逃避行
肩に担いだ女は途中から気を失ってしまったようで、周が早朝陽が昇ると同時に処刑が執行されたことを考えれば今は日没直前と言った辺りだろう。
と言うのも処刑場所周辺は民家などが多く、すぐに見つかってしまうだろうと危惧したからだ。それに比べれば今いる場所は人通りも大通りから外れれば少なく見るからに粗暴の悪そうな連中が目に付く。そういう意味では木を隠すなら森の中ということだ。
だが、周の知っているようなスラム街とは多少趣が異なる。というのも見た目が粗野というだけで、それは外見に限った話だ。細い路地裏から行き交う人々を観察しているが、薄汚れた格好は今まさに仕事帰りだと言った風体である。
身体付きもがっしりとした者が多く。時折見える鎧姿の一団はこの国の兵かと身構えもしたが、どうやらそうではないらしい。
武具という面では共通しているがそれ以外の色や形状など一致する箇所は少ない。処刑上で警護していた兵士たちと比べると統一性がなかった。
逃走中に屋根の上から周囲を見渡してみたが、どうも時代的にかなり古く感じる。木造建築が並んでいる中で何の石なのか綺麗に舗装されていたし、辺りが暗くなると同時に淡く光り出した時は未来にでも来てしまったのかと錯覚したほどだ。
外から見える酒場の看板は木造りなのに対して中の灯りは火とも違う。かと言って電線が通っているわけでもない。白色の光がどこもかしこも常灯しているのだ。
極めつけは麻のようなきめの荒い外套を羽織った者の手には杖が握られていたことだろう。それも老年ならばまだわかるが明らかに20代ぐらいの青年がだ。
それが一人や二人ならばまだ奇人として見られただろう、しかし、観察している限りではざっと20人ほどが通って行った。
周は記憶を呼び起こす。生前に似たような話? いや物語り? どこかで見聞きしたような世界だと……。が、記憶のどこをどう遡っても薄らとぼやけるだけで鮮明に思い出せることは僅かだった。知識としては持っていても、どこで? という場面が思い出せない。
繰り返してきた死があまりにも長過ぎたために周の記憶は摩耗し擦り減っていた。鮮明に思い出せることは一番最初に殺された時だ。それだけは忘れたくても忘れることができなかった。
ただこれだけは確信していることがある。ずっと、遥か昔に……それこそ自分が死ぬ前の世界では有り得ない光景には違いない。
「はぁ~知らない世界、か」
今は自分の身体、正確にはシオンという身体に何が起きているのかを確認しなければならないが、ここが安全だと決まったわけではない。
そもそも罪人を逃がして追手を送らないなんてことは常識的に考えて有り得ないだろう。ならばまだ国内にいると思われるここも安全ではない。
だが、
「どこに行けばいいんだ」
壁面に腰をドカッと落として長い前髪をクシャリと握った。不安も恐れもないのにこれほど焦燥感に駆られるのは未だに意識を取り戻さない女にあるだろう。
罪人の逃亡を手助けしたのだ。彼女だけは逃がさなければならない。それでこそ何の気兼ねもなく復讐に徹せられるというものだ。
「ウッ…………」
「おい!」
見たところ外傷はないにも関わらず女は痛みに耐えるように苦痛に顔を歪めた。見れば額にも汗がびっしりと張り付いている。
周は何か拭く物、いや水だけでもあれば……。
そう思った時逃走中に近くで噴水のような物を見た気がした。ただそこは大通りに面しており人が多く行き交う場所だったため、近寄らないようにしていたが今は陽も沈み辺りに帳が降りようとしている。酒場などが多く未だ通りには仕事終わりの者が今日の成果など一日の収穫を交わしている。
それでも周は今ならば昼間よりは見つかる可能性が低いと見て動き出した。女を見つかり難い酒樽の後ろに動かし、すぐに戻ると告げて見つからないように裏路地を方角だけを頼りに向かう。
見れば自分の身体もべっとりと血がこびり付いて固まっている。相当酷い顔なのだろう。いくらこの辺りでは綺麗な身なりをした者がいないとは言え周のような浮浪者同然のみすぼらしい格好の者もいない。
ましてや血は固まったとは言え、見る者が見ればすぐにわかるだろう。自分でさえ血臭が漂いそうだと思っているほどだ。
そして急ぎながらも十分な時間を要して着いた先には目論見通り噴水があった。ただ今は噴水としての機能を果たしていないが、中には十分な水が溜まっている。
まばらな人が途切れた隙を付いて周は一気に近寄った。そして水の中に頭を突っ込み勢い良く振る。これだけでは到底落ちるはずもないが、悠長に洗っている時間もない。
そしてバサッと水飛沫を上げながら勢いよく頭を水から引き上げた。
「――――!!」
月明かりを照らし、水面を映し出す。そこに映っていたのは周……ではなくこの身体の元の持ち主であるシオンと呼ばれた男の見形だった。
「これが……」
自分の顔の形を確かめるように手を這わせてみる。当然何人もの身体へと乗り移った周には元の顔立ちや身長なんて覚えているはずもない。
だというのに……。
中性的な顔立ちに右目の下にある涙黒子、歳は20代手前? ぐらいだろうか。どちらにしても周にとってシオンの顔は不思議と違和感を感じさせなかった。
一拍ほど見惚れてしまった間に背後から聞こえる足音に焦りを感じた周はボロボロになった袖を引き千切った。力を加えたわけでもなく簡単にほつれるように破けた布は硬く割れてしまうそうでもある。
それを水の中に入れ擦り合わせる。どれほど吸っていたのかというほど水を黒くした。絞ることもせず周は急いで元の場所まで走った。
布はまだ血を完全に落として切れていなかったが、拭くだけならば問題ないだろう。これしかないのだから我慢してもらうしかない。
帰りは気持ち急ぎ足になっていたのだろう。それは結果として後悔せずに済む。
「お嬢ちゃん、こんなところで寝ていたらダメだぜ。ほれ、おじさんが良い場所に連れて行ってあげるから」
そんな下卑た声音が裏路地では良く通った。男が3人、薄手の軽装で身体付きは見るからに筋骨逞しいといった具合だ。腰には剣がぶら下がっている。頬が赤く上気していることからも酒を煽ったのかもしれない。
周はすぐにでも姿を見せるのが普通だと思いながら身体は不思議と路地の影から男たちを観察していた。腰に刺さっている剣の握りは擦り減っており、日頃から使っていることがわかる。
そして気になったのが男たちの立ち位置だった。狭い路地裏でもちょっかいを出す男を挟んで横に一列に並んでいる。
酔っているのかもしれない、しかしそれが意識しての行動ではないにしても常に警戒を怠らない、怠れない職業なのかと思われた。ただ手慣れているとも言えるが、どちらにしろただのチンピラにはできない位置取りだと周の脳は弾きだしていた。
何故その考えに至ったかを周は意識することができなかった。彼女に危害を加えようとする男たちへの怒りが冷めた思考の奥で燻り次に控えていたからだろう。
「指一本でも触れてみろ。二度と触れない身体にしてやる」
凄まじい形相を濡れすぼった前髪の隙間から覗かせて男たちの前に姿を見せる。