに粉砕された掌の痛みがひどくなってきたこともあるし、濡れたスニーカーが実に不快だった。

湿気とアップダウンでスニーカーの中は蒸れ、角質がふやけている。

およそ清潔とは縁遠い長田でさえ、足元の不快に辟易していた。


まあ、いいってことよ、あと少しで真理子に会える。

そうすればいきり立ったこの股間も鎮められる、そう思えば手の痛みを超えて下劣なほくそ笑みが浮かんでくる。

多分、まともな人間なら正視できないような陋劣な顔の歪みだ。


杣道の踊り場になっているような平らな部分で、長田の足が止まった。

眼下に見えるヒモロギに何十人かの人間が謂集している。

迷彩服が背景色に溶け込み識別しがたいが、頭髪や肌色の動きから認識できる。

どうした、なにがあったんだ、と長田のアラームが鳴り始めた。


文龍名が川崎真理子を神輿に乗せ、波動というカルトを設立したことを長田は理解していた。

その教義や説法にはてんで興味はなかったが、自らのボスである徳永高男が教団の運営を握り、警護名目で出入りするうちに川崎真理子と知り合った。

教義を担当する文龍名とそれほど近しくならなかったのは、長田自身の無教養のせいだろう。

そもそもバーバルな世界とは無縁なのだから。


立ち止まって目を眇め凝視していると、謂集する彼らの手に、それぞれなにかが握られているように見える。

一体なんだ?

長田はさらに観察を続けた。


刹那。

長田は理解した。

ライフルだ。

あれはライフルじゃねぇか。

思わず長田の顔が歪み、満腔から笑い声が沸きあがってきた。

うれしいねぇ。

うれしいぜオレはよ。

長田が居汚くニヤついた。

彼の本性たる粗暴な暴力への渇望が疼き始めた。

下腹部がジーンと痺れ、腰椎の後方までが気だるいような快感に満たされる。

あたかも射精の寸止めをしているような膨満感だ。

ケンスケにやられた憤怒を溶かすには暴力しかない、長田はそう直感していた。

無論、最上な選択は、ケンスケを徹底して無慈悲に完膚なきまでに粉砕することだ。

端的にいえばケンスケの息の根をとめることだ。

しかしそうのような事態が出来するか否かは想定できぬ。

ならばケンスケの代替が何であっても構わない。

それを、そいつを、そこを破壊しつくすのみだ。

モノを場所を人を破壊するドス黒い情動を満足させられればいい。

ゾクゾクと快感が立ち上るの愉しんでいる長田が、ふと考え込んだ。


一体、なにが行われようとしているんだ?

相手はだれだ?

あれだけのライフルを準備しているということは、およそ半端な相手じゃあるまい。

ほとんど局地ゲリラ戦に近い装備だ。

相手となる側もそれだけの武装をしているとなれば、相手とは国家権力か?

自衛隊ほどじゃないにしろ、警察火力に匹敵する。

そうかい、警察かい。

それとも張り込んで自衛隊かね。

あるいは文龍名や徳永高男と繋がる非合法連中の武装集団かね。

まあ、詮索はいいや。

要するに血と暴力と破壊だろうが。

和田洋子や宮崎一平を殺すような児戯じゃねぇな。

ホンマモンだ。

上等な殺戮だ。

うれしいねぇ。

こりゃますます愉しいねぇ。




ライフルを手にした集団の拡散していた形がギュッと締まってきた。

隊列とまではいわぬが、大きな意志の下に行動の規律が取れてきているように見える。

その中心に初老の長身白皙の男がいた。

一見、極めて上品に見えるが、彼の冷たい双眸の底には人の背筋を寒くさせるような犀利さが窺える。

やや太り肉ではある。

引退間近な運動選手のような肉の付きかただ。

加齢とともに基礎代謝が落ちたのだろう。

その男は集まってきた人間を前に、落ち着き払った声でいった。

「こういう形になるとは思わなかったのだが、われらが御先師・真理子様よりさきほどおごそかに宣言があった」

「御先師様はなんといわれたのですか、文龍名さん」


中心の男は文龍名と呼ばれた。

さよう、このカルト教団の教義部門の長にして、実質的に差配している男だ。

徳永高男のビジネスパートナーでもある。

「賽は投げられた、と。諸君らが手にしているものがそれだ」

集団のあちこちで固唾を呑む音がした。

「あちこちの外国に派遣されての実包訓練、ゲリラ演習、非常なご苦労であったと拝察する。それも今、これからのためであったと納得されたい。蜂起の時が来たのだ。蜂起が早すぎる、と諸君は訝しむかもしれん。しかし御先師の宣言は金甌無欠なのだ。疑うことはありえぬ。われらは東アジア法楽土のために蜂起せねばならない。これから長い時間がかかるだろう。しかしひるんではならない。われらは屍を乗り越え、正々の旗、堂々の陣で進まねばならない。撃ちてし已まんのだ。義はわれらにある。以上だ」



周りがずいぶん薄暗くなっていた。

すでに陽は山の端を落ち切っていた。

気温もぐっと低くなっている。

長田は最後の下り道に足を進めた。

武装した人間がいたところまでは、もう指呼の間だ。

その広場状の一段高いところに川崎姉妹が居るであろうヒモロギがある。

斜面に足を取られぬよう注意して慎重に降りる。

下手に転倒して手をついたりしたら、悲鳴をあげたくなるほど掌が痛むだろう。

さらにゆっくりと一歩一歩進む。

広場に出ると見知った若者の顔の一つが近づいてきた。

教団で何度か見た顔だ。

「あれ、長田さんじゃないですか」

「お、おお。オマエか。久しぶりだな」

「援軍現る、ってとこだな」

その若者は無邪気にいった。

ところが長田は若者の名前が思い出せなかった。

「あ、ああ。そうさ。援軍だ」

「長田さんはどこで訓練を受けてたんっすか?」

「訓練?訓練ってなんだ」

「いやだなぁ、冗談はよしましょうや。ボクはイスラム圏だったですからねぇ、毎日毎日、羊肉ばかりで辟易しましたよ。で、どこだったんです?」

「いや、まあ、オレもそんなとこかな」

長田は辻褄を合わせるように韜晦した。

イスラムで訓練ってなんだ?

「長田さんだったら、ライフルの扱いもお茶の子サイサイだったんだろうな。ボクは射撃はともあれ、分解組み立てがてんでだめでした。不器用なんでしょうね」

「は、はは、そ、そうか。か、かもしれんな」

なんだと!

ということはこいつらライフルの実践訓練も受けているのか!

長田の頭の中で驚きが広がった。

「で、ど、どうなんだ、実射訓練を受けたのは、えー、何人ぐらいなんだ?オレは戻ってきたばかりでな、よく知らんのだ」

「えーと、正確には知らないんですがね、文龍名さんは十数人と仰ってましたね」

若者はよどみなく答えた。


十数人だと?

わずかそれだけか、という思いもあるし、よくぞ十数人も外国に送り込んで実射訓練を受けさせることができたな、という気もする。

しかし現実としてわずかライフル十数丁の武装では事を構えるにはあまりに貧弱すぎる。

その点を実際に考慮されたのか、非常に疑問だ。

「し、しかし、わずかこれだけの武装ではどうしようもないだろう」

「ああ、そうでしょうね。必ず敵はボクらを圧倒する火器で包囲するでしょうね。でもいいじゃないですか。火力をもってボクらは精神世界を語っているわけじゃないですから。長田さんだってそうでしょ?哲理と義はボクらにあるんですからね。東アジア精神世界の合一に殉じるんですよ。この死を乗り越えて、陸続とあとに続く魂の弟、妹を待ちましょう。必ず光はありますよ」

白い歯をみせてにこやかに笑う若者の目には、狂気が見て取れた。

「あ、ああ。そ、そうだな。まったくその通りだ」

「文龍名さんのところに行けば、ライフルがありますから。でも、長田さん。その手は大丈夫ですか。ずいぶんひどい怪我のようですが」

「いや、たいしたことはない。わかった。とにかく文龍名のところに行ってみよう。いろいろ聞いてみたいこともあるし」

それじゃ、といい残し去りかけたところで、若者が回れ右、をした。

「あ、ボクの名前をお忘れだったみたいですね。西村、西村隆一です。思い出してくれました」

「あ、そうだった。西村君、だったな」

そう長田は返事をしたが、本当はその名前に心当たりがなかった。


広場のヒモロギの反対側に目をやると、東屋を少し普請した程度の小屋があった。

多分、その陋屋が文龍名のいるところなのだろう。

長田はそちらに足を向けた。

扉ともいえないような羽目板をおすと、そこでは文龍名が小さな机に向かっていた。

長田が入ってきた足音に顔を上げた。

「長田か。どうしてここへ来た」

「それはこっちが聞きたいね。川崎姉妹もここにいるんだろ。聞いたよ、今。なんでも選抜した人間を海外に送ってるそうだな」


文龍名は長田を嫌悪している。

そもそも文龍名は智に働く。

ただしその智は非合法の金儲けに使われるという点が違っている。

しかしいずれにせよ文龍名のような男にとって、長田のように粗暴であること、知恵のないことは唾棄すべきことなのだ。

暴は智にひれ伏さねばならぬ、という信念がある。

では、文龍命がなぜこのような武装蜂起を、と諸君は思われるであろうが、いずれそのことには触れる。

先へ行こう。

「そうだ。いずれ時は来ると踏んでいた」

「なぜオレにいわん」

「智のない暴は、単なる暴発だからだ」

「なんだと、この。オメェ、喧嘩売ってんのか」

文龍名はその痩身白皙を微塵も動かさなかった。

長い非合法社会での経験から、この単なる大声の威嚇がクソほどにも役立たないことを知っているからだ。

「いいかね。武の展開には知恵がいるのだよ。戦略なき作戦はない。作戦後の鳥瞰図も描いておかねばならない。瞬間沸騰的な暴威はなにも生まないのだよ。長田。キミは歴史を多少でも学んだことがあるのかね」

「歴史?フンッ、そんな面倒なことはしないんだ、オレはな」

「そうか。だからオマエには知恵がない。人間は愚かではあるが、歴史から学ぶことのできる唯一の存在だ。それを学ぼうとしないオマエのような輩のために、人間は何度も同じ過ちを繰り返す」

文龍名の返事には明らかに軽蔑と非難が込められていた。

「ああ、そうかよ。どっちでもいいぜ、オレはよ。本当ならオレを舐めるヤツはコテンパンにするんだが、テメェみたいなジジイを痛めつけても仕方がないからな。有難く思え」

ケンスケにやられた廃ビルで、ホームレスの老人をフッ飛ばしたことが引っ掛かっていた。

文龍名は肩を竦めただけだった。

「しかしよ、知恵のある文龍名先生にお尋ねするんだがな、相手は誰か知らんが、たったこれだけの火力で決起しようなんざ、それこそ暴発そのものじゃねぇか。戦略も作戦もねぇだろうが」

「ホホゥ、まんざら最低のバカでもなさそうだな」

「なんだと、こら…」

長田の顔が赤黒く歪み始めた。

ヤツの僅かなコラエ性が蒸発する寸前の顔付きだ。

それに構わず、文龍名は続けた。

「詳しくはいわん。いってもオマエの脳味噌では理解できん。しかしこれだけは伝えておく。敵はコーカソイド絶対主義に裏打ちされたキリスト教的世界。またそれから派生する議会制民主主義、拝金主義、国家による武の壟断。簡単にいえば魂を売った日本という国だ」

「黙りやがれ、文龍名。なにが日本だ。テメェは朝鮮人じゃねぇか」

文龍名は下を向いてかぶりを振った。

「いいかね、長田。オマエの脳細胞じゃ、当面は日本でも、最終的には東アジア全体を俯瞰する大きな絵ということが想像できないかね?」

「うるせぇ、このクサレ朝鮮人がっ!」

ヤレヤレ、どうしようもないな、この長田という低脳は、と文龍名はあきれかえってしまった。

「そんなに朝鮮人は嫌いかね」

「ああ、キライだね。ヤツラはなにもできないくせに、日本人を馬鹿にしやがる。それに始終、ニンニク臭い。それだけでも虫酸が走るぜ」

「そんな天に唾するようなことをいっていいのか」

「オレは人種差別主義者なんだよ。悪いか」

「悪くはないさ。それがオマエの考えなんだからな。しかし長田よ。朝鮮人のネットワークを甘く見るんじゃないぞ。オマエの母親は半島出身だな。しかもオマエの父親は日本人のなかで差別される部落出身者だよな。そうだろ、通称、長田。本当の姓は上島だな」


長田の顔が一気に蒼白になった。

言葉につまったまま、なにもいえない、そんな雰囲気だ。

「どういう経緯でオマエが長田と名乗ったか知らん。無論、波動では戸籍謄本を寄越せなんていわないからな。しかしだ、オマエの知っているとおり、おれは闇社会をガキの頃から渡り歩いてきた」

文龍名はその痩身を長田に近づけた。

「闇社会の構成する人間は、在日と部落出身者で大半を占める。合法、非合法を問わず、オレたちは徹底的に世の甘い汁をしゃぶり尽くしているんだ。となれば、どうなる。わかるか、これから先の話が?」

し、し、知るかよ、と長田は思わずどもってしまった。

心的圧迫の判り易い身体的反応だ。

「ネットワークができるのさ。ゆるい結社的状態といっていいかもしれん。ダレとダレが結婚した、生まれた子供がこうだ、今、暴走族の頭を張っている、またあるいは、ダレかは東大から通産官僚になった、とかな。なんでもいいんだ、情報がすべてのカギなのだ。ネットワークが有機的に増殖していくのさ」

長田の唾を飲み込む音が聞こえた。

「そいつは合法、非合法に関係ない。元来、迫害された者たちの自発的な防御活動だったんだろう。まあ、ユダヤ人の状況を想起すればいい。ヤツラは筋金入りだ。もっとも、長田。おまえが多少なりとも歴史を学んでいれば、だがな。想像できなかったら、オレに対してもっと教えを乞う謙虚な態度を示せ」

「あ、ああ。わ、わ、わかってるさ」

この言葉で長田と文龍名の力学的関係が逆転した。

長田自身が誇示するる暴力とは、所詮、チンピラ芸なのだ。

暴力とて智の裏づけがなければ、その効果はまったく取るに足りない。

野犬が虚空に吠えるに等しい。

単にうるさいだけだ。

しかし逆にいえば、智に裏づけされた暴力は、一撃必殺の力を生み出す。

その威力は実際以上に供されるのだ。

つまり分断された個は暴力にひれ伏すしかなくなるのだ。

その知恵が文龍名にはあり、長田の爬虫類的頭脳では、発想することすらかなわないのだ。

つまり、バカは粗暴である、という万古不易の結論にいたる。


「いいかね、長田。そのネットワークをオレは精々利用している。いや、重宝している。なんといってもビジネスにこれほど有難いものはない。無論、それなりに協力もするし、金で済むことなら応分の範囲で支払う。そのかわり、そのネットワークからは数十倍から数千倍の果実がもたらされるんだ。なんといっても情報と人に金を惜しんじゃならん。この程度なら長田、おまえでもわかるな、ここまでは」

長田が売れない漫才師のようにバクバクと首を上下させた。

今までの横柄さがウソのようだ。

「オマエが徳永の子飼いになったとき、すでにオマエのことは調べさせてもらった。だからその後、オマエが波動に出入りするようになっても、ああ、ヤツか、ということでなんの警戒もしなかった。オマエがどうしようもないクズで、単なる暴力飢渇者であることも承知していた」

いつもと違い、長田の顔色が赤黒くなることはなかった。

上司に叱られるC級サラリーマンの風情だ。

「オマエの戸籍上の姓が上島であることもわかっている。お前の父親は関西の被差別部落出身者だったな。満州で終戦を迎え、帰国後、在日朝鮮人の女と結婚した。おおむねわかるよ、オマエが上島という姓をつかわず、長田と名乗っている理由はな。いつなんどきオマエの出自が部落出身者と朝鮮女から捻り落とされたものとわかったら、エライことだからな。どちらも差別される側だしな」

「アンタには差別されることがわかるのか」

長田が怨嗟の目を文龍名に向けた。

「おいおい、バカなこというなよ。オレは正真正銘、朝鮮人なんだぜ。第一、ここで差別自慢してなにか得になるのかね。オレはそんな下らんことはせんな。おい、長田。せめて虚勢を張るなら、愚にもつかないことをいうんじゃねぇよ」

文龍名はあきれ果てた顔付きで長田を見た。

「想像するにガキの頃、オマエは部落と朝鮮の血のことで、徹底的に差別されたんだろう。まあ、仕方ないな。条件が揃い過ぎている。ただオマエはそのことを暴力で解決しようとした。そこが決定的にダメなところだ。暴力は手段ではあっても目的じゃない。チンピラが尊敬されるか?評価されるか?そんなこたぁ三歳の子供でもわかる。で、結局なんていわれるか。やっぱり長田は部落と朝鮮のあいの子だね、最低のクズだわ…そうなるに決まってる」

「オレもオマエのように朝鮮人、ということで徹底的にやられたさ。しかしな、オレは知恵をつけなきゃならん、と思った。知恵と金を身につける、と決意した。金に転ぶのは朝鮮人だけじゃない。いあや、転ばない人間なんていないよ。殴っていうことを聞かせるより、札びらで釣り上げるほうがうんと簡単だ。さらに尊敬と評価も集める。ただな、それは金の魔力だ、人間に対してなんて増長しないことだ。人は金だけじゃない、とかの念仏はクソ左翼にいわせときゃいい。人間はな、どうしようもない大嘘つきだらけだが、金はウソはつかん。そんなことに気付くのも知恵だ。知恵が必要なんだ」

「知恵だけじゃ力を生まん。また金だけじゃそれを拡大再生産する道が見えん。金と知恵、この両輪が必要なんだ。オレはそれを手に入れた。そこからだ。さらにオレを高めるのはなんだろう、と考え出したのは…」


文龍名の演説が続こうとしている。

しかし、長田の粗雑な頭は単語の洪水に辟易し始めている。

文龍名は目ざとくそのことに気付いた。

「なんだ長田。もう聞く態度ではなくっているな。どうしようもないヤツだ。金も知恵もないやつに説教しても、所詮、無駄ってことか。ま、仕方あるまい」





戻ってきたケンスケはカウンターに座るなり、マリーのくれた冷たい水を一気に飲んだ。

「なんだ、ケンスケ。えらく慌しいな。なんか成果でもあったのか」

「ああ、なんか胸のつかえが取れたね。モヤモヤがやっと晴れた気がする」

なんだい、そりゃ、とオレは尋ねた。ケンスケはフーッ、と一息ついた。

「長田は上島の息子だね」

その一言が、オレには最初なんのことかわからなかった。

「上島の息子?なんだ、そりゃ?わからねぇな」

「おいおい、しっかりしてくれよ、ネズミの旦那」

「上島って、靴屋の滝川さんが、満州で兵隊をなさってたときの理不尽な上官じゃなかったかしら?」

和田さんが小首を傾げながらいった。

刹那、オレは思い出した。

「う、う、上島って、あの、上島上等兵か」

「そう。滝川のご隠居と川崎徳一の上官。上島上等兵」

会話に参加できない山下刑事が不審な顔付きをしている。

オカマのマリーは…なんの表情も現していなかった。


「どうしてわかったんだ」

「いや、印象さ。長田と廃ビルの中でやりあったとき、どこかで見たような顔だな、という既視感があったんだ。それがどうにも思い出せなかった。さっき旦那の事務所で話をしていたときに天啓のように閃いたんだ」

一旦、話を区切ると、ケンスケはメンソール煙草を取り出し、大きく吸い込んだ。

「以前、滝川の隠居から満州時代の写真を見せて貰ったよな。そのときの一葉に上島が写っていた。その印象がフラッシュバックしたんだ。あれっ、上島上等兵と長田って似てるな、いや、ソックリだぜ、ってね。それが気になって、滝川の隠居に確かめなくてはいられなかった、ってこと」

気付かなかった。

確かにいわれればそうだ。

注意力散漫といわれても返す言葉がない。

いよいよもってヤキがまわったな。

「それで旦那からもらった長田の写メを隠居に見てもらった。すると、どうだ。隠居いわく、ああ、多分、こいつは長田の息子だな、という。知ってるんですか、と尋ねたら、いや、会ったことはない、とね。なんでも戦友会でのいろんな消息話のなかで、上島が朝鮮人の女とできて、子供を作ったという話を聞いたそうな。年恰好からいくと、晩婚で子をなした上島の子と同じぐらいだろう、ってね。それになんといっても印象や目鼻立ちが上島ソックリだ、ともいっていた」

「そうか…。しかし、なぜ上島といわずに長田と名乗っているんだろう。両親が離婚でも姓が変わったのかね」

「いや、そうじゃない。上島の過去には繋がりたくないんだな」

「どういうことだ、それは」

「隠居から上島は関西のある県の出身と聞いた。オレにはいろんなツテがある。それでその県の朝鮮人グループの顔役に電話をしてみたんだ」

「ケンスケ。オマエの情報源ってな広大無辺だな。感心する」

オレは素直な感想を述べた。

平生、おくびにも出さず、飄々としているくせに、ここぞとなるとツボをはずさない。

とても太刀打ちできんぜ。

「いや、褒めたってナニも出んよ。ま、冗談はともあれ、だ。その顔役とは古い付き合いだ。詮索はしないでくれ。オレは朝鮮人じゃないが、そういう世界を渡ってきた、とだけ理解してくれればいい」

まぁ、そうだろう。

仏外人部隊じゃ国籍は関係ないしな。

そもそもケンスケそのものが国籍不明な感性の持ち主なのだから。

「それで、だ。その顔役いわく。上島は元来、被差別部落の出身だった。今でもそうだが、被差別部落にたいする差別は戦前はヒドイものだったらしい。無論、朝鮮人に対する差別もだがね」

「なるほど。つまり長田は部落出身者と朝鮮人との相の子ってことか。そりゃ、こっぴどく差別されるだろうな。とりわけ関西じゃな」

「そういうこと。ヤツは元来、無口で臆病な少年だったらしい。実はその朝鮮人の顔役ってのが、学年は違うが長田と同じ中学の出身なんだ。結構、よく知ってたね」


オイ、ちょっと待て、という山下の不機嫌な声がした。

「フリーランスのネズミさんよ。ネタ元はなんだ。オレは知らんぞ。オレから警察情報を取るだけ取って、てめぇの情報開示はシカトってことか?こりゃまたずいぶんだな」

山下が伝法な口調でオレを責めてきた。

「知りうる範囲は話したはずだ。ただネタ元は確かに秘匿した。秘匿したが、それは山下刑事、アンタと会話したときにネタ元は明かせない、といったはずだ」

フンッ、と山下は不機嫌に鼻を鳴らし、ロングピースに火を点けた。

「山下刑事。ネタ元の話はあとでする。ケンスケ、すまないが話を続けてくれ。それからどうなった」

「中学時代、長田はその出自でもって、徹底的に苛められた。長田の人格が破綻したのも、どうやらそこが原因らしい。中学二年生ぐらいになると、長田の魁偉な容貌とガタイで、逆に中学の暴力による支配を始めた。いわゆる番長、ってやつだな」

「番長という形で学校を支配すると、それまで出自差別でやられ放題だった意趣返しをおっぱじめた。ここを先途に、とね。あー、つまり目には目を、ということじゃないかな」

「一度学校を暴力支配すれば怖いものなしだ。長田は片っ端から粉砕してまわった。そもそもが嫌われる典型のような男が、だ。そうなればどうなる?嫌われモンが、さらに暴れまくれば…」

「忌避され、遠ざけられ、無視される」

ビンゴ、オレの答えにケンスケが親指を立てた。

「その朝鮮人顔役には、旦那からもらった長田の写メを転送したんだが、長田の凶相は暴力に味をしめるようになってからだという。ところが長田の暴力支配は続かない。お決まりの喧嘩、恐喝、シンナーなどで少年院にブチ込まれると、これ幸いとばかりに周囲から完全無視されるようになった。友人どころか、教師からも相手にされなかったそうな。少年院でも孤立したらしい。よほど嫌われていたんだろう。いや、逆にいえば、長田の出自はともあれ、人間としての品性が欠落していたんじゃないかな。腕っぷしにしても他校との喧嘩じゃ、結構、負けてたらしい。基本的に力をどう生かせば最大効果を引き出せるかわかっていない。知恵がないのはオレでさえもわかるくらいだからな」

「で、少年院を出たあとはどうなったんだ」

「そのまま消えた」

「消えた、とは?」

「そうとしかいいようがないんだと。少年院出院後、数ヶ月は自宅でブラブラしていたが、ある日を境にフッツリ。両親も消えたってことだ。長田の父親、つまり上島上等兵だな、彼とその朝鮮人の妻もあちこちに不義理を重ねたいたらしい。三人が三人ともフッツリ消えた。顔役らの世界じゃ、気まずいところから借りた金が返せずに、埋められたんじゃないか、という説まであったってことらしいぜ」

「じゃ、その関西の朝鮮人顔役にとっても長田の出現確認はニュースだったってことか」

「ああ。最初は驚いていたね。こいつらの顔には請求書がベタベタ貼ってある、ってね。ちょっとやそっとの借金額じゃないみたいだね、顔役の口調だと。逆にどこにいるか教えてくれないか、といわれたぐらいだった」

「しかし長田は徳永高男に飼われていたんだぜ。徳永だって非合法生活が長いんだ。非合法世界といえば、在日と部落出身者が跳梁跋扈している。差別だナンだ、腑抜けたことをいうつもりはない。これは動かしがたい事実だからな。だろ、山下刑事?」

オレの質問に山下刑事はぶっきらぼうに頷いた。

「そしたらだぜ、なぜそのスジから関西の顔役とやらに情報が流れないんだ」


ああ、それはオレが教えてやる、と山下刑事が割って入った。

「スジモンの世界でもな、党派があるんだよ。そもそも非合法社会たって、江戸時代のゴロツキ、無宿者や武家奴、町人奴、火消しの臥煙、博徒を濫觴にする一派と、それこそ戦後の闇市から台頭した三国人系があるのさ。五五体制以後の東西緊張を背景にして、時の保守政権が両派を合流させようと努力した結果、かなりの部分でクロスオーバーしているが、まだお互いに腹んなかじゃいつか食ってやる、という思いがある」

「へっ、ずいぶんと博覧強記でいらっしゃる」

混ぜっ返すんじゃねぇ、と山下刑事がいった。

でもそれはね、と今度はオカマのマリーがつないだ。

「結局ね、わたしは思うんだけど、川崎姉妹がいう最高祭祀の血脈ということも、非合法社会も、その最後の拠りどころにするのは血統の正当性ということじゃないのかしら」


オイオイ、またそれかよ。

勘弁してくれや。

「なんといったらいいかしら、血に敏感というか、妙にこだわるのは東アジア人の固有のDNAじゃないかしら。こういう喩えが適切かどうかわからないけど、血液型をウンヌンするのは東アジア人だけだわ」

その通りだな、とケンスケが呟いた。

「オレが外人部隊にいるとき、血液型のことをいう白人種なんていなかったな。入隊のときに初めて自分の血液型を知った連中ばかりだった。アチラじゃそんなもんよ。ABOで人間の性格が四種類しかないなんて、荒唐無稽だし、第一、血液型だってABO式だけじゃない。Rh式もありゃ、HLA式、そのほかゴマンとあらぁ。ABO絶対なんていうヤツはクレージーとしかいいようがないね」

「へーっ、そうなんだ。わたし血液型のこと、結構信じてた」

和田さんが感慨深げにいった。

「まあ、占い程度だったら遊びで面白いとは思うけどね、度外れてA型だからどうとか、O型じゃあね、とかいいだすと危険だな。科学と非科学をすりかえたカルトとまったく変わらないよ。波動と一緒さ。科学の顔をした淫祀邪教だ」

ちょっと待ってくれ、とオレはケンスケを制した。

「血液型はとりあえず措こう。それより山下刑事の続きだ。非合法にも党派がある、ってことだったよな」

「ああ、その通りだ。戦前、博徒勢力と結託していた政治家連中が公職追放を解除されて復権してきた。理由は簡単だ。GHQが左翼勢力の押さえ込みに方針を切り替えたのさ。その非合法暴力を担ったのがヤクザモンよ。そのつながりを強化したのが時の保守政治家連中だ。その力を維持するために、政治は利権という金の成る木を拵えた。金という蜜の前には、筋目の古いも在日も部落も関係ない。金がすべてさ」

「なんのかんのいっても金、か。古今東西、万古不易ってことか」

「ネズミのいう通りさ。金の前には腹に一物あっても利害は一致する。それまでの三国人と博徒が反目していたなんて雲散霧消さ。いつしか巨大な非合法勢力ができあがる。そもそも利権の前に屈服している自称右翼団体の大半に在日や部落出身者が猖獗しているってな笑止だな。民族主義って一体なんだと思うぜ」

そこで山下は咥えていたロングピースに火を点けた。

ピース独特の甘いアロマが空間に満ちた。

やはり、煙はいいぜ。

「ま、そんなんで愚にもつかないことだが、必ずしも非合法の中で情報が一本化されるとは限らない」


でも、と和田さんがいった。

掌に頬を預け、小首を傾げている。

その表情には軽い疲労が見て取れた。

オレはマリーの背面の掛け時計を見た。

フム、そろそろ切り上げ時かもしれん。

「でも、どうしたんだ」

「疑問があるわ。波動の会長、徳永高男は川崎姉妹のことにまったく気付かなかったのかしら。あるいは教務担当の文龍名という男もだけど。少なくとも波動にとって川崎姉妹は掌中の珠みたいなもんでしょ。中国皇帝に必須の龍玉といってもいいかもしれない。あるいは天皇家の三種の神器。それほどに価値の高いもののはず。川崎姉妹の意志、つまり姉妹がその神さびた地に籠るというがどうなのか、最低、組織を預かる人間なら確認するはずじゃないかしら。それくらいの想像力がなければ、いかなる組織の頭は張れないと思う」

オレは人差指で顎を掻いた。

どうも文龍名こそがカギになりそうな気がしてならない。

想像だが、と断ったうえでオレの頭の中の絵をさらけだすことにした。


「オレは徳永高男は埒外と思っている。ヤツは無駄な小細工はしない。そういう時間と金の無駄を嫌う。小細工より正攻法を取る。そいつは徳永と会ったときに思った。徳永は川崎姉妹を抱え込んでいるが、彼が評価する以上に川崎姉妹の価値は波動内部ではあるはずだ。川崎姉妹、波動をもって金儲けしようと躍起になっちゃいるが、所詮、巨悪になれない善人性が徳永にはあるんだろう。小器用で小才はあるが、突き抜けて大器といえんな。したがってむしろ、文龍名の方が参謀として抜群に切れるのだろう。川崎姉妹をどのように生かして一気に波動をのし上げるか、緻密な計算をたてているはずだ」

「ほう、なかなかの絵じゃないか」

皮肉っぽい口調で山下がいった。

「なんのために川崎真知子がオレに川崎真理子の奪還を依頼してきたか、それすらわからなくなってきた。本人に聞かない限り、はっきりしないだろう。だからオレは川崎姉妹がいる、その神さびた地に向かうつもりだ」

「さっき署に連絡した。川崎姉妹のいる知の監視警戒レベルを上げてくれ、とな。少し遅きに失したかもしれんが」

「ああ、そういえば山下刑事らしからぬうろたえた仕草があったな」

「よくわかったな」

「人間観察が仕事でね」

「邪魔だから行くな、といっても行くんだろうな」

「そうなると思う」

「警察は容赦はしない」

「わきまえているつもりだ」


短くなったロングピース灰皿にこすりつけると、山下刑事が立ち上がった。

尻ポケットからいくらかの札をカウンターに置いた。

女々しく財布をガサガサしないところがいい。

オレは生まれてこの方、財布をもったことがない。

単なる貧乏人の見栄だとは思うが。

山下は、今から署に戻る、と言い残し大股で出て行った。







文龍名に自らの出自を暴露され、長田はすっかり意気消沈していた。

長田のように粗暴な腕力の勢いだけでわたってくると、勢いに翳りが出始めるとてんでいけなくなる。

勢いを補う応用が利かないのだ。

サルやゾウ、つまり群れをなす哺乳類の年長者は、勢いを失いボスの地位を降りても「長老」という立場で尊敬される。

そのよってたつ根拠は長老のもつ知恵にある。

ところが哀しいかな、長田には知恵がハナから欠落している。

尊敬されるべき要素が、まったくないのだ。

さらに救いようがないのは、長田自身が「知恵のないこと」に対し無自覚であることだ。

勢いだけで十分だ、そして自分には勢いがある、と夜郎自大的に錯覚しているのだ。

「で、長田。なぜここに現れた」

文龍名は冷たく問うた。

「そ、そ、そりゃ、あれだ。オ、オ、オ、オレだって波動の一員だ。来たって構わねぇだろう」

精一杯の虚勢を張って答えたが、吃音が含まれていた。

追い詰められた長田特有の反応だ。

「構わんよ、別にね。ただ、なぜ、ここを承知していたんだ。ここに大先師たる川崎姉妹が神域を樹てられたことを知っているのは、それほど多くないはずだ」

長田が顔を歪めた。

下卑た嘲笑のような表情を見せた。

「グヘヘヘ。川崎真知子から聞いていたんだよ。ここに神域を樹てる、ってな」

「おい、ここじゃ口を慎め。この神域では姉妹お二人が最高祭司なのだ。オマエのようなクズが呼び捨てになぞするな」


長田はさらに顔を歪めた。

サディスティックな常軌を逸した顔付きだ。

オレはオマエたちが大先師と呼ぶ川崎真知子の肉を知っているんだぞ、と思うと、長田は背筋がゾクゾクするような禍々しい気分になった。

「ヘッ、そうかい。ま、とにかく、だ。なんだか愉しそうなことが始まりそうじゃないか。オレが加勢してやるよ」

長田の虚勢が一気に回復した。

それはそうだ。

なにしろ長田は大先師たる川崎真知子と交合したのだ。

川崎姉妹に帰依している文龍名を、気分において凌駕できる。

ただ、それはあくまでも気分にとどまる。

「断る。オマエのような能無しはいらん。そもそも指揮命令系統を無視するヤツは戦士と呼べん」

「そうかい。いらねぇってんなら、わざわざエライ目にはあいたくねぇな。勝手にしな。どうせチンケなヘッピリ腰どもが、走り回るだけなんだろ?」

「なんとでもいえ。しかしな、これだけはいっておく。知恵のない暴発より、指揮命令が行き届いた組織としての力の方が遥かに手強い、とな」

「どういう意味だ」

「どうもこうない。字義通りさ。端的にいえば、命令一本でオマエを眠らせることができる。そうならぬよう直ちに引き返すことを勧める」

「チェッ、大きなお世話だ。ところで、文龍名。一体全体、こうもライフルで武装してナニをおっ始めようってんだ」

「いったところでオマエのザル頭じゃわからんだろう」

「ああ、そうさ。オレは四の五のいうは嫌いだからな。議論はせんよ。実行しかない」


文龍名は少し逡巡した。

そうなのだ。

ある意味、文龍名らは哲学先行の部分がある。

どうしてもここぞ、というところで果断に行えない不安があった。

それは文龍名も気付いていた。

参謀や作戦立案者がいても、実際の戦闘を指揮する下士官がいない。

無論、ここにいるメンバーたちに下士官的能力を要求しても無理なのだ。

なぜならメンバーすべてが平和ボケした戦後世代、それもゆとり世代の連中がほとんどなのだ。

戦闘の修羅場をくぐったものはいない。

わずかに文龍名が在韓時代の徴兵で、ベトナム戦線に従事したぐらいのものだ。


どうした、どうして黙っている、という長田の問いかけに文龍名はやっと反応した。

「あ、いや、なんでもない。考え事をしていた。ああ、長田も一応は波動のメンバーだったな。恩を着せるわけじゃないが、少しだけ事情を話してやろう」

「ほう。どういう心変わりなんだ。まあ、なんだっていいがな。それじゃ教えてもらおうじゃないか」

確かに文龍名は心変わりをした。

なぜか。

前後見境のない瞬間的な暴発が必要な場面が必ず出来するであろう、という予感がそうさせたのだ。

いまここにいる波動のメンバーに暴発するエネルギーがあるか、そう文龍名が自問すると、どうにも不安感が拭えない。

この長田という剣呑な暴力装置なら、なんらためらうことなくできるであろう。

それにこの長田が文龍名の「立ち去れ」という勧告に素直に従うとは思えない。

いや、間違いなく結末を見届けるべく、周囲をうろつくに決まっている。

ならば、この暴発にかけては精製ガソリンより引火点の低い長田に、利用価値はあるんじゃないか、と踏んだのだ。

いってみれば安い掛け捨て保険のようなものだ。

その掛け捨て金が、ここにいたるまでの事情説明とすれば、ビジネスと考えても満更ではなかろう。

虫よりバカな男だが、使い捨てと思えば悪くない。

文龍名の打算は、現実的かつクールだった。


「よし、じゃあ説明してやる。クドクドはいわんぞ」

「ああ、それでいいぜ」

文龍名は小さく溜息をつくと、薄くなった頭髪をかきあげる仕草をした。

これから面倒な話をするキッカケのようなものだろう。

「いいか、長田。われわれは波動の真理を訴えるために決起する。端的にいえば、そういうことだ」

「決起?なにに対して決起するんだ?」

「一番大事なことをないがしろにする日本人すべてに対してだ」

長田はキョトンとしている。

それはそうだ。

虫に哲理を理解させるには骨が折れる。

その痴呆面に向かって文龍名は続けた。

「人はパンのみに生きるにあらず、とキリスト経もいう。人として生まれ、最も大切なことはなにか、わかるか」

「そりゃ、あー、なんだ、生きることだろう」

「ほう、よくわかったな。生きること。その通りだ。しかし、人間は考えることができる。生きる意味を考えることができる。人が生きる意味は、生きる意味を考え続けることに尽きる」

「オマエ、念仏でも唱えてんのか。オレは言葉遊びはキライなんだ」

「なんとでもいえ。しかしな、長田。世界のいかなる民族にあっても信仰の存在しない民族はない。確かに無神論という背骨なき人間もいる。しかしな、人は必ずなにかにすがろうとする。なにかスタンダードとなるべき根拠を探したがる。それを信仰といってもいいし、あるいは哲学といってもいい。では、なぜ、人は信仰や哲学を求めるのか、これはわかるか?」

長田は困惑した。そもそも哲学や信仰とはもっとも遠い範疇にある人間なのだ。神学論争をふられても、長田には質問の意味すら理解できていないだろう。

「あ、いや、えー、そんなこたぁ、わからねぇよ」

長田ならばやむを得まい。

質問した自分の愚を呪うしかないな、と文龍名は痛感した。

文龍名は軽く咳払いすると、

「それが人間の原型なのさ。進化論の是非を論ずるヒマはないが、地球に生命体が発生して以来、常に生命と種には優勝劣敗の原則が貫徹されてきた。単細胞から人間まで、すべて、だ。するとどうなる?人は、いや生命体の基本中の基本は生きること、ではないか。生き延びたい、ともがき苦しむのは、生命体である以上避けられないことなのだ」

そこまでいうと文龍名は手近にあったウィスキィのボトルを取り上げ、ゴクリと一口飲んだ。

「おい、いいのか。波動の幹部が酒なんて飲んでて…」

長田の問いに文龍名はカブリを振った。

「祝祭と戦闘には酒精が必要なんだ。祝祭はハレの場であり、戦闘は尋常ならざる場面なのだ。心的状態を場面に応じて切り替えるアルカロイドは酒精しかない。川崎大先師のお二人は、こんなことしなくても霊的トランス状態に入っていかれるがな」

文龍名はもう一口含むと、ウィスキィを元の場所に返した。

「で、話の続きだ。生き延びることは簡単ではない。いや、むしろ苦しいことが多かろう。そのために人は精神世界に拠りどころを求めたのだ。これは自発的なものだと考えている。思ってもみよ。人類の祖先が二足歩行を始めたとき、夜は暗く、その闇夜にはスキあらば食ってしまおうという猛獣の瞳が浮かんでいた。昼間もそうだ。手も、足も、すべてにおいて脆弱な人間の祖は、耳を立て、目をこらし、風の音に怯え、血の匂いに恐怖した。彼らはそこで、こう思っただろう。われわれに安心を与え、豊穣に導く不可視の存在があるはずだ、と」


文龍名は酔ったように続けた。

多分、自らの論旨に自己陶酔しているのだろう。

「不可視の存在、あー、神と簡単に呼んでもいい、その不可視なる神に人は畏まらねばならぬ。その畏まる道具立てが祭祀だ。したがってその執行者たる司祭には、見るものをして圧倒させるパワーが必要だ。そのパワーこそが、霊的能力とよべるものなのだ」

「いいか、長田。対称に畏まるということ、これは人間の非力さを痛切に知らしめるものなのだ。そこから人間の分ということを人は直感する。神の領域、人の領域に自ずと階層があるということをな。直感としての階層がなにももたらすか、その想像が、長田よ、オマエにはつくか?」

長田は三白眼がどんより曇ったままだった。

論旨が長田の頭の中でまったく構成されていないように見える。

文龍名は構わず続けた。

いいのだ。

所詮、縁なき衆なのだ、長田は。

しかし説法だけは耳に入れておいてやろう、それはオレのせめてもの慈悲だ、と文龍名は思うことにした。

「慎みと自制、だ。より高みを目指そうとする向上意欲だ。あるいは常識であり、品性だ。つまり人としてもろもろ、美質醇風と呼べるものすべてといえばいいかもしれん。西洋的原罪意識、あるいは日本的恥の意識、さて、それはなにに対しての意識か考えてみろ。答えは簡単さ。神、だ。お天道様だ。あるいはもっと下世話にいえば世間、ということさ。どれもこれも不可視の、意識としてのみ具体化されるイメージでしかない」

「しかしな、そのイメージが人をして人たらしめる濫觴なのだ。年長者を敬う、年少者を可愛がる、人の嫌がることをしない、人として慎みある行動をする、どれもこれも古今東西、万古不易にいわれ、行われていることじゃないか」

少し沈黙が流れた。

文龍名の軽い呼吸音が長田にも聞こえた。

その沈黙を破り、長田が口を開いた。

「でも、それはおかしいじゃねぇか。人の嫌がることをしねぇ、ってんなら、なんで戦争なんておこるんだ。どっちも同じようなルールを持ってんなら、ぶつかりっこねぇだろうが」

文龍名が破顔一笑した。

「ウハハハハハ。まんざら底なしのバカでもないんだな、長田も。いいとこに気付いた」

「おい、文龍名。褒めてるのか、バカにしてんのか、どっちだ」

「どちらとも、だ」

長田はイラついた表情をした。

怒るより、どうリアクションすればいいか判断がつきかねた。

「その通りだ、長田。イメージが普遍であるなら世界に争いなど起こるまい。しかし、残念ながらイメージの総論として合致しても、各論では天と地ほどの違いがある。そしてそのイメージが時間軸とリンクしきれていないのだ」

長田は困り果てた。

理解の範疇を完全に超え始めた。

長田は付いていけなくなると、自我の偏狭な殻に逃げ込んだまま動かなくなってしまう。

パニックに陥った小動物が、狭い物陰に潜んで動かなくなるアレだ。

「これ以上説明しても、無駄だろうな。とりあえず結論をいおう。われわれは人間を覚醒させるために決起する。結果は多分、無駄死に、だろう。しかしやむをえない。共産主義とて前衛党の必要を認識している。ましていわんや、われわれにおいておや、というところだな。われわれは権力の監視下にある。警察ではない。公安調査室だ。監視下に置かれた経緯は、オマエ自身で調べるなりしろ。それくらいはオマエでもできるだろう」

「なんでぇ、結局、暴発するってことかい」

「この腐った社会ではそういうことになるだろう。しかしこれは革命なのだ」

「革命だと?へっ、笑わせるない。やい、文龍名。オマエのいう戦略のない革命なんてあるのかよ」

「痛み入る。しかしな、暴発し先鋭化しない革命運動はないことも憶えておけ。それが歴史だ」


文龍名は強引にそこで話を打ち切ると、もう用済みだといわんばかりに背を向けた。

後ろを向いたまま、テーブルに置いたウィスキィを取り上げ、ビンごと口につけた。

背中から「とっとと出て行け」というメッセージが発せられていた。

長田は肩を竦め、踵を返すしかなかった。




山下刑事が去ったあとの空間が、妙に索漠感を匂わせていた。

オレ、ケンスケ、オカマのマリー、和田さんの四人で座っている。

時間も深更に入ってきた。

「じゃ、そろそろお開きとしようか」

ケンスケがボソッといった。

「その前に。明日、いや、もう今日ね。どうするの?」

和田さんが問うてきた。

「ああ、そうだったな。それだけは決めておこう。えー、こうしよう。昼過ぎにここを出よう。ケンスケと和田さんはオレの事務所に適当に来てくれ。昼飯を済ませてな。どうせ川崎姉妹のいる神さびた地には、しばらくいることになるだろう。念のため、簡単な携行食とミネラルウォーターくらいは用意しておく。足はオレのへっぽこカローラだ。ケンスケ。運転を頼む」

ケンスケは軽く頷いた。

続けて手元にある烏龍茶をグイッと飲み干し、指で唇を拭った。

「あと、着替えやなんかもいるだろうな。少し用意しとくといいと思う。こんなところだが、いいか」

左右のケンスケと和田さんに視線を送った。

二人は軽く顎を引いた。

「よし、それじゃ開こう。明日、いやもう今日だな、よろしく頼むぜ」

「じゃ、わたしも店を閉めよう。ちょうどキリがいいわ」

オカマのマリーがカウンターを拭きながらいった。

「ああ、それから。あなたがちゃんと和田さんを送っていくのよ。夜道は物騒なんだから」

オレに向けて、マリーのお節介な言葉が続いた。

「え?オレがかい?よせやい、照れ臭くっていけねぇや」

「馬鹿なこといってないで、オカマの忠告もたまには聞きなさいよ」

「マリーにゃいつも意見されてるぜ。オレは素直なもんだ」

「じゃ、今晩も素直になることね」

チェッ、かなわねぇや。

オカマにゃ。

じゃ、旦那、頼むぜ、と言い残すと、ケンスケは軽い足取りで消えていった。

不思議なことだが、オレもマリーもケンスケのネグラを知らない。

携帯電話の前はポケベル、その前は電話、それも留守番電話でしか連絡をとったことがない。

ただいえるのは当時の電話番号だと、そう遠くないところだろうという推測がたつ程度だ。

もっとも十年以上前の話だから、転居していればますますわからない。

それで特段、不便は感じていないから、それでいいといえばいいのかもしれん。

マクルーハンの「メディアはパーソナル化する」という予言は見事に当たった、ってこったな。


オレは仕上げのアイラモルトを流し込むと、カウンターに手をあてて立ち上がった。

どっこいしょ…。

あー、年齢は誤魔化せない。

ワンアクションの度に掛け声が必要になっちまってる。

ことさらにそのことを和田さんもマリーもいわないが、自分自身に無意識に掛け声をかけている姿を、オレは情けないとは思っていない。

仕方ないさ。

気力を補う腰高な体力など望むべくもない。

なにもかにもが枯渇しはじめている。

動くのは辛うじて口先ぐらいなもんさ。

しかしな、笑っているオマエも二十年後には二十歳、歳をとるんだぜ。

そのことを忘れてもらっちゃ困る。

腰高な体力でしのげるのも、そう長くはない。

まあ、リアルにゃ感じられないだろう。

オレもそうだったからな。

陰毛に一本、白いのが混じったら、否が応でも感じさせられるぜ。

それからは幾何級数的だな。

せいぜい笑っとけや。

二十年後、オレのいってることと一言一句ちがわない言葉をオマエもはいてるよ。

間違いなくな。


オレに続いて和田さんも立ち上がった。

「明日から暫く覗けないかもしれんが、悪く思うな。仕事でね」

「あら、お気遣いいたみいります。いいわよ、そんなこと。バカ金を落としてくれるいいお客さんだけど、この店を贔屓にしていただけるお客さんもまだまだいらっしゃるんだから」

マリーがウィンクした。

ウィンクなんざ何年ぶりだ?

久しく見たことがないぜ。

じゃ、な、とオレは小さく手をあげて、踵を返そうとした。

すると、マリーが和田さんにサムアップをした。

なんだ?

なんかいいことでもあるのか?

チェッ、これだからオカマはわからねぇ。

ちゃんと送るのよ、とオレの背中にダメ出しが当たった。

「わかってるよ。いちいちうるせぇんだよ」

と捨て台詞を残し、オレと和田さんはドアの外に出た。

明日の快晴を約束するような月が出ていた。

どうにもこそばゆい情景だぜ。

安手の日活映画じゃあるまいし、勘弁してくれよ。

まあ、和田さんと一緒にいることは決して不満ではないのだがね。

「さて、と。タクシーでも拾うかね」

「不眠症のあなたは、まだ眠くないんでしょ」

「ああ、そう。まだハルシオンを服んでないしね。いつものことさ。熟睡なんて、中学生の頃以来、忘れた」

「よければ歩かない?」

「いいよ。和田さんさえよければ。でも店では疲れているように見えたが、大丈夫なのか」

「大丈夫。で、ね。お願いがあるんだけど」

和田さんがオレの正面にまわって立ち止まった。

「できることか、それは?」

「ごくごく簡単なこと」

「なんだろうか」

「和田さん、という距離感のあるいいかたはやめて欲しいの。あなたはそんなことはない、と仰るかもしれないけれど、疎外感を感じてしまうの」

「疎外感?そんなことは…」

「そう。わたしがオミットされているとまでは思わないけれど、気を使わせているような負い目はあるのよ。わたしには由美子という名前があるわ。由美子、って呼んで欲しい」

「由美子、か。なんだか照れ臭いな」

「なぜ?サン付けで呼ばれているのはわたしだけ。少なくとも今回の一件では、わたしはケンスケさんなどと同じ、ユニットの一員だと思ってる」

「まあ、確かにそうなんだが。どうもね。肉親くらいしか下の名前で呼んだことがないんだ。その肉親、係累にしてもほとんどいないしな。慣れてないんだ。それに…」

「それに、なに?」

えー、つまり、なんだ、そのー、とオレはしどろもどろになってきた。

「あー、はっきりいうとだな、和田さんを由美子と呼ぶと、一気にオレのコラエ性が崩れそうな予感がある」

「コラエ性が崩れるってどういうこと?」

簡単さ、オレが和田さんを、いや由美子を愛しているということが、否が応でも意識せざるをえないじゃないか…といいたかった。

愛してるだの、好きだの、そういう面倒に関わりたくないんだ、だからオレは和田さん、と呼ぶんだ。

あなたのいうとおり、距離感を保つためにね…といいたかった。

そのことを拳拳服膺するための呼び方なんだ…といいたかった。

オレの本質はウェットで女々しい性質なんだ…といいたかった。

「満月は人の心をおかしくするそうだ。今夜のオレはおかしいのかもしれん」

下手な言い訳だぜ。

どうしようもねぇな、とオレは情けなくなった。

「だから…、そうだな。あー、いい。わかった。そうすることにする。和田さんのお願いなんだ、聞かないわけにいかない」

「まだ和田さん、になってるわよ」

「あ、そう、だから、えーと、ゆ、ゆ…。えー、次はしっかりというからな。それで勘弁してくれ」

オレは舌がつった。

だらしがない、とはこのことだな。

いいかね、諸君。

オレの名誉のためにいっておくが、人には向き不向きがあるんだ。

オレは屁理屈には強いが、色恋沙汰はてんでなっちゃない。

面倒になってしまうんだ。

恥ずかしい、という気分が先行して、自分の感情を言葉に表せない。

そもそも恋愛感情とは不合理にできている。

人を好きになることに理由なんてない。

それはわかるよな。

例えば、だ。

美女と野獣なんてな下世話でわかりやすいだろう。

蓼喰う虫も好き好き、でもいい。

割れ鍋に綴じ蓋、なんてのもある。

それはオレも重々承知している。

しかしな、この不合理さに自分を委ねてしまうことに、オレの目線の軸がフィットしない。

理に働く自分でありたい、という強い思いがあるのだ。

平たくいや、こういうことだ。

しどろもどろになるようなことは避けたい。

こういうことだ。


わたしね、と和田さん、いや、和田由美子が切り出した。

本当は由美子、というべきなのだろうが、そう簡単にはいかんよ。

恥ずかしくってたまらんぜ。

深夜の路地裏には闇と明かりが交互にうずくまっている。

オレと、えー、えー、ゆ、ゆ、由美子は肩を並べて歩いている。

くそっ、まるでCXのドラマだな。

もっともテレビはまず見ないから、そういうことらしい、という単なる受け売りだがな。

手持ち無沙汰とはこのことだ。

なにをいってもオレの望む方向になりそうにない。

だって、そうだろう。

オレも和田さん、あ、もういいじゃねぇか、今んところ「和田さん」というほうがピッタリくるんだよ。

えー、だからだな、今は深夜、だぞ。

しかも相手は深く傷ついた女性だぞ。

酒だって飲んでら。

で、さらに、オレ自身が惚れてるということを意識しているんだ。

それが身体を寄せ合うように歩いている。

オレだってそこまで石部金吉、唐変木じゃねぇ。

粋じゃねぇかもしれんが、空気ぐらい読めらぁ。

今のシチュエーションは極めてマズイことになってんだよ。

オレのコラエ性が腰砕けになりそうなんだ。

コラエ性だけがオレの矜持なんだ。

一線を踏み外しちゃイカン、ってな。

有体にいや、今日日のガキじゃあるまいし、ホイホイホイホイ、女と同衾したいなんて思うんじゃねぇ、ってこった。

恥ずかしみや慎みをなくしちゃ、常識ある大人といえるわけねぇじゃんかよ。


おっといけねぇ。

和田さんが、わたしね、と切り出したあとのことだったな。


はっきりとオレの本音でいえば、それからのことは語りたくない。

語りたくはないが、ここまでガマンして付き合ってくれた諸君らへの義理もある。

義理を欠いちゃ、人間オシマイだ。

やむをえない、と観念している。

なるだけ冷静に語るから、まあ、聞いてくれ。


わたしね、と和田さんが切り出してオレを見た。

ん?

どうかしたのか?

とオレはいった。

視線をはずして前を見据え、和田さんが語り始めた。

歩みのペースはまったく変わらない。

「洋子がああなっちゃって、実をいうと、わたし最初に考えたのは自殺だったの。生きていく意味なんてないわ、って。だからさっさと死んでしまえば楽だろうな、って思った…」

オレはウム、と答えただけだ。

仕方がないだろう、自殺を考えてしまうのは。

そんなことはない、まだまだ生きてがんばろう、なんておためごかしはいえんよ。

絶望の果てが自殺というチョイスはありだ。

人間、生きる自由もあるが、始末をする自由だってあるはずだ。

「それでね…昨晩、ロープを鴨居に引っ掛けてみたの。それで輪っかも作ったわ。ああ、ここに首を入れて椅子から飛び降りればOKなのね、って思った。でもね…やめちゃった。なんでかわかる?」

「いや、わからん。まだ自殺を思い立ったことがないんだ」

「そうよね。わたしもあなたの立場だったら、そう答えるしかないわ」

「で、なぜ思いとどまったんだ?」

「苦しそうだったから」

「苦しそう?自殺だから、そりゃ苦しいだろうぜ」

「その通り。そんな思いをして死ななきゃならないことってなんだろう、って思い直したの。洋子も長田に殺られたときは、ほんとに苦しかったと思う。その苦しみを長田に味合わせられるなら、それはそれでよしとするけど、わたしが仮に自殺するなら、まず長田への復讐を済ませてから、と気付いたの。それに苦しみから逃れるためにさらに苦しいことをやらなくちゃいけないというのは、ちょっとヘンじゃないかな、って」

「ふむ。ずいぶん乱暴な気もするが、説得力は感じるな」

「そしたらね、フッと楽になった。すっかり楽に、なんていわない。自殺という考えにがんじがらめになっている自分が、無駄に落ち込んでいるように思えた」

 オレはハイライトに火を点け、吸い込んだ。

いがらっぽさが心地よかった。

「無駄に?どういうことなんだろう」

携帯灰皿を取り出し、灰をこすりつけた。火玉の赤身が少し闇に浮かび上がった。

「自殺はあとでもできる、っていうこと。たとえば長田を懲らしめられるとすれば、それはわたしの大いなる喜び。その喜びを味わってからでも死ぬのは遅くないわ、と閃いたの」

「そう。ますます説得力を感じるな」

「だからね、こうすることにした。まずなにか目標をたてよう、って。今度はあなたのいう神さびた土地に長田を追ってみる。そしてそこにいるであろう川崎姉妹と会ってみたい。波動のなんたるか、なぜ若者二人が殺されねばならなかったか、それを知りたい。それを目標にすれば、少なくともあと暫くは死ぬ必要がないわ」

なるほど。しかし、目標が達成されたら自死するのか?」

「どうかしら。ただいえるのはなにか次の目標をたてそうな気がするわ。直感というか、予感だけどね」

オレは大きくハイライトを吸い込んだ。

「由美子。いいことを教えてあげよう。直感には従うことだ。直感は過たない。誤るのは判断なんだ。グズグズ考えて裏目を喰らうのが一番腹立たしい。直感に従えば、少なくとも精神衛生上は快適だ」

「あら、初めて由美子って呼んでくれたわね」

「ああ、そういえばそうだな。特段、意識して口にしたわけじゃないが…。そういうこともあるさ」

そう。

流れに委ねて無意識に発するのが一番いいんだ。

声が裏返るようなみっともない醜態をさらすこともない。

意識して出たんじゃない。

由美子が自分の底を晒そうとしているんだ。

ならばオレだって由美子に惚れているという感情に沿ってもよかろう。

要するに会話であれ、セックスであれ、つきつめれば他者とのコミュニケーションなんだ。

居心地のいい流れや形に乗っていくことが最良最上のコミュニケートと思うがな。

どう思うかね、諸君。


オレは和田由美子と並んで歩き続ける。

指呼のうちにメインストリートに出た。

右に行けば和田由美子のマンション、左だとオレのヘッポコ事務所だ。

オレは右に行くものだ、と理解していた。

ところが和田由美子は事務所に戻ろう、という。

「どうしてだい?」

「明日の用意ができていないじゃない」

「適当に詰め込めばいいんだろ」

「その適当ができるの?」

ウッ、とオレは詰まった。

そう、事前の準備とか、今まですべて彼女に頼んでいた。

過不足なしで、それは見事に用意されていた。

オレがやれば間違いなく余分なものがありすぎ、必要なものが欠品しているだろう。

「あー、多分、メチャメチャになる予感がする」

「明日は私も同道するのよ。ちゃんと用意しておきたいわ」

「痛み入る。すまないが…頼む」

オレは素直にその申し出を受けることにした。

薄っ暗い階段を上がり、ヘッポコスチールドアを解錠し、中へ入る。

ドア下に突っ込んであるDMの類はそのままゴミ箱行きだ。

オレは倒産したラブホテルから失敬したソファに腰を落とした。

今となっては、その形状が妙な気分を励起させる。

お茶でも淹れましょう、という由美子の声に、頼む、と答えた。

明日のためにハルシオンの力を借りて眠ろう。

ハイライトを喫い終わる頃、じっくりとぬるめに淹れたお茶をお盆に載せ、由美子が対面に座った。

お茶も淹れ方次第でまったく違う。

事務所のお茶は、決して安物のそれじゃない。

オレ自身が日本茶派であることもあって、結構、上等な茶を置いている。

しかし、オレが雑に淹れてしまうと、これほどうまくはならない。

一口含むと、身体全体から力が抜けた。

緊張が一気にほどけるようだ。

もう一本ハイライトをくらせながら、オレはぼんやりと和田由美子を見ていた。

ああ、確かにいい女だ。

間違いなく心が動いているな、と思った。

ただな、好きだの、惚れただの、そういう言葉を吐きまくるには、オレは少しばかりスレすぎた。

「さっき、やっと由美子って呼んでくれた」

「そう。自分でも驚くほどスンナリ、とね」

「でも、呼んでくれてうれしいわ。今までは少し敷居の高さを感じていたのよね」

「高くはない。むしろこっちが高くしていたようなもんだ」

「どういうこと?」

「聡明な君ならわかると思う」

オレは判じ物のような返答をした。

しかし和田由美子ならその意味がわかる、と確信していた。

そもそも想像力に欠ける女にオレが惚れることは決してない。

「そう。なかなか答えにくいわね」

「だろうな。オレだって平静なわけじゃない。高校生のように心臓が波打っている。暴力団とスッタモンダやっているほうが、まだ落ち着いているな」

「あら、わたしもよ。初めてのデートのときのような気分。何年ぶりなんだろう」

和田由美子が短めのストレイトヘアを両手でかきあげた。

先ほどまでのやや疲れた表情はなく、突き抜けたような輝きが見て取れた。

「どうなのかな、と若干、オレは躊躇している。君は娘を殺されたばかりだ。しかも何年か前に最愛のご主人を、病気とはいえ亡くされている。そこにオレのようなドブネズミが土足で這い上がるような真似をしていいのか、とね。まるで火事場泥棒じゃないか、とね」

あのね…、と口に出し、和田由美子は下を向いた。

一気に堰の切れそうな巨大な水圧に耐えているように見えた。


ああ、一番あらまほしくない状況だ、とオレの理が嘆いている。

逆にオレの情は、このまま流れればいいさ、と主張している。

その間にあって、オレという人間が右顧左眄している。

判断に窮したときはコイントスが一番手っ取り早いのだが、今、ここで、というわけにもいくまい。

和田由美子が決然とオレを見た。

ああ、ここなんだろうな、とオレのスーパーバイザが情の蛇口を捻った。

「わたし、あなたを愛していると思う」

オレの理は下手に引っ込んでいった。

「オレも多分そうだと思う」

「どうしてお互いにいえなかったのかしら」

「君は慎み深く、オレは臆病なのだ」

沈黙が訪れた。

ここでオレがなにもアクションをしなければ、それこそ野暮の極みだろう。

そうじゃないか?

笑われるかもしれんが、オレの心臓はバクバクだった。

女と寝たことは人並みにある。

ただそれは行きずりのなりゆきばかりだ。

後腐れなんかなんにもない。

アイコンタクトというか、阿吽の呼吸でそのまま同衾、ってことばかりだった。

酒精に加速された淫夢のリアライズといったところだろう。

ところが今回は、惚れている、と自覚する女と交わろうというのだ。

そんなこと、もう記憶そのものが曖昧模糊としている。

いったいいつのことだったやら…。


ずっとずっと昔だった。

オレがまだウブなクソガキだった頃だ。

青年独特の自意識過剰と性欲過剰で、オレの頭と下半身はてんで統合が取れていなかった。

男の誰もが通過するように、自慰行為に罪悪感を感じ、そのくせ性の妄想で頭は常に沸騰していた。

ああ、こいつは女性にゃ理解できないかもしれんな。

なんといったらいいかな、あー、つまり自慰は男には必須科目なんだが、女には選択科目だ、というくらいに理解してくれ。

まあ、青年は常に壮大な勘違いと鬱懐にある、ということだ。

オレも煮えたぎるような年代にあった。

女と見れば、性とリンクしてしか考えられなかった。

しかしそこで出会ったのが、Sという女だった。

オレは完全にいかれてしまった。

この女のためなら、なんでもする、と錯乱した。

恥ずかしい言葉だが、恋、ということなんだろう。

オレは世に愛が存在することに、そのSという女の存在に狂喜していた。

ウブだったんだよ。

オレもね。

どうなったか、というとだな…。

要するに手酷くオレは弄ばれたんだよ。

そりゃ荒れたさ。

恥ずかしながら、泣いたぜ。

ヤケ酒も浴びるように飲んだ。

でもな、女に振られて泣くなんざ、今から考えりゃ、幼稚極まりない。

それ以来、オレは女を好きになろうなんて、ハナから思いついたことがない。

要するに女は裏切るようにできている、と思うことにしていた。

そう覚悟さえしておけば、どんな女に対してもフフン、と笑っていられる。

恬然としていられる。

オレはずっとその覚悟を変えなかった。

臆病といわれれば、その通りかもしれん。

しかし居心地は悪くない。

惚れたの、愛しているだの、面倒極まりないと忌避していたし、関わるつもりもてんでなかった。

男に理解できぬ、いや、少なくともオレには理解不可能な女という存在に対しては、敬して遠ざけるのが一番だった。

いうだろうが。

遠き慮りあれば近き憂いなし、ってな。


ところが現れたのが和田由美子って寸法さ。

一目惚れかい、とかいうんじゃねぇぞ。

顔やボディの良し悪しで判断するほど愚劣じゃねぇ。

前にもいったろ?

突き詰めれば恋愛感情であれセックスであれ、人と人とのコミュケートだ、と。

オレはバカが大嫌いだ。

断っておくが、学歴のことなんかをいっているわけじゃない。

簡単なことさ。常識や品性といいかえてもいい。

つまり当たり前のことができりゃいいんだよ。

もっともこんなことをくだくだしくいわなきゃいけないくらい、世にバカが跳梁跋扈しているってことだがな。


例えばバカであることを誇るバカがいる。

モノを知らないことを誇ってどうするんだ?

オレはそれがわからない。

そのバカがいいたいのは、ボクって三歳児のような純真無垢なんだよ、っていいてぇのか?

知らなきゃ学習しろ。

知らないまま過ごすより、知ったほうが面白かろう。

例えば子供と一緒にいて、この子に叱られるんですよー、と無邪気にタワゴトを吐くバカ親がいる。

オマエはガキよりバカなのか?

そのガキをオマエが躾けてんのか?

バカが拡大再生産するから、もう親であることをオマエはやめろ。

そうとしかオレには思えん。

バカであることを慫慂するバカ世相にあって、常識は大海の一滴か、とさえ感じる。


その苦々しい思いの中で現れたのが彼女だ。

そう。

和田由美子は極めて常識豊かであり、高い品性があった。

和田由美子は言葉と肉体でコミュケートできる女だろう。

無論、平生の暮らしの中では言葉だ。

しかしごくごくプライベートなコミュニケートは男女ならセックスでしかありえない。

飢えたガキならいざしらず、成熟した大人ならセックスへの対応を常に顧慮すべきだ。

避妊にも気をつけて、な。

あー、いいことを教えてやる。

わたしの体が目当てなのね、とかタワゴトをいう女は放っておけ。

つまりその女にとって、肉体は精神より下位にしかないのだ。

その体も自分自身である、という重大な事実に気づいていない。

つまり、事実に想像を巡らす人間力が欠落しているのだ。

そんな女はどうせロクなもんじゃない。

それこそ体だけを目当てにしてりゃいい。

またそういう女に限って、すぐに股を開くし、床上手でもない。

どうして、こうも女ってやつは…。


いけない。

クソな説教垂れている場合じゃなかった。

オレは今、和田由美子とギリギリの瀬戸際だったんだ。

お互いにオズオズと恋愛感情を吐露し、沈黙しているんだ。

恥ずかしいが、続けるぞ。


オレは意を決して立ち上がった。

まだ大丈夫だ。

酒にも酔っていない。

ハルシオンの効果も、まだない。

和田由美子の横に彼女の手を取った。

由美子がオレを見上げている。

それを合図のように由美子も立ち上がった。

オレは両手を回し由美子の腰を抱えた。

由美子が柔らかくオレの体に体重を預けてきた。

柔らかくたおやかで、洋服越しにも由美子の血液が温かく流れているのが感じ取れた。

どれくらいそうしていただろう。

オレの胸に横顔を埋めていた由美子が顔を上げ、オレの両頬を掌ではさんだ。

加齢と労働で少しだけ生活感のある触感だった。

オレはそれが気持ちよかった。

成熟した女の手だ。

エステだ整形だと狂態を尽くすクソ女のそれではない。

まっとうな生の証だ。

いいか、この生活感の典雅さがわからないようじゃ、まだまだ自分はドチンピラだ、と覚悟するんだな。

由美子が少し背伸びをした。

薄いルージュの引かれた唇がオレのそれに近づいてくる。

あるがまま、そう、あるがままにオレは従容と受けた。

由美子にしても跳躍するような思いでこうしているのだ。

愛おしいじゃないか。

女の気持ちに答えなきゃいけない場面じゃないか。

両手を由美子の背中に回し、ゆっくりと、しかしパトスをこめ力をいれた。

やわらかな由美子の皮下脂肪が感じられる。

ああ、これが女のたおやかさであり、生の豊穣だ。

男の乾燥を補う女の湿潤だ。

由美子の唇がオレの唇を塞いだ。

そこからおずおずと由美子の舌が侵入してきた。

オレはその唇に最大限の敬意を払い、オレの舌で答礼をした。

滑らかに、じっとりと二つの舌が絡み合い、互いの存在を確認しあう。

愛している、という内意をこめ、粘膜同士がもつれている。

あたかも舌そのものに能動的意志があるかのような動きだった。

舌の交歓は、オレの決意を起動させるのに有り余るほどの信号だった。

オレの下半身が熱く励起しはじめた。

唇を離し、オレは和田由美子を横抱きに持ち上げた。

腰がミシッと悲鳴を上げた。鈍い痛みが臀部から膝裏に走る。

クソッ、昔なら軽々と持ち上げていたんだがな。

とにかく、ここが男の踏ん張りどころだ。

繰言をいっても詮はない。

由美子に腰のことを悟られないよう、なるたけ涼しい顔をしてオレの簡易ベッドに由美子を運んだ。

このときばかりは米国製の簡易ベッドにしておいてよかった、と思った。

日本サイズのシングルベッドなみの大きさがある。

ゆっくりと由美子の身体をベッドに置く。

中腰の姿勢に腰が割れそうだ。

由美子の視線はオレを離さず、双眸がフェロモンに潤んでいた。

性の期待。

オレの目もそうなっていたろう。

欲望にぎらついた淫靡な目だ。

しかし、それはそれでいい。

今からやろうとしているのはセックスだ。

勉強でもなけりゃ家事でもない。

男と女が原始に還元される行為なのだ。

そこで取り澄ました常識面を下げてどうする。

確かにオレは常識のないバカが嫌いだ、といった。

しかしな、セックスの際に常識ぶってどうする。

成熟した男と女が合意の上で行う性行為なんだ。

人に迷惑をかけない限り、なんでも好きにやればいいんだ。

SMでもスカトロでもコスプレでも、なんでも。


和田由美子の身体全体から女の匂いがきつくなってきた。

そう。

これでなくっちゃいけない。

牝の匂いこそが雄性を加速するのだ。

征服欲を高めるのだ。

この女を組み敷き、その体内にオレの精液をぶち込んでやる、という原始感情をかきたてるのだ。

オレはベッドに横座りになり、由美子を見下ろした。

小鼻がふくらみ小さな喘ぎが聞こえる。

唇が軽く開かれ、時々、舌先が顔をだし唇を湿していた。

興奮で乾くのだろう。

「いつか由美子と交わりたい、と心の奥底で意識していたんじゃないか、と思う」

由美子を見下ろしながらいった途端、オレは後悔した。

あー、こんなところで心情を説明してどうする。

野暮も野暮、大野暮だぜ。

度し難い大馬鹿だ。

由美子はオレの逡巡を察してくれたのだろう。

黙って、というとオレに両手を絡みつけ、自らの身体にオレを引き付けた。

自然、オレは由美子に覆い被さった。

牝の匂いと由美子の汗の匂いがオレの鼻を心地よくさせた。

オレの最後の逡巡がサッと消えた。


由美子の中は熱く滑らかにじっとりと湿っていた。

掌に余る乳房の重みが心地よかった。

少し弛緩しかかった腹部の脂肪が、女の漲りを感じさせた。

オレを含んだ口中の唾液の擦過感が愉悦を加速させた。

最後にオレの腰を両腿で強く挟み、さらに貪るように大腰を突き上げた。

子宮壁の奥の奥、オレの堰が崩壊し、大量に爆ぜた。


喘ぎ喘ぎ、呼吸の静まるのを待った。

互いに無言だった。

由美子はオレの懐でオレの手を握り締めていた。

呼吸が落ち着くのと軌を一にして、ハルシオンの薬理がオレの細胞を溶かし始めた。

オイ、これからどうするんだよ、とオレの理が困惑の声をあげたような気がした。

しかし薬理は単なる理より、はるかに強力だった。

いくらもたたぬうち、オレの意識は奈落へ墜落していった。







チェッ、文龍名め、まったくいまいましいクソ野郎だぜ…

ブツブツと呪詛の言葉を撒き散らしながら、長田は闇の迫る中を歩いていた。

チラホラと波動のメンバーが見える。

若いのや中年、年齢差はあるが女は一人も見えない。

それは仕方あるまい。

これからドンパチがおっぱじまろうとしているんだ。

女は足手まといにこそなれ、戦力にはならん。

どうせ連合赤軍の浅間山荘事件ように、相手の圧倒的な火力、人員、兵站に踏み潰されるのだ。

女は男の戦意を高めるために、安全なところで股を開いてくれてりゃいい。

ジェンダー差別でなんかあるもんか。

そもそも平等なんてクソクラエ、だ。

女は男を腹の上で泳がせてりゃいいんだよ。

射精して男の腰が軽くなりゃ、それだけ戦意も高まるさ。

長田の女の見方はこうだった。


薄闇の向こうに、さらに濃く闇が佇んでいた。

その闇の中に、板で囲まれた一画がある。

長田はそこが川崎姉妹がいるところだろうと見当をつけていた。

近づいてみると、一画を囲む板は杉の無垢材だった。

神域に相応しい清浄感がある。

口形の囲みの一部が切れ、そこが中の東屋への入口になっている。

切れ口の前には歩哨と呼べばいいのだろう、屈強そうな若い男が立っていた。

オレと同じような匂いがするな、と長田は思った。

誰だ、オマエは、とその男が長田を誰何した。

初対面の男だ。

「オイ、オマエ。オレを知らないってな、モグリか」

長田は威圧的に答えた。

「知らんね、オマエのような汚い野郎は。テメェのような不浄が立ち入るところじゃねぇ」

「なんだと、こら。口には気をつけろ。オレは気が短いんだ」

「短けりゃどうした。失せろ、このゴミタメ野郎」

男も傲然といい放った。

暴力嗜好者同士の剣呑な会話だ。

いってみれば暴走族が路上で鉢合わせをしたようなものだ。

虚勢のぶつかりだ。

腕力だけが支配する荒涼とした精神風景だ。

オレをイラつかせるな、という男の言葉に、長田の拳が飛んだ。

無論、ケンスケに粉砕されていない方の拳がだ。

男はきわどくスェーしたが、わずかに反応が遅れた。

長田の拳半分が男の顎先を打ち抜いた。

東屋の壁に男は激突した。

さらにつっかかろうと長田が一歩前に出た瞬間、男は軽業のような速さで立ち上がり、後ろ蹴りに長田の腹を蹴り上げた。

ウッ、と呻いて長田は身体を折った。

逆にトドメを刺そうと男が身構えたとき、なにを騒いでいるの、という声がした。


長田と男は同時に振り返った。

白装束の女が立っていた。

「なにをしているの。騒いでいる場合じゃないでしょ」

あ、申しわけありません、と男は畏まった。

だれなの、あなたは、と女が長田に問うた。

長田が下卑な笑いを浮かべた。

「おいおい、お忘れかい。オレだよ。長田だよ」

「長田?知らないわ」

長田の顔がみるみる赤黒くなってきた。

「いい加減にしろよ。やっとのことでここにたどり着いたんだ。知らないはないだろう」

男が咎めるような顔つきになった。

「おい、長田とやら。御先師様にぞんざいな口をきくんじゃねぇ」

「黙りやがれ、ドチンピラ。オイ、真理子。やっと逢えたんだ。中で積もる話でもしようぜ」

「知らないものは知らない。それにわたしは真理子ではないわ。第一、あなた波動のメンバーなの?」

「真理子じゃない?どういうことだ?どうした、忘れたのか?波動で一番腕っぷしのたつオレのことをよ。一緒に熱い思いもしたじゃねぇか」

「波動のメンバーなら、今、騒いだりしないわ。静かに明日に備えなさい。文龍名の指示を待ちなさい」

そういうと女は警備の男に向き直った。

「今は明日の戦力が必要なの。聞き分けできるようにその男を躾けなさい」

それだけいうと女は中へ消えた。

男が長田の正面に立った。

「そういうことだ。御先師様がオマエ風情に知り合いなもんか。これ以上、騒ぐな。騒いだらオレがオマエを黙らせる」

「うるせぇ。チンピラがガタガタいうんじゃねぇ。オレは中に入るぜ」

長田が足を踏み出そうとした刹那、男の手刀が長田の粉砕された掌をしたたかに打った。

ぐあああ、と長田は絶叫し、手首を押さえたまま膝から崩れた。

男は構わず長田の蓬髪を掴み、苦しげな声をたてる口をもう片方の手で塞いだ。

ムンズと首を捻じ曲げると、声を潜めていった。

「静かにするんだ。ガキみたいに泣き喚くな。波動一の腕っぷしが聞いてあきれるぜ。四の五のいわずにテントへ戻るんだな。でなきゃたたき出すぞ」

男は長田より若い分、スピードも膂力も勝っている。

若さという威勢に任せて暴発できるのだ。

若い頃の長田ほどではないにせよ、だ。

蓬髪から手を離し、今度は背中側に逆手で長田の腕を捩じ上げた。

声をたてるな、とドスを効かせながら。

強引に長田を立ちあがらせ、強靭な背筋力をもって長田を押し立てた。

「いいか、ここは波動のキャンプということを一瞬も忘れるんじゃねぇ。オマエの腕っぷしがどうなのか、そんなこたぁ知ったこっちゃねぇ。役にたたねぇのは、ここじゃクズだ。それになにより御先師様にふざけた態度はとるな。わかったな」

男はギリギリと力を込めた。

長田はンググとくぐもった声をあげただけだ。

「聞こえねぇ。どうなんだ、はっきりしろ」

長田の腕が折れる寸前まで捻じ曲がった。

「答えろよ。どうなんだ」

「わ、わ、わ、わかった」

「そうか、じゃあテントに戻れ」

そういうと男は長田を突き飛ばした。

ザザッと地面に身体がすべった。

長田は掌をかばったため、したたかに腰を打った。

ハッキリと殺意が芽生えたのは、この瞬間だった。






なにかに突き動かされるように、突然、目覚めた。

いけない、どうなっちまったんだ。

オレは上半身を起こし、周りを見渡した。

和田由美子の姿はない。

彼女とセックスをしたことまではありありと記憶している。

そうか、その後、墜落するように眠り込んでしまったんだ。

放つだけ放っておいて高鼾とは、なんともデリカシィに欠ける。

それは後悔といったネガティブな感情ではないが、どうにも据わりの悪い心持がした。

時計を見ると八時を指している。

オレとしてはかなり眠ったほうだ。

まあ、とにかく身繕いをしよう。

この情けないフルチン姿にせめて下着くらい与えなきゃな。

オレはベッド下に散乱しているはずのトランクスを探した。

しかしベッド下はきれいに片付けてある。

由美子が始末をしてくれたのだろう。

フルチン姿を晒した初老男を見ながら、そいつの下着を片付ける思いはどうたったんだろう。

決して美しくない。

いや、おぞましいという言葉しか浮かんでこなかった。

クローゼットからバスタオルを取り出し、腰に巻く。

とりあえずシャワーだ。

石鹸で身体を洗う。

髪も石鹸だ。

シャンプーなるものは髪がヌルヌルしてかなわない。

汚れが落ちる感覚がない。

髭も当たる。

替刃も新品に取り換える。

オレはあまり髭が濃くないので、替刃も頻繁に換える必要がない。

しかしそれはそれ、新品だと肌へのあたりが違う。

このあたり、男ならわかるな。

歯も丁寧に磨いた。

舌の苔も歯ブラシでこさぎ取った。

すべてを洗い流し、身体を拭く。

シーブリーズを振りかけて終了だ。

薄膜のような初老分泌物を取り除いた爽快感がある。

洗濯したてのトランクスに足を突っ込むと、生まれ変わった気がする。

もっともトランクスの洗濯も由美子にやってもらっているんだがな。


さて。

これからの用意をしなきゃな。

ああ、もう面倒だな、と嫌気がさした。

と、見るとオレのデスクの隣にグレゴリーのバックパックが置いてある。

そうか、由美子が用意する、といっていたアレだ。

しかしこんなもの、どこにあったんだ。

まったく由美子の収納の完璧には驚かされることばかりだ。

中味は多分必要十分なものが入っているだろう。

きっちりとパッキングされているから、ここで確認のために御開帳したら、オレに再パッキングは無理だ。

由美子を信じてりゃOKだろう。

あと現金とカード、それに煙草と気付薬のバーボンを放り込めばいい。

となれば身繕いだけだ。

オレは手始めに五本指のコットンソックスを履き、その上にウールソックスを重ねた。

ウールソックスだけだと、足指間が蒸れてかなわない。

とりわけかなりの歩行を強いられるであろうから、ここが肝心なところだ。

足が軽いと、歩行がまったく違う。

さらに下着は上下とも化繊のそれに換えた。

登山用のやつだ。

アウターのシャツとパンツも登山用にする。

足固めはゴアブーティの頑丈なハイカットトレッキングシューズにする。

あとはゴアテックスの上着を羽織ればいい。

まあ、いってみれば中高年の正しい山行スタイルみたいなもんだ。

そのまま槍でも穂高でも行けるぜ。


一通り身繕いを終え、オレは茶を淹れた。

茶葉をおごってうんと濃くいれた。あちらじゃのんびり茶を啜るなんてできまい。

一応、カローラにはMSRのストーブが放り込みっぱなしじゃあるが。

茶と一緒に梅干をしゃぶる。

昔ながらの酸も塩もきついやつだ。

減塩梅干なぞクソクラエだ。

重篤な腎臓病患者ならいざしらず、梅干一個に減塩のどうとかこうとか、常軌を逸してるな。

なんかもう当たり前の生活を送ることに汲々としてんじゃないのか。

そんなに息苦しい生活のほうが病気になるぜ、と諭してやりたいくらいだ。

ハイライトに火を点け、朝刊を広げた。

一面からザッと目を通す。

新聞くらい、ちゃんと目を通すぜ、オレだってな。

ネットですまそうなんて思っちゃいない。

将来的にプリントメディアがどうなるのかは知らんよ。

そんなのはお偉いセンセイ方にお任せしよう。

しかし、オレは古い人間だ。

ネットは便利だが、いまひとつ胡散臭さを感じる。

逆に紙に印字されているから信じる、と無原則な判断停止もしない。

ただな、オレはこれだけの情報が毎朝配られて、それでいくらもしない、ということは驚くべきことだと思う。

携帯電話の無駄話に何万円もつぎ込むなら、その何割かで新聞でも読んでいたほうが、よほど生産的なのではないかと思うがな。

いや、いいんだ。

クソ初老の説教だからな。

時代遅れなんだろう。

もっとも時代遅れでオレはいい。


一面、内政、国際、経済と読み進め、文化面をめくったときだ。

「カルトの今」という見出しが目に飛び込んだ。

オレは少し居ずまいを正して読み進めた。

話はオウム教団から展開されていた。

確かにあれはカルトという存在が急に不気味になるきっかけとなった事件だった。

たった一人の教祖の存在が、人間の思考を停止させ、唯々諾々と信者を無差別大量殺人者に変質させていった。

人間の批判精神の深刻な崩壊ぶりをまざまざと見せつけられた。

しかし、とオレは思う。

それが国家的になれば現在の北朝鮮になり、中国になるじゃないか、と思う。

なぜなら偏狭なナショナリズムとはカルトの別に謂いではないのか、とオレは直感しているのだ。


さらに読み進めると「波動」という言葉に当たった。

教団としての波動でなく、エセ科学としての波動がまず取り上げられていた。

無論それは物理学における波動力学ではない。

憶えちゃいないか?

高校で習ったろ。周期とか波長とか、ああ、ホイヘンスの原理なんてのがあったな。

オレもウロ憶えだが。

サイン、コサインとか頭を捻ったヤツだよ。

おっと、オレに物理学の説明は無理だ。

とにかく記事を読み進めよう。

例えば「水からの伝言」への言及がある。

美しい言葉をかけた水は、罵声を浴びせた水よりはるかに見事な結晶ができるというアレだ。

ちゃんちゃらおかしい。

どこをどう探ってみればこういう発想が出てくるのか。

水は水だ。

感性として水に意志があると考えるのはよろしい。

しかしそれを波動たらいう概念で括って、科学にデッチあげるのが、エセのエセたる所以だ。

呪術と科学のすり替えだな。

また、これを真面目に信じる教師が多数いるとも書いてある。

ホントかね?

大学教育を受けてもこの程度のエセにコロッと騙されるなんざ、オマエらに冷静な批判精神はないのかね、と毒づきたくなるな。

それを小学校のクラスで追試するオオバカ教師もいるそうだ。

平和なんだか、この程度の教師しか育てられない和朝の民度なのか、悲しくなるぜ、おい。


ヤツらはエセであるがゆえ、呪術と科学を臨機応変に使い分ける。

臨機応変といえばサギの要諦だ。

あるときは化学的に、あるときは呪術的に。

サギは常に相手の寸法に合わせる。

ああいえばナンタラとかいうオウムの広報部長がいたろうが。

あれを想像すればいい。

またそれくらいの小器用さがないと、サギやエセ科学はやってられんよ。

なにしろ単なるミネラルウォーターを、波動水という名前でベラボウな値段をつけ、売り逃げようというんだ。

なまなかなオドシやスカシじゃ、無理だ。

不安を煽りに煽った上で、その不安の受け皿を用意してやるんだ。

ヤクザがカタギ衆をおどすやり口と、寸分違わない。


後学のためにヤクザの恐喝方法を教えといてやろう。

例えばな、あるカタギからヤクザが金を巻き上げようとする。

多分、そのときヤツらは二人で来るはずだ。

なんで二人かは、このまま読んでりゃわかる。

まず恰幅のいい重役然とした男が会話の口火を切るはずだ。

こうこうというわけだから、金を寄越せ、あるいは権利を寄越せ、とね。

それは当然ながら極めて理不尽な要求なのだから、誰しも拒否する。

さ、これからだ。

ヤクザのヤクザたる本質が画然となるのは。

もうひとり、いかにもヤクザ然とした男が暴力の匂いをプンプンさせながら吠え出す。

「てめぇ、黙って聞いてりゃ図に乗りやがって。ナメんじゃねぞ。こっちだてガキの使いじゃねぇんだ。はい、そうですかで帰ると思うなよ」とくる。

大声で。

しかもフトコロの匕首が見えるようにしながら。

常識は当然通じない。

ヤクザなのだから。

まわりの怯えたような視線も居心地が悪い。

助けを求めようにも、誰も後難を怖れて近寄りもしない。

机を叩きつける、聞くに堪えない罵声を浴びせる。

恐怖に支配され、思うように声もでないし、身体は強張ったままだ。

そこで、最初の重役然とした男がとりなすようにいう。

「まぁ、まぁ。そう荒立てても前に進まない。じゃあ、どうです、カクカクシカジカの条件でどうですか」と最初から企図してある落としどころを提示するはずだ。

まず健全な判断はできないだろう。

今、ここにいる二人から逃げ去りたいだけの心情にある。

そこになんとか呑めそうな条件が提示される。

諾ける。

恐喝成立だ。

拒否したら?

簡単さ。

果てしないループが続くんだ。

最終的にヤクザの要求を呑むまでね。


カルトのやりくちもこれと同じだ。

健康に不安がある。

末期がんだ。

親子関係が悪い。

不幸が続く。

そのときカルトはいうね。

その原因はこれです、と断定するのだ。

宇宙の根幹はナニナニから成り立っています。

そのナニナニを賦活化させるこれを飲めば、あるいは日々身につけていれば、またあるいは帰依すれば、あーら不思議、すべてがうまくいきます、とね。

こういのを人の弱みに付け込む、という。

弱みに付け込んで、さらに恐怖心や不安を煽り、カルトの土俵に持ち込み、金を、精神を、生活のすべてをを収奪するのだ。

脅しの上に、安心の落としどころって寸法だ。

どうかね、ヤクザとまったく一緒だろうが。


おっと、また脱線したな。

すまねぇ。

説教と脱線が初老の悪癖だ。記事に戻ろう。


欧米ではエセ科学はまず相手にされないそうだ。

この新聞記事の筆者は、その背景は西洋的合理主義の風土であろう、と解していた。

しかし宗教的カルトとなると、枚挙に暇がないらしい。

これはキリスト教の限界値がここらあたりではないのか、と推論している。

もっともオレは宗教の限界値ってなんだよ、と毒づいたがな。

日本では神秘水や波動といったモノを媒介とするカルト的インチキ科学が猖獗を極めるとある。

現世利益をモノに媒介させようとする日本人の自他未分化な自我の表れではないか、と続く。


なんだこりゃ?

この論文そのものがカルトか?

おエライ先生のお書きになる論文はこれだからいけない。

晦渋に書けば重々しいとでも思ってんのかね。

オレにいわせりゃ、文意の通じない文章はクソだな。

ちょっとえらそうにいえば、梨棗災罹という。

紙の無駄、ってこった。

ただひとつ気になる一説があった。

カルトは西洋的合理主義と東洋的神秘主義とせめぎあう中で発生した、というご託宣だった。






痛む掌を押さえながら、長田は兵員宿舎と思しき仮説テントへ向かった。

見知った顔もあれば、知らない顔もある。

しかし、どの顔も緊張感がありありと見て取れる。

なにかが起こる、その予感が誰にもあるのだろう。

さきほど文龍名のところで出会った西村の顔が見えた。

長田は、西村、と声をかけた。

「おや。長田さん。どうしました」

「ああ、いよいよだなと思ってね。オレも準備に入ったほうがいいだろうと考えていたんだ。文龍名からも力を貸してくれくれ、といわれてたからな」

西村があどけない笑顔をみせた。

「そうですか。そりゃありがたい」

それでな、と長田は話の腰を折った。

「手を少し怪我している。骨がいかれている。添木にバンテージをもらえないか。あ、それにライフルの場所も教えてくれ」

「お安い御用ですよ。こんな山の中ですからね、メンバーに生傷が絶えなくて、ふんだんにありますよ。あ、それとライフルは隣の小さいほうのテントにあります。全部、カラシニコフです。M16は残念ながらないんです。長田さんの演習はどっちでした?ま、どっちでも大丈夫でしょ、長田さんなら」

その問いに、長田は、さも当然なように顎を引いた。

「じゃ、添木とバンテージ取って来ます。ちょっとまっててください」

テントの周りに置いてある、電池式の蛍光灯が鈍い光を放っていた。

それを頼りに武器庫とも呼べるテントを覗いて見た。

カラシニコフが十数挺、その横に実包の箱が積み上げられている。

弾数がどれくらいの数になるのか、長田には理解できなかった。


すぐに西村が戻ってきた。

手に医療用の添木とバンテージを手にしていた。

長田は、西村君、すまないがといって痛めた手を差し出した。

西村が慣れた手付きで掌と手首を固定した。

それとともにズキズキと周期的だった痛みが、直線的なそれに変わっていく

痛みは周期的に変化するほうが辛い。

直線的な平板な痛みのほうが、うんと耐えやすい。

「慣れてるな」

「門前の小僧ってやつですよ。一体、何人にこういうことをやってやったか。ここに入って一月ですが、捻挫や骨折なんて茶飯事ですからね。要するに固定して静養する以外に方法はないんですから。ああ、一人いましたね。下まで降ろされたのが。膝の皿が割れちゃって、外科的な手術が必要になりましてね」

「よく判断がついたな」

「メンバーに医者がいますからね。残念ながら、接骨医がいないんですよ…。さ、これで大丈夫じゃないですか」

長田はしっかりと固定された手を眺めた。

いい感じだ。

ゆっくりと親指から順に曲げてみた。

親指、人差指、中指までは動く。

うまい具合に指とリンクする骨には異常がないようだ。

しかし、薬指と小指は脳天を突き上げる痛みで止めざるをえなかった。

この二本がひどくやられているのだろう。

まあいいか、この痛めた左手は利き腕ではない。

ライフルを操作するにしても、右手でオペレーション、左手は添えるだけだろう。

引鉄を引くには、問題ないはずだ。

ライフルを撃ったことはないが、なに、セミオートかフルオートでブッ放しゃいいはずだ。

すまんな、という長田の言葉に軽く会釈し、西村は闇に消えていった。

西村が完全に闇に溶けたのを確認すると、長田は武器庫テントに身体を滑り込ませた。

一丁のカラシニコフを手にした。

想像していたより、それははるかに軽かった。

殺戮用の武器という思いがなければ、強化プラスチック製のちゃちな工具にしか感じられない。

もっとも、ライフルが重く、取り回しに難渋するようでは兵士には使えないだろう。

見た目の重厚さより、軽く、堅牢で、なによりも操作性が高くなければならない。

バンテージで固定された左手で銃身を固定する。

銃床を右肩につけ、右手で引き金に手を入れる。

思わず引き金を引きそうになり、あわてて引き金から指を離した。

フーッという大きな溜息がでた。

せめてセイフティがロックされていることぐらい確認しなきゃな。

長田はしげしげと銃のボディを眺めた。

マガジンの上部にSAFTYと記載があり、クリック式のレバーがついている。

多分、これがそうなのだろう。

LOCKとREREASEとある。

直感的に操作できるようになっているのだ。

なるほどな、と呟き、セレクタレバがセイフティロックの位置にあることを確認した。

再度、銃床を肩に当て、照準と照星を合致させる。

半端な知識だがこれでいいはずだ。

無論、銃個別の弾道のズレはあるはずだ。

しかし、そんなことを調べたって、クソの役にもたたねぇ。

こんなことは頭や事前準備でやるもんじゃない。

最後は度胸でブッ放せるかどうかだ。

気合でいきゃいいんだろうが。

長田の頭は、まず川崎姉妹の居室を警護していた男を殺すことで一杯だった

都合のいいことに、ライフルもある。

それに派手にドンパチも目前のようだ。

ドサクサに紛れて、あの警護野郎をブッ殺してもバレやしないさ。

長田は凄惨な引き攣った表情をした。

長田は宿舎用に設営されたテントに入った。

天井に電池式の蛍光灯が吊り下げられていた。

五人ほどが、コットに寝そべったり、腰掛けたりしている。

のっそり現れた長田にみのの視線が集中した。

知っている顔はなかった。

誰何する声が出る前に、長田は名乗った。

「長田という。諸君らとは初めてだろう。波動じゃあまり表に出ることがなかったんでな。むしろ諸君がトレイニングを受けた側とのコレスポンディング任務が中心だった。あー、だから海外のほうが長い。そろそろオレも合流するべきだろうと思ってな、今、ここへ入ってきた。文龍名とも話をした。まあ、よろしく頼む」

長田は「海外」にことさらアクセントをこめて語った。

ブラフをかましたのだ。

しかし、そのブラフはテントの中ではけっこう効いた。

彼らも緊張の中、なにかにすがりたいと祈るような思いだったのだろう。

「訓練期間は長かったんですか」と一人の若者が尋ねた。

緊張し、引き締まった表情だ。

「あ?ああ。結構長かった」

「じゃ、ライフル訓練も長かったんですね」とコットに腰掛けた別の若者がいった。

「うむ。派遣された訓練キャンプの場所柄、カラシニコフの経験は薄いんだがな。M16ばかりだった。まあ、いずれにせよ歩兵用小火器だ。直感的にできると思う」

これもブラフだ。

「じゃあフィリピンあたりかな」

「いや、まあ、それはいいじゃないか。あまり語りたくない」

長田は韜晦するようにいった。若者たちはそれで納得したようだった。

「眠りたいんだが、どのコットを使えばいい」

「あいているところを、どこでもどうぞ」

その答えに、長田は一番奥のコットに腰掛けた。

靴を脱ぎ、男臭い毛布を引き上げた。

明日はどこからか靴下とブーツを調達しなきゃな、と思った。

「じゃあ、疲れてるんで、先に寝るわ」

三分後、長田の鼾が聞こえてきた。

長田は基本三大欲でのみ生きる粗暴単純な男なのである。






チェッ、わかったようなわからねぇような、これだからエライ学者先生のハナシはわからねぇ。

詮ないことを思いながら、オレはハイライトを吹き上げた。

新聞をバサナサと畳み、二杯目の茶を啜っていると、チーッス、というケンスケの声が聞こえた。

あいかわらずぶっきらぼうな挨拶だ。

「早いな、昼までにはまだ時間があるぜ」

「いいさ。それのオレは目覚めが早くてね」

「不眠症か?」

「バカな。習い症さ。戦場では切れ切れに眠ることを覚えないと身がもたない。それは引いては自分の命を護ることでもあるんでね」

なるほど。

そういうこともあるだろうな。

オレは単に加齢と不眠症のもたらす睡眠障害であるだけだがね。

「身支度はできてるのか?」

「おいおい、オレはプロだったんだぜ。チャラチャラしたアウトドア屋とは違う。命が掛かっている野外活動なんだ。外人部隊っていう名のね」

そういいながら、ケンスケはドア近くに置いたミレーのバックパックを顎でしゃくった。

「軍用は目立つからね。これなら脳天気な登山にみえるだろ。それにフランス製という親近感もある」

見たところ、35リットルというサイズあたりか。

長期戦は無理だが、ツエルトをまとえば二、三日ならしのげるだろう。

和田さんは?とケンスケがいった。

一瞬、オレの鳩尾に突風が吹き去った。

「まだだ。女性だからなにかとあるさ。それに時間も早い」

オレは動揺を悟られぬよう、努めてゆっくりと答えた。

「そう。じゃ、オレも茶でももらうわ。梅昆布茶はいつものとこかい」

「ああ。和田さんがちゃんと始末してくれてんだろ」

ケンスケが流し場でお湯を沸かす音が聞こえた。

ホカホカと湯気をあげる梅昆布茶を手に、ケンスケは倒産ラブホから失敬したカウチに腰掛けた。

ズズッと啜る。

「フーッ、コーヒーなんぞよりはるかにうまいな」

「へぇ、ケンスケもコーヒーが嫌いか」

「いや、あれはあれで呑む。第一、日本以外じゃ梅昆布茶なんてないからな」

「そりゃそうだろう」

「コーヒーは中枢神経を覚醒させ、攻撃的になる飲み物と思っている。その点、日本茶や、ああ、特に梅昆布茶なんてのは、気持ちを沈静させ、静謐な思考に向いている」

「おや、飲料文化学ってわけかい。でもこれからは攻撃的にならざるを得ないかもしれんぜ」

「だからさ。人間はバランスが必要だ。攻撃一方、守備一方じゃ形にならねぇ。メリハリって考えりゃいい」

ケンスケはうまそうに梅昆布茶を啜る。

一体、このケンスケという男、長い付き合いだが、懐の深さには驚かされるばかりだ。

武闘派でありながら、薄茶をこよなく愛す。

ナイフを握らせれば剣呑この上ないが、ブルースギターを弾かせると、訥々渺々と魂を揺さぶる。

オレなどの想像の及ばぬ旅を続けていたのだろう。

無論、ヤツが自分からいわない限り、尋ねても答えもしないが。


事務所の電話が鳴った。

カウチ越しに手を伸ばし受話器を取った。

聞きなれた不機嫌そうな声がした。

「山下だ」

「早朝から、どうした」

「手短に用件だけいう。質問はなしだ」

オレは受話器を握り締めたまま、カウチから立ち上がり、机に向かった。

声のトーンからすると、歓迎されざる話に思える。

「公安が動き始めた。波動の監視を始めようとした矢先に、あの土地の住民から所轄を通じて通報があった」

「それで?」

「彼ら波動一派が武装しているのではないか、と思われるフシがある。メンバーの出入国履歴を検索すると、フィリピンやパレスチナ、あるいはミャンマー、ボリビア、アフガンへの渡航歴がゴロゴロでてきた」

「いずれも紛争地域だな」

「波動のダミー商社のインボイスもあやしい。ライフルや実包ではないか、と推察される」

「おいおい、それじゃまったくのゲリラ集団じゃないか。あ、これは質問じゃない。感想だ」

オレは握った受話器が汗ばむのを感じた。

「急に動き出した、という印象だ。それも昨日から、という慌しさだ。公安からは警戒レベルを上げよ、と指令が来た。波動本部、川崎家が監視下にある。さらに彼らが結集しているあの土地を監視下に入れる。彼らはオウムで懲りているからな。対応がまずいとマスコミに叩かれる」

「マスコミ怖さかね」

「質問はなし、といった」

まったく、この山下刑事ってのは食えない野郎だな。

「それで、だ。波動についてはオマエのほうに若干のアドバンテージがあると認める。で、オレは職務上の倫理を逸脱してオマエに一つ教えてやる。それと交換だ。オレの質問に答えろ」

「なんだ」

「宮崎一平、和田洋子殺しが長田の手によるものとわれわれも判断している。証拠収集はこれからだがな。ま、それはいい。長田はあの土地に向かったのか」

「オレはそう踏んでいる」

「証拠は?」

「ない。しかし、そう考えるしかない」

「当然、川崎姉妹もいるんだろ?」

「いるね。そいつは間違いない」

「なぜわかる」

「川崎良子と篤子に確認した」

「その話はオレに伝えなかったな」

「オレは職業上の倫理を踏み外さない。フリーランスなんでね。信用をなくしたら食っていけない。ある意味、警察よりシビアなのだ」


山下の、フンと鼻先でいう音が聞こえた。

ケンスケは興味なさそうにカウチの背もたれに身体を預けていた。

しかし、聞き漏らすまい、と自分の鼓膜に注意を払っている雰囲気はよくわかった。

「知りえたことは全部話せ、とオレは警告した」

「それは聞いた。しかし、オレの商売は自分で護るしかない」

しばらく沈黙のあと、かもしれん、と山下がボソッといった。

食えない刑事だが、有能であることは認めざるをえない。

「一点、オマエに教えてやる。よく聞いとけ」

山下の口調が改まった。

「明日、県警と公安、合同で山に入る。先発隊として少人数が山に向かった。軍隊用語でいえば斥候、だ。その報告をうけて派遣部隊を編成する。それで本格的な出動は明日、ということになる。オマエたちも山に向かうんだろ?」

「ああ。先発隊に少し遅れるが」

「できれば、先発隊と出会いたくない、そう思っただろ?」

「そう。会えば追い返されるのは必定だろう」

「反対から入れ」

「え?」

「先発隊は通常のトレッキングルートから入る。今、地図があるか?」

ちょっと待ってくれ、とオレは受話器を置き、書棚から大縮尺の地図帳を取り出した。

あの神さびた土地付近の地図を広げた。


いいぜ、地図を広げた、と山下に伝えた。

「波動のキャンプ場所はわかっているな?」

「正確ではないかもしれんが、それほどの誤差はない」

「そこに行こうと思えば、どうする?」

山下刑事のの問いに、オレは素直に答えた。

車でJR幹線から伸びた枝線の終点、そこから登山口まで入る。

あとは歩きだ、と。

「そのルートで先発隊も入る。誰でもそうするだろうからな」

「うむ」

「そのルートはその土地の西側から侵入することになる。オマエたちが、先発隊に出っくわさないためには、東側から入るんだ」

地図を見ると、東側はその山地の脊梁、核心部分にあたる。

東から入るためには大きく南側へ迂回し、さらに廃道にちかい林道を北にあがり、そこから先は…地図ではよくわからない。

「どういうルートなんだ?」

「質問はなし、といったろ。第一、それくらい自分で調べるんだな。便利屋なんだろ、オマエは?」


そうだ。

そうだった。

迂闊な発言だ。

「すまない。情報に感謝する」

「ついでにもう一点だ。鼻の利く新聞記者が動き始めた。ネタ元は知らん。署内は厳重な緘口令だが、ひとの口に戸は立てられん。そこも考えとくんだな」

「しかし、山下刑事。なぜそこまで教えてくれる」

「定年前刑事の逆上ってこったな」

それだけいうと、電話が切れた。

「慌しそうじゃん」

ケンスケが顎を撫でながらいった。

「終章へ向かってカデンツア、ってことじゃないか」

オレは受話器をフックに戻した。

「それはないだろ。まだ終わりもなにも、始まってないぜ」

確かにそうだ。

ケンスケのいうとおりだ。

終わりがあるとしても、今は終わりの始まり、あくまでトバ口に過ぎない。

蠢いていたカオスが一点に向かって収束しつつあるように思える。

それも建設でなく、破壊。

徹底無残な破壊。

巨大なエネルギーが一気に弾けそうな気配だ。

その予感はケンスケにもあるようだ。

しきりに顔を撫でている。

「ケンスケ。おまえもなにか感じるか?」

「ああ。愉快な予感はたたねぇな。外人部隊の頃、乾坤一擲の白兵戦がおっぱじまる時のような気分だな」

「しかし、オレたちはオブザーバーのはずだぜ」

オレはハイライトに火をつけ、その火をケンスケにも進めた。

「傍観者ですむと思うか?」

「すませたいがな。オレたちも当事者とならざるをえないか?」

「わからんが、用心するにこしたことはない」

ケンスケはパッケージから取り出したセイラムに火を点けた。

「オレはオブザーバーで終わらせたいんだがな」

「和田さんはどうするだろう」

「わからん。暴走は身体を張ってでも止める」

「できるか?」

「できる、と思う」

「和田さんだぜ、相手は」

「わかっている」

そうか、といってケンスケは並びのいい白い歯を見せた。

オレと和田さんのことに気付いている、そう思わせる微笑だった。


ケンスケは新聞を広げて見ている。

やはり、文化面の波動の記事をじっと眼で追っている。

視線が最後の行を通過した。

読んだか、とケンスケがいった。

「ああ。学者先生のご高説はどうあれ、これから起きるであろうことを予言した名論文ってことになるんだろうな」

「ちがうね。そうじゃない」

「というと?」

「こういうテーマで書かせようとした、記者の慧眼さ。第一、このスペースを提供したのは、この新聞社だからな。つきつめればそれがミもフタもない事実だろうぜ」

「そういえば、山下刑事も、マスコミの一部が動き出した、といっていた」

「総じて、新聞記者なんてのはどうしようもない夜郎自大が多いけどね、たまにとんでもなく鼻とフットワークが利くやつがいる」

「いずれマスコミの大集合ってことになるだろう」

「ああ。すごいぜ、きっと。公安や警察もウカウカしていられない。ヤツラはマスコミに叩かれるのを極端に嫌う」

「習い性だ」

「だろうね」

「大騒ぎになる前に、収束させたいという公安のバイアスがかかるだろう」

「メンツってやつね」

「彼らのメンツが発露される前にカタをつけなきゃいけない」

ケンスケが沈黙した。

なにかを思いつめるような沈黙だった。

時間にすれば僅かだったかもしれんが。

ケンスケが口を開いた。

「有体に尋ねるけど、いったいカタをつける、ってアンタ、なにをどうしたらカタをつけることになるんだい?」

核心にいきなり、ナイフ刺しこめられるような問いだった。


さらにケンスケは追い討ちをかけるように続けた。

「そもそもの始まりは、川崎真知子が妹の真理子を波動から奪還してくれ、ということだった」

オレは頷くしかなかった。

「ところがその川崎姉妹は、いつの間にかつるんで神さびた土地にキャンプを拵えている。それも山下刑事の話だと、武装している可能性が高い。川崎真知子の依頼そのものが、すでに意味をなさないことになる。だって、姉妹一緒にいるんだ。奪還もクソもない」

「それじゃ何のためにオレたちは、そこへ向かおうとしているのか。オレたちは長田に吸い寄せられるような状態になっている。なぜか。長田が和田洋子と宮崎一平殺しの犯人だからだろ?しかし、それだけでオレたちがなぜ動かなきゃならないんだ。犯人を検挙する、それは警察の仕事、そうじゃないのか?」

「関わりたくないのか、ケンスケは?」

「いや。そうじゃない。興味はある。見届けてやろうじゃないか、そういう覗き見根性があることは否定しない。ただ…」

「ただ、なんだ?」

「オレたちが行動する理由は和田洋子の仇をうつために、和田さんを助力するため、そればかりじゃないと感じている」

「意味がわからんぞ」

「波動に引き寄せられるなにかがある、そう思えて仕方がない」

「オレは断固、波動のシンパサイザーではない」

「それはそうだろう。しかしアンタはなんでここまでのめりこむ。和田さんを愛しているからか?」

オレはウッとつまった。

「オマエさんが和田さんを愛していることはいい。和田さんは素敵な女性だ。そして和田さんの娘は長田に殺られた。だから和田さんを助けるためにオマエさんが、手を貸す。これもいい。しかし、それはオマエと和田さんの関係であって、オマエが川崎真知子から受けた依頼とは一切リンクしていない。そこなんだよ。オレが腑に落ちないのは」

オレは黙ってケンスケの言葉を聞いていた。


「なぜだろう、とオレは考えた。いまさら川崎真理子奪還はない。すでにアンタは報酬も手にしている。まさか川崎真知子が返してくれ、なんていうわけがない。いや、依頼したことすら忘れているだろう。じゃあ、なぜ川崎真理子がアンタに川崎真理子の奪還を頼んだのか」

そこまでいうと、ケンスケは空になった梅昆布茶の底を啜った。

「こうは、考えられないだろうか。川崎一族、ひいては波動をもって行われることのプロバガンダの尖兵にアンタが選ばれた、と」

「オレが?プロバガンダ?ピンとこねぇがな」

「本来のプロバガンダなら、合法的にはPR会社を使うなり、カンパニア活動であったり、あるいはネットで、ということもあるだろう。しかし、波動本来にある胡散臭さが、アンタに向かわせた、ということじゃないのか。要するに誰でもよかった。波動として、これから起こすことの同時目撃者を拵えておきたかった。そう考えると、かなりスッキリしてくる」


なんだ?

どういうことだ?

一体に、ケンスケという男、無愛想を絵に描いたような男だが、判断は極めて明晰だ。

ただ、意を尽くすのが面倒なんだろう、言葉を端折るくせがある。

こんなこと誰でも知っているだろう、と。

ところが、彼の思う「誰でも知っていること」が、前提として理解されないと、話が前に進まないのだ。


「よくわからんな、ケンスケ。もう少し説明してくれ」

うーん、どう説明すっかな、とケンスケは頭頂部を撫で続けた。

「じゃあ、とにかく思ったことを順に説明しよう」

ケンスケの説明はこういうことだった。


川崎真知子がなぜ妹・真理子の奪還を依頼したのか。

またそれをオレに依頼したのはなぜか。

こう考えると理屈が立つように思える。


そもそも川崎徳一を濫觴とし、真知子・真理子に連なる東アジア祭祀の統合という野望があった。

それは古代東アジアの民草に、日本海を中心とする環日本海文化ともいうべき交流があったはずだ、という思い込みに端を発している。

であるなら、今ある各国の祭祀も、その源を辿れば、必ず一つの本質にたどり着くであろう、と川崎一族は発想した。


その祭祀の源こそ、東アジア人民に受け継がれるDNAとも呼ぶべきものだ。

そのDNAを呼び起こせば、東アジアは西洋のキリスト教的合理主義支配から脱却でき、圧倒的な精神の楽土が建設可能であろう。

ならば、その祭祀を司る血を作り出さねばならない。

ために、川崎徳一は古朝鮮王族の末裔を、さらに廃宮家の血脈を川崎家に合流させ、川崎姉妹という一応の完成形をみた。

つまり祭司、すなわち教祖は誕生したのである。


次の段階は祭祀を組織化することだ。

有体にいえば宗教法人化することで組織を作り、文字化することで教義を打ち立てることだ。

川崎徳一の遺言がどのような形で徳永高男や文龍名に引き継がれたか、それは判然としない。

しかし、間違いなく今の波動という組織に反映されているに違いない。

さらに付け加えるなら、川崎一派は「東アジアに一貫して流れる祭祀の本質は波動という名で認識される」と踏んだのだろう。


文龍名らの働きにより、波動は次第に組織としての体をなし、徐々に勢力を広げていった。

ただし、文龍名も徳永高男も非合法闇社会からの転入だ。

組織の拡大に伴う軋轢や、強引な勢力伸張を支えたのは、彼らの経歴と腕力である。

無論、組織の維持発展には人もモノも金もいる。

人には宮崎一平という無垢な青年もいれば、長田のようなゴロツキもいる。

またヤミで秘匿したカラシニコフもある。

さらにインチキ科学で信者から巻き上げた金もある。


目的はただ一つ。

東アジアの祭祀を統合するということ。

その成就のために、川崎一派、すなわち波動は武装も詐欺も人殺しも厭わなかった。

一体、誰がなにを担うか、そんなことは埒外の話だった。


さて、これから先が想像の上に想像を載せた話だ。

今日の朝刊の記事にもあるとおり、波動は一定の力を得た。

しかし、世間で言われる波動はインチキ疑似科学であり、呪術であり、カルトでしかない。

まっとうな精神世界のものとは認知されないのだ。

川崎一派は焦った。

時間と心中してしまった。

東アジア祭祀の統合のために、地道な組織的活動を放棄し、組織戦略として一気呵成の道を選んだ。

つまり、キャンプを作り、武装蜂起をチョイスした。

銃口による撹乱。

左翼的発言をすれば前衛党を維持するのではなく、赤色テロルの道をチョイスした。

革マル派と赤軍派、あるいは創価学会とオウム真理教の喩えがわかりやすいかもしれない。


その決定が誰によるものか、そいつはわからない。

しかし、重要なのは、川崎姉妹がその蜂起に保険をかけようとしたことだ。

その保険とはアンタのことだよ、とケンスケがいった。


「オレ?オレが保険ってなんのことだ」

「わかっているんだよ、彼女たちは。いかに無謀なことをしようとしているか、が」

ケンスケはソファに座りなおし、続けた。


そもそも、この平和ボケ日本で、ライフルを乱射してなんになる。

これだからキチガイに刃物なんだ、と非難轟々になるのが関の山だ。

だったらやらなきゃいいじゃないか、とか聞いたふうなことをいうんじゃねぇぞ。

波動に計算できる人間がいても、大勢はリアリティをもって計算できない連中ばかりなのさ。

長田がいい例だ。

ああいった粗暴そのものが、のうのうと組織の一角を担いうる、そのこと自体をもってして考えてみればいい。

その体質がすべてに反映されているんだ。

もっともリアリストたるべき文龍名ですら、夜郎自大な跳ね上がり志向が蔓延しているんだ。


この暴発を第三者的視点で眺める目撃者が必要、そう川崎姉妹は考えた。

なぜか。

結末は破滅しか想像しえない、と判断したのだろう。

その破滅への道、事実経過を波動外に発言できる目撃者があってこそ、波動の目論見、存在意義が継承されるはずだ、と踏んだんじゃないか。

波動は東アジアの祭祀統合という崇高な理念に殉じました、と思われなきゃいけない、伝わらなければいけないんだ。

そしてその冷徹な事実を受容し、さらに止揚し、川崎一族の意志を継ぐ者を待つ。

いつか血が、DNAが、環日本海文化が亭々と聳え立つ構想が消えることはない。

またそうしなけりゃ祖父・川崎徳一に申し訳がたたない、そんな下世話な欲望もあったかもしれん。


目撃者は普通の人間でないほうがいい。

警察やヤクザモンは論外として、武器や殺人のからむ話だ。

少なくとも、そういう事態が出来しても、対応できる人間でないと目撃者足り得ない。

そこで選ばれたのがアンタ、鼠の旦那だよ。

選ばれた基準は、そうだな、タウンページでめくったら、たまたま最初に飛び込んできた名前がアンタだった、その程度だろう。

あるいは川崎姉妹に独特な勘があったのかもしれん。

しかしいずれにせよ普通で考えれば論外な話だ。

しかし論外であるがゆえ、カルトであるともいえる。


同時進行的に波動の武装化があったのだろう。

いまいったような背景で、どのような経過を経て武装化路線がとられたかはわからん。

わからんが、文龍名と川崎姉妹による専断だろう。

議論などカルトには必要でないからな。


さ、それじゃなぜ長田が連続殺人に走ったか。

簡単さ。

それが長田なんだ。

単に人を殺したい。

それだけなんだと思う。

根っからの犯罪者なのさ、長田はね。

誰でもよかったんだ、長田にとっては。

目前にある障害物を排除する、それだけさ。

宮崎一平でなくてもいい。

和田洋子でなくてもいい。

手を下すことにのみ興奮を感じるんだろう。

あるいは波動がもつ武装への衝動が、長田の性癖を加速したともいえるだろうがな。


「ふーん、それじゃオレは単に利用されていたいただけ、ってことか」

顎をなでながら、オレは呟いた。

「利用というより、目撃者に仕立て上げられたんだな、アンタは」

ケンスケは面白くなさそうに答えた。

オレは釈然としない。

確かにケンスケのいうことは、ある意味、正鵠を射抜いているだろう

しかしすべてがすべて、まん真ん中の肯綮にあたっているかどうか、オレには少し疑問だ。

オレはこう思っている。

波動は波動だ。

カルトだ。

はっきりいえば、連中は狂っている。

常識以前、無論、長田も含め単に暴発したいだけなんだ。

簡単にいえば、宮崎勤や宅間守の組織的集団じゃねぇのか。

だれでもいい。

なんでもいい。

破壊し、殺し、暴発する。

自らの存在証明のために。

祭祀や歴史だと?

ふん、笑わせるんじゃねぇ。

そんなもん、あとから取ってつけた屁理屈だ。

いま、この社会で満たされぬ鬱懐、普通なら、それとどうにかこうにか折り合いをつけるのだろうが、波動の連中にはそれができない。

いや、鬱憤晴らしをしたいだけさ。

そのあとは、どうなっても構わない、そんな発想なんだろう。


オレは黴臭い倫理観でできているのかもしれん。

なにか極めて重大なことが、人の中からスッポリ抜け落ちてしまっていると思えてならない。

自分自身は無謬である、と慎みを忘れ、自我が極限まで肥大化しているんじゃないか。

個性重視、とかいう耳あたりのいい言葉の下にな。

個性重視もよかろう。

ただし、前提は必ずある。

個性を支える常識や品性を磨いた上で、と但し書きが欠落しているんだ。

おのが欲求を野放図に満たすことが個性重視、なのか?

バカなことをいうな。

欲しいもの、やりたいことは必ず手に入れる、やる、手段・方法は問わない、これが今の個性重視だ。

おかしいだろうが、こんなこと。


それは若造だけじゃない。

いい歳をした年齢的に大人と呼べる年代ですらそうだ。

要するに果てしなく知的レベルが下がっている。

品性、常識が崩壊している。

つまり社会全体が幼稚を是とし、それをむしろ慫慂しているのだ。

幼稚イコール無垢純真というバカな通念が跳梁跋扈しているのだ。


卑近な例をあげよう。

ガキの給食費を払わねぇバカ親がいる。

生活困窮とか、ふむ、さもありなん、という理由じゃない。

給食を出してくれ、と頼んだ覚えはない、と。

そうか。

じゃあ、ガキに弁当持たせろ。

一切、給食には手をつけるな。

コンビニ弁当でも、カップラーメンでもいい。

カップ麺ならお湯くらい出してやる。

のうのうと食っておきながら、頼んだ覚えはないだと?

はっきりいうが、それは食い逃げという。

この国の政治はダメだと声高に悲憤慷慨するやつがいる。

確かに決して秀れた体制であるとはオレも思っちゃいない。

しかしだぜ、悲憤慷慨するやつに限って、この国の政治に期待しない、という。

期待しないなら、悲憤慷慨なんてやめろ。

ここはいい国だと思うところに移民なりすればいいだけだ。

あれも悪い、これもダメだ、それにいたっては論外だ、という。

じゃあ、聞くがな、それを選択したのはだれだ?

補助金と利権を手放したくないために、そのまま継承し、うまい汁にありつく連中を応援し、国政に参加させたのは誰だ?

オレを含めた、オマエだ、彼だ、つまり日本人じゃねぇか。

うまい汁のおこぼれにあずかろうとセコイ乞食根性を押し隠しつつ、したり顔で立候補者を応援し、選挙権を行使したのは誰だ。

それを棚に上げ、自らは無謬であり、悪いのは政治家であり、ゆえに政治には期待せず、選挙権を行使しても何も変わらない、と高みから見下すような言い草はなんだ。

フザケルナ、といいたね。

イヤだったら行動してみろ。

行動が面倒なら、はっきりノーの選挙権を行使したらどうだ。

それでも思うような政体にならんかもしれん。


でもな、それがこの国の民度とあきらめろよ。

それがルールだ。

少なくとも民主主義ということを選択した以上、ルールはルールだ。

それを了解した上で、悲憤慷慨するんだな。

まったく民主主義はクソだな、といえよ。

それならわかる。

でなけりゃ、きちんと権利と義務を行使しろ。

まったく「政治に期待しません」とヌケヌケとほざき倒すことが、ちょっとかっこいい大人の姿勢、ぐらいの発想なんだったら、やめとくんだな。

すぐにオサトが知れる。

いってるそばから「実はなにも考えていないバカなんです」ってのがバレバレだ。

薄汚くしか見えない、ということに気付けよ…といっても、気付かないからバカとしかいえんかもしれん。


あー、なんだかとりとめがなくなったな。

しかし、このへん、諸君も理解できるだろ?

果てしなくダラシがなくなってしまった日本人、そしてだらしのなさを是とする、文化。

それがおかしいといいつつも、だらしのなさを矯正するためにカルトに走り、殺人さえ辞さないという風潮。

どれもこれもなにか極めて重大なこと、それは日本人に限らず、人類が持ちえた叡智や、社会、他人に対しての真摯な態度、とにかく一切合財ふくめて、コアたる矩をないがしろにしているとしか思えない。


それはなぜか、というとだな、オレにも若干の考えがある…。

そのことを書こうとしたときだ、おはよう、という爽やかな声とともに、和田由美子が現れた。

いかん。

先を進めるぜ。

オレの考えはいずれ書く。

しばらく待っててくれや。


由美子もオレと同じく、登山用のウェアで固めている。

厚手のチェックのウールのシャツ、ポリ混の丈夫そうなパンツ、ハイカットの軽トレッキングシューズだ。

手にゼロポイントのバックパックを持っている。

「ああ、おはよう」

自分の挨拶に微妙な揺れを感じた。

セックスのあと、放ちっぱなしでグースカ寝込んでしまった自分をオレは恥じている。

その心の揺れが反映されているのだろう。

ケンスケも気付いたかもしれん。


和田由美子の顔はこれ以上ないくらい爽やかに見えた。

化粧っ気はまるでない。

ルージュすら引いていない。

「あら、ケンスケさん、もういらしてたの」

「うん。ぼくは遅れるのが嫌いでね。五分遅れるより、一時間早いほうがいい、という習い性なんだ。外人部隊で徹底的に仕込まれた。それに梅昆布茶も飲みたかった」

「あら、そう。いい心がけだわ。約束におくれるなんて、アクシデントなら別だけど、いい大人のすることじゃないわよね」

その通りだ。

オレもそう思う。

「でも、和田さん。今日はスッピンかい」

「そうなのよ、ケンスケさん。みっともないけど、許してね。山に入るのにいちいち気にしてたんじゃね、ご迷惑になっちゃうでしょ」

「そんなことないよ。和田さんって、昔からほとんど化粧っ気がないしさ、それにもともと輝くような知性が感じられるもん。一段とすっきりしてるよ」

「ありがとう。お世辞でもうれしいわ。じゃあ、お茶でもいれましょうか、まだ時間もあるし」

「お、いいな。和田さんのお茶はうまいんだ。このオッサンのがさつな味とは全然ちがう」

ケンスケの頌辞に由美子ははにかんだ。

「ああ、それは認める。同じ茶葉を使ってもこうも違うのか、と思うな。茶の入れ方にはきっと天才性がいるんだ」

「おやおや、あなたまでどうしたの。今からのことで昂ぶっていらっしゃる、とか?」

「いや、事実を述べたまでだ。とにかくおいしい茶をいただこうじゃないか」

和田由美子が流し場に引き込んだ。

じっくりと淹れる上等な茶葉の豊かな香りが満ちてきた。

これだ。

これだよ。

コーヒーが苦手なオレにはたまらなくいい香りだ。

全身の緊張がほどけるようだ。


由美子が盆に茶を載せて運んできた。

やや大振りな茶碗に淹れてある。

たくさん飲みたい気分なんでしょ、といい添えてテーブルに配した。

若干、小さめの茶碗は由美子用だろう。

それぞれの位置に適当に腰掛け、茶を啜る。

あれは、なぜなのかな、うまい茶を啜ると、必ずフーッと溜息が出る。

温泉に浸かった瞬間に出る「ア、ア、アーッ」というオノマトペと一緒だ。

オレとケンスケは同時にフーッと溜息をついた。


「そうだな、この茶を啜り終えたら、出るとするか。少し早いかもしれんが、全員そろったしな。どうだ、ケンスケ」

「ああ、そうしよう」

由美子も、顎を引いて、賛意を示した。

茶を啜り終わり、片付ける。

倉庫代わりに借りている別室のカギを開け、ミネラルウォーターをワンケース引き出した。

整理が行き届いているのは、由美子のおかげにほかならない。

ミネラルウォーターにしたって、オレが用意したんじゃない。

由美子が、こういう備えは必ずいるものよ、と用意しておいてくれたのだ。

ミネラルウォ−ターの横には、アルファ米や乾燥食品の数々が段ボールに詰めてある。

オレが乾燥食品、ケンスケがミネラルウォーターを事務所の扉の外まで運んだ。


ざっと部屋を見渡す。

特段、見落としはなかろう。

留守電もセットした。

不要な電源も落としてある。

灰皿もきれいに始末した。

いいかな、これで、とオレは由美子とケンスケを見た。

二、三度二人は頷いた。

「よし、じゃあ行くか。ケンスケ、ミネラルウォーターを頼む」

ケンスケはミレーのバックパックを背負い、ミネラルウォーターのケースを軽々と持ち上げると、階下へ降りていった。

オレもグレゴリーのバックパックを背負い、乾燥食品の入った段ボール箱を持ち上げた。

腕が痛かった。


扉のロックを由美子に頼み、階下へ下りる。

駐車場のカローラまで歩きだ。

こういう田舎でもダウンタウンに駐車場を見つけるのは骨が折れる。

カローラも事務所から歩いて五分ほどかかる場所に置いてある。

数十メートル先を歩くケンスケを追って、腕の痛みを我慢しながら歩いた。

直後に、バックパクを背負った由美子が続いた。


駐車場のフェンスをまがり、一番奥のカローラに近づいたときだ。

ケンスケが誰かと話している。

誰だ、あれは。

そのその男はオレたちと同じような服装をしていた。

いわゆるアースカラーのアウトドア系というところか。

帽子はかぶっていない。

シャツの上からのぞく頑丈そうな首の上に乗っかている頭は、短く刈り込まれている。

しかし日焼けしていない、妙な白さがある。

一体、誰だというんだ。

オレは不審な思いを抱きながら、二人に足を近づけた。


驚いた。

ちょっと待てよ、ウソじゃねぇのか?

次の一歩を踏み出したとき、オレは間違いないと確信した。

オレのことに気付いたのだろう、その男はオレの方を振り向き、白い歯を見せて笑った。

確信は誤っていなかった。


「マリー。なんでこんなとこにいるんだ」

オレは素っ頓狂な声をあげた。

「え。マリーさんって…、あら、いやだ、ほんとにマリーさんじゃないの。どうなさったの」

由美子もキツネにつままれたように、目を丸くしている。

「陸上自衛隊・第一混成団・予備役・丸田二等陸曹であります」

敬礼とともに、マリーが決然、いい放った。

そのあと、照れたように耳のあたりをかいた。

「丸田って…マリーの本名か」

「そうだ。丸田の丸をとって、みすぎよすぎの商売にはマリーと名乗っている」

「しかし…なぜ、マリー…いや、丸田陸曹がこんなとこにいるんだよ」

「ああ、そのことはいまケンスケからも聞かれている。どうせ同じことをオマエも聞くだろうと思ってな。何度も同じ説明をするのが面倒でね、アンタや由美子さんが現れるまで待ってたんだ」

マリーは手に持ったペットボトルのお茶を一口含んだ。

「気紛れさ、おおかたね。ここ何日かの店でのハナシ、アンタやケンスケ、由美子さんに山下刑事、そんなハナシを聞いてたら、陸自あがりの血が滾ってきたってことだな、多分。ここ久しく飛んだり跳ねたりしていないんでな、演習の後の爽快感を味わいたいと思ったのさ」


ホントかい、とケンスケがいった。

「ああ、そうさ。ケンスケなら余計にわかるだろ。時に憤怒のようなパトスが迸る瞬間を。理屈じゃないんだな、これは。頭でなく、手と足を使い、背筋力でしのいでいく瞬間瞬間の積み重ね。あー、オレは生きているとおもえるもんなんだ。そうだろ、ケンスケ?」

その問いにケンスケは無言で頷いた。

「しかし、マリー。改めて聞くがその格好から推察すると、まさかオレたちと同道しようってんじゃないだろう」

「いや、そのまさか、だよ。同道するつもりだ」

「なぜ」

「何度もいわせるなよ。行きたいから行く、それ以上でも以下でもない」

「理由は?」

マリーはどうしようもないな、という意味をこめるように、下を向いて頭を振った。

「行きたいから行くんだ。それ以上の意味はない。だから髪も朝一番に切った」

確かに、マリーの頭髪はバッサリ切られている。

坊主頭に近い。

年相応に白いものが混じったごま塩頭だ。

だが、しかし、とオレがいいかかったのをマリーは手で制した。

「ガチャガチャいいっこなしだ。野外を飛び跳ねる訓練は、ケンスケにはかなわないかもしれんが、アンタなんかより、はるかに上だ。なんといっても、オレには実戦経験がない。演習場で実包をブッ放した程度だからな。キワになればケンスケのような動きはとれんかもしれん。しかし、役にはたつぜ」

「役に立つ、とは?」

「おいおい、いまさら空っとぼけるなよ。波動のキャンプに乗り込むんだろ?まさかオマエたちが波動とコトを構えなくても、警察や公安との揉め事に巻き込まれるのは必定だ。それを予想するが故の格好だろ?オマエもケンスケも由美子さんも」


日差しが強烈になってきていた。

マリーはもう一度、ペットボトルの茶を一口飲んだ。

「ケンスケの段ボールはミネラルウォーターだな。それにオマエが持っているのが乾燥食品ってとこだろう。だめだ。そんなんじゃ。オレが用意した。これだ」

マリーが首を倒してカローラの後ろに置いてある段ボール箱を示した。

それは引越し用の段ボールがガムテープで閉じられている。

「なんだ、これ」とオレは問うた。

「ケンスケなら大体察しがつくだろう」

マリーがケンスケに向かっていった。

「レーションだろ、それ」

「ご明察。本来的に自衛隊がレーションを払い下げることなはいのだが、ちょいと昔の仲間に無理をいって譲ってもらった」

「なんだ、レーションって?」

「ああ、簡単にいや、軍用の野戦食料だな。嵩張らず腹が満たせる。いってみりゃ、野外戦闘ってな究極のアウトドアだからな。がちゃがちゃコンロなんぞを持ち歩かなくてもいいようになっている」

「となると、きっとひどいクソのような味がするんだろうな。うまいまずいをオレはあまりいわんが、どうもな…」

「と、思うだろう。確かに昔はひどかった。食事というより、単にカロリー補給だけというシロモンだった。食えたモンじゃなかった。米軍のCレーションなんて、犬だって食わんぜ。ところが今はてんで違う。確かに料理屋で食べるもの較べちゃいかんが、それなりに気が配ってある。特にな、自衛隊のそれは、日本人向けに相当研究してある。五目鶏飯なぞ、特にうまい。ケンスケんとこじゃ、どうだった?」

「フランスだからね。なんとワインも付いていた。これがレーションか、とすら思ったね。もっともイタリア軍なんてな、専用のコックがいて、アルデンテのパスタが出る、と聞いたことがある。いい、悪いは別にしても、それが国民性ってやつかな。しかし、それじゃ、負けるぜ、とも思ったけどね」

「いいじゃない。面白そう。そういうのって興味本位だけど、食べてみたいわ」

由美子が無邪気にいった。

「まあ、いい。トランクに放り込んでりゃいいんだから。どうせ、マリーだって、来るな、といったところで、自分の足ででもくるだろう」

オレは言葉を区切ってマリーを見た。

マリーはさも当然といわんばかりに、頷いた。

「よし。じゃ、全部トランクに放り込め。4人分だ。十分、収納できるだろう」


それぞれにミネラルウォーター、乾燥食品、レーション、バックパックを詰め込む。

ケンスケがキイを握って運転席に滑り込んだ。

オレが助手席、後席にマリーと由美子が座った」

「大きく迂回して山塊の南東から入らなきゃならない。今からだと…5時間、ってとこかな。よーし、じゃ、行こう」

カローラがその薄汚れたボデイを動かし始めた。







夜の闇の底に、少しだけ光の胎動が見え始める頃、長田は目を覚ました。

乾電池式の明かりが、わずかにテント内を照らしている。

周りのコットには若い波動のメンバーが熟睡していた。

音を立てぬよう、静かに長田は身を起こし、自分のバックパックを手にした。

隣には、ちょうど似通った体型の若者が寝ている。

長田は若者がコットの脇に脱ぎ捨てたブーツとソックスを失敬した。

そろそろと這うようにしてテントの外に出た。

テントから漏れ出るかすかな光を頼りに、ソックスとブーツを履く。

西村が処置してくれたプレートのおかげだろうか、思ったより簡単に履くことができたし、なによりサイズがぴったりだった。


足が軽くなると、気分もいい。

長田はそのまま、武器庫ともいえるテントへ入っていった。

そこも電池式の保安球が頼りない光を放っていた。

カラシニコフと実包が整然と並んでいる。

長田は一番手前に置いてあるカラシニコフと、弾装マガジンを数個取った。

マガジンの一個はカラシニコフに装填し、残りはバックパックに放り込んだ。

さらにライフルのセレクターがセイフティになっていることを確かめた。

テントの隅にペットボトルのミネラルウォーターとチョコレートバーがあった。

ついでにそれらも頂戴し、バックパックに放り込む。

代わりにサバイバルナイフを取り出し、腰に佩いた。

バックパックはそのまま背負う。

同様に、カラシニコフをたすきがけに肩に下げた。


長田はニヤリと笑った。

おう、こりゃ正真正銘の兵士だぜ、それもとびきり上等のな。

オヤジも満州じゃきっとこんな風にキリッとしてたんだろう、とほくそ笑んだ。

さよう、長田の父親は、川崎徳一や滝川順平を徹底していたぶった上島上等兵なのだ。

それが戦後の長い空白のあと、この神さびた土地で邂逅している。

川崎と上島・長田の上下関係は逆転こそすれ、戦争という狂気、カルトという狂気、いずれも常識では推測不可能な空気の中で、である。


闇に目を凝らし、長田はそろそろと川崎姉妹のいる神域へ向かった。

ヒモロギで結界を囲繞した無垢の杉材が白く浮かび上がっている。

その切れ間、出入り口のところに、あの男がいた。

川崎真理子を訪ねたとき、オレに舐めた口をきき、あまつさえオレを張り飛ばした野郎だ。

連日の緊張のせいか、杉材にもたれかかり、座り込んだまま寝ている。

コイツとケンスケだけは赦さねぇ、長田は怒りを反芻し始めた。


腰に佩いたサバイバルナイフを手にし、さらに足音を消してその男に近づく。

男はまったく気付いていない。

闇の底が少しづつ明るさを回復している。

急がねば、と長田は思った。

男の前に長田は仁王立ちになり、見下ろした。

サバイバルナイフの切っ先を男の左胸に当てる。

その瞬間、男は目を覚ました。

ぼんやりと開けられた目が、今の状況を徐々に察知したようだ。

カッと男の目が開かれ、何かをいおうとした。

刹那、長田はサバイバルナイフに全体重と膂力をこめ、男の胸を刺し貫いた。

男は一言も発することなく、崩れ落ちた。


弾かれるように長田は立ち上がり、男の襟首を掴んだ。

そのまま引き摺り、出入り口と反対方向の森へ向かった。

サバイバルナイフは突き立てたままだ。

刃渡りのほとんどが、男の左胸に入っている。

ここでサバイバルナイフを引き抜こうものなら、一気に大量出血してしまう。

血溜まりを残すような真似はしたくない。

しかし、男の左胸は血で染まりつつある。

血の染みは暗さに当面は紛れるだろうが、発見されないにこしたことはない。

長田はありったけの力をこめて、男の死体を森の中へ引っ張り込んでいく。


森は獰猛なほどに広葉樹が繁茂している。

一歩中へ入ると、夜明け前の僅かな光はまったく届かない。

長田みずからの夜目だけが頼りだ。

錯節した根や枝に何度も遮られながらも、長田は男の襟首を掴んだまま、強引にヤブをこいでいった。

ライフルとバックパック、それと死体の重さに息があがり、ゼイゼイと肺がなりだすと、長田はそこで止まった。

なにがなんでも死体を隠さなければならないことはないのだ。

どうせ夜明けとともに、なにかとんでもないことが始まる。

暫くの間、この死体が発見されなければいい。

闇もずいぶん明るくなってきている。

ライフルとバックパックを地面に置くと、足元のわずかな窪みに男の死体を蹴りこんだ。

サバイバルナイフの突き立ったシャツの胸あたりは、血で染まっていた。

男の目が恨めしげに開かれていた。

長田はその目に向かい、唾を吐きかけた。

死者を冒涜するえげつない快感だ。

さらに手近な枯れ枝や落ち葉をかき集め、死体をカモフラージュする。

まあ、いいだろう、こんなもんで。

こちらから見ても、波動のキャンプはまったく視認できない。

それなりの距離を運んできたのだろう。

うまい具合に、死体を引き摺った後もハッキリしない。

なにもかも好都合だ。


長田は蓬髪を掻いた。

バックパックからミネラルウォーターを取り出し、一気に半分ほどを飲んだ。

それまでの異様な喉の渇きがとまった。

さらにチョコレートバーのパッケージを破り捨てた。

うまいもんではないが、腹の足しにはなる。

立て続けに二本、腹に収め、残りのミネラルウォーターを流し込んだ。

ペットボトルはバックパックに戻した。

どこかの湧き水で補給せねばならぬだろう。

波動のキャンプに戻る気はない。

暫くは高みの見物だ。

それから、いずれ折をみて、川崎真理子と話をしなきゃならん。

拒否したら?強引に犯してでも話をするさ。

オレを舐めるヤツは赦さねぇんだよ。

長田の顔が凄惨に歪んだ。







書きたまり次第、続きをアップします。

書きたまり次第(30枚前後)、順次、掲載していきます。

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