始まる戦慄
陽の光さえも朱色に染まっているかのように辺りを照らし出していた。
十名ほどいた兵士も今は地に足を付けてはおらず地べたに……一人の狂人に平伏しているように骸となって地に伏している。
真っ赤に染まった赤い地面。鼻を付くほどの血臭、その中心には長髪故に顔を隠した男がいた。
掌を上空に向け、掬ったように平に溜まった血が逆さにされ重力に従って手の椀から零れ落ちる。
「神と言うからには世界の創造者なんだろ? 俺が全てを壊してやるよ……ククッ」
「ヒィィィ……!!」
シオンの姿は天を仰ぎ宣戦布告する光景だった。血液を足蹴に神の創造物を蹂躙する反逆の証。
漆黒の長髪は赤黒く血染めされ、身体は血で洗い流された。
周はそれが神の逆鱗に触れることを信じて高笑いする。
「まだだ。まだ、終わっていない……」
仰ぎ見ていた顔が不気味にコキッと首を鳴らしながら激痛に苦悶している司教へと向く。
しかし、その時民衆の立ち入りを禁じる柵の外から中へと入ってくる兵士が視界に入った。雪崩のように背後からも無数の兵が抜身の剣や槍を携えてあっという間に包囲する。
そして周はぐるりと見渡すと片目を限界まで見開いて不気味に嗤った。
「そうだ。そうだ、良いぞ……もっと、もっと俺に復讐をさせてくれ…………だが……」
兵たちが距離を詰める前に一瞬で司教の元まで一直線に兵士を瞬殺する。素手で千切っては貫いた。移動すると無様な悲鳴と荒い呼吸を繰り返す司教の襟を掴んで鷹揚と元の位置まで引き摺っていく。
何が起こったのかすら兵士たちはすぐに理解できない、結果として周は来た道を兵士の死体を踏みながら揚々と戻った。
「誰かあぁぁぁ、嫌だ、嫌だ、やめてくれぇぇぇええぇぇ……」
「ふ~ん、ふふ~ん♪」
周は終始ぺたんと座り込み、その顔を怖気で固まらせている女の近くまで近寄る。
彼女の傍には吐瀉物があり、瞳孔が定まっていない顔で俯き気味に身体を抱いていた。
彼女は命の、魂の恩人だ。さすがの周でも恩を仇で返そうとは思わない。ただこの復讐だけはやめることができないし、そのつもりもなかった。
彼女には悪いと思う一方でこの幕をまだ閉じるわけにはいかない。
そして兵士が包囲を縮める前に片手で司教を持ち上げて人質だと分からせる。
「た、助け、助けてくれ。私が悪かった。つ、罪はと、問わない」
掲げた司教が血迷ったことを口走った。周にはそう感じたのだ。
だから、折れた脚が地面に着く所まで降ろし、顔の位置を同じ高さにすると――背後から耳元に顔を近づけた。
「ハハッ、ダ~メ! お前が助けを請うのは俺じゃなく神だろ? だったら助けを求める相手を間違ってるぞ」
耳元で囁かれた冷徹な言葉は先ほど司教が自分の口で発した物と同種の宣告である。ただ彼には罪人を裁くという大義名分があった。例えそれが必ずしも裁かれなければならない罪だったのかは別の話だが。
神の代行者もまた人の子だということだろう。純白の法衣は見る影もなく汚れ、汚水で濡らしていた。足を伝って流れる汚水に周は不快な顔を浮かべた。
そして血が混じった唾を吐き出すと、醜悪な笑みは一変して憎悪に彩られた顔でま再度司教の耳元へと顔を近づけ。
「神に対して最も背信となる行為を教えろ……そうすれば……」
その顔は狂気に狂った顔でもなくただ冷たく肝を冷やす表情だった。前髪で表情はわからないが彼の血走ったような目が髪の隙間から司教へとギロリと動く。
その言葉は司教にとって諦めかけた命が瀬戸際で首の皮一枚で繋がると思わせた。それこそ神の思し召しにも等しい救済の手段だったに違いない。
ただ、彼は本当のことを言うべきか一瞬迷った。本来ならば何を指し置いても告げ、助かる選択をすると断言できたはず。
ならば司教を言い淀ませたのは伝えることにより自分の命を危ぶんだからだ。
しかし――。
「でたらめを教えたらこの場で殺す。じっくりと殺す……が、教える気があるのならば俺はそれに応えよう」
この一言で司教は自分に選択肢がないことを覚る。嘘を付くにしても足の激痛は思考を妨げ、命の危機は本能的な救済に忠実だった。
助かる道を提示されているならば否応もない。例え周が嘘を付いていたとしても司教にそれを勘繰るだけの余裕はなかったのだ。
「ク、クルストゥエリア様は万物の創造神にあらせられる。故にその信徒を……信徒の命を奪うことは大罪とされているの、だ。我々は神の名を一時的に借り命を奪うのではなく天へと返す」
「随分身勝手な解釈だな」
「信徒とはそういう物だ。本当だ。こ、これ以上は関わらない。だから……」
必死に懇願する声に周囲を取り巻いた兵も慌しく強引ににじり寄る。
そこへ突き付けるように片手で持ち上げられた司教が人質として更に浮く。
「ま、待て、お前たち下手に手を出すんじゃない!!」
「そうだ。良し教えてくれた代わりに俺も応えよう」
安堵するのが背後からでもわかる。ホッと胸を撫で下ろした瞬間だった。
持ち上げていた手が司教を放し、僅かな浮遊感は刹那というひどく短い解放として終わりを告げる。
「ガッ!!」
ビクッと司教が身体を跳ねさせると口からゴポゴポと血が溢れかえった。司教が不思議な顔で身体の一部を見降ろす。酷く熱いその胸から鮮血に染まった腕が生えている。
「「司教様ッ!!」」
風前の灯の中で司教は「何故」と溢した。
「何故? 俺は応えただろう。お前を殺すことが神への背信へとなるなら俺はそれに応えたまでだ。それになぁお前からは臭いほど匂うんだよ。濃い死の匂いがな……助からねぇ~よ」
人質の価値がなくなった司教にもはや兵士たちを押し留める材料はない。
周はぞんざいに司教から腕を抜き、そのままゴミのよう放った。
「ハハハッ! たまらない、爽快だ。痛快だ。全員皆殺しだ! …………と、言いたいところだが」
周は確かに一時のボーナスステージのようにこの僅かな時間での復讐を成し遂げた。しかしだ、この力を用いれば一時が延びると確信を得ている。
だったら徹底的に報復することができる。それは永劫続く繰り返しの地獄への返礼ができるというものだ。何よりも、寸前で周は躊躇った。
復讐よりもまたあのループに身を任せてしまう恐ろしさに。
この時間を与えてくれた彼女だけは救う責任があるのだろう。その力が彼にはあるのだから。
振り返れば身体を抱くその女は顔を苦痛に歪めていた。
「――――!!」
襲い掛かってくる兵を顧みず周は女の前で腰を降ろし、背中に手を添えた。
「おい! 大丈夫か、傷を負ったのか!? チッ、こいつら全員殺すか」
キッと睨み付ける周に兵は破竹の勢いを殺された形となり身体を引く。
全員を殺す覚悟決めた周は立ち上って拳に力を込めた。
しかし――。
「ま、待って、違うの……私は大丈夫……だから、逃げて……」
胸の辺りを苦しそうに掴み、もう片方の手で周の袖を引っ張る。
感謝してもしきれない恩人に何かあれば周は後悔するだろう。最初はただ自由になれた解放感と復讐心に身を任せていたが、それもほんの少しだけ生き長らえたと思っていたからだ。そんな僅かな時間ですることは復讐以外にない。ただ、その時は安直に殺すことだけだと決めつけていたが、彼はこの世界のことを何も知らない。神への復讐や自分をまたあの地獄へと落とそうする者には死を以て贖ってもらうが誰彼構わず殺すのは彼のしたかった復讐に反するように思われた。
そう、それも今となって初めて気付ける思考である。
どういうわけか他を圧倒するだけの力が備わっているのならば恩人の身柄は優先度として復讐の次くらいに並んでも不思議ではない。
少しは気を晴らすこともできたのだ。
「そうか、助けられておいてあんたを見捨てるほど、何も感じないわけじゃない。あぁ感じれて良かったよ」
語尾に向かって小声になり消え入りそうな声量だったが、意図は彼女にも伝わったらしい。
「私はいいの……あなただけでも……」
「そうはいかない。命の恩人を見捨てていいはずがない」
これ以上の問答を無駄と見た周は彼女の言に耳を貸さずに強引に腰に手を回し肩に担ぐ。
「逃がすな!!」
逃走すると見た兵士たちが怒号を上げながら全方位から襲いかかる。
ドンッと地面が揺らいだのはその時だった。
彼らから見れば周はシオンという大罪人である。その男が地面に向かって足を振り下ろしただけだ。しかしその衝撃は予想を超え地震を思わせるほどの揺れを引き起こした。兵士たちの足元にまで迫って陥没する衝撃に兵はたじろぎながら体勢を維持しようと腰を屈めて思考を足元に集中する。
その隙を付いて周は女を担いだまま大きく跳躍した。それこそ兵の頭上を軽々と飛び越えてしまうほどに。
周には身体の性能を把握できていた。どこまで出来てどこまでが出来ないのか。ただ、出来ないことと言う上限については皆目見当もつかなかったが。
そしてふと周は空中で振り返った。一緒に処刑された残りの3人の姿を。
もうすでに事切れていることだけは確かだろう。女が1人いた、司教は仲間だと言っていたが当然周に覚えがあるはずもない。
この身体の持ち主が入れ替わる前の仲間だったに違いない。どんな罪を犯したにしてもシオンという身体を使っている周も無関係ではないだろう。
逡巡すらない一瞬のことだ。それほど感慨深くなく、すぐに意識を戻す。そんなことよりも今は彼女を落とさないように力加減に気を配るだけで精いっぱいだった。
屋根まで跳び移り一気に距離を離す。
これからこの身体で復讐していかなければならないのだから、周はシオンとこの女に内心で感謝を告げ「少しだけ身体を借りる」とも付け加えた。
呆然と未だ中心に視線を固定していた兵たちは完全に見失っている。揺れの後、油断したとばかりに敵を補足しようとしたときのことだ。
そこに二名の犯罪者の姿をすでになかった。全員が一斉にシオンを探すために慌しく首を振り、その中の何名かが遥か遠方の屋根を跳び移る姿を辛うじて目視していた。
到底今から走ったのでは追いつける速度でも距離でもない。呆然と指示を出そうとした兵士の一人が遠方に視線を据えていると、背後から一層のざわめきが起こり、兵士たちは振り返って目を剥く。そして次々に膝を屈して頭を垂れた。
「やはりこうなりましたか……」
凛と鈴が鳴るような声に誰もが息を呑み。直視することすら許されない状況へとあいなった。
ゆったりとした法衣に身を包み手には白色の錫杖のような杖を持っている。天辺には拳ほどの水晶のような宝石が載り、その吸い込まれそうな球体の中には小さな光が灯っていた。
コンコンッと杖を二回ほど地面に向かって打つと水晶の内部が光で満たされる。直後、一帯に広がっていた血溜まりが蒸発するように乾き、数秒後には赤色は全て消えていた。
ゆったりと歩き始める。背後に控えている二名の従者が地面に着きそうなほど長い髪を布を添えて持ち上げていた。
彼女の顔にはフェイスベールが垂れ下がっていて表情は隠されていたが、この場に誰かと誰何する者は皆無だ。
その女性の両脇には兵士とは一線を画す鎧を着用した男があり、反対側では執事服を着た碧眼の年若い女が真っ白い手袋を引っ張りぐぐっと手に嵌めた。その甲には幾何学模様のような聖印が記されている。
そして流れるような動作で手を横に持ち上げ片眼を覆う。聖印が淡く光り手をスライドさせた。そこには眼球から僅かに離れた位置に聖印と同じ紋様が浮き上がる。
常人の眼では到底捉えられないほどの距離にいる二名の逃走犯を女執事は補足し、今ならば逃がさないと口を挟む。
「すぐにでも狩り出しましょうか、アイリス最高神官長」
隣で腰を折った女執事が進言する。
平伏する兵士たちは困惑の表情で地面を見つめていた。この国に居を置く者ならば知らないはずのない名前で兵士が奉仕すべき法王その人である。法国、アースウェインの最高神官長だ。
こんな所に姿を見せて良い御身ではない。常に法国の聖域と呼ばれる場所を守護する重要な役目を持ち唯一法国の最高決定権を有する身でもある。
兵たちは罪人を逃がしたことへの罰が下るものと覚悟を決めていた。結果として特段処罰が下されることはなく、それが彼らにとって良くもあり、身を神に、法王に捧げた者であるという矜持が傷つけられもした。
傍に仕えるこの二名は法国内でもアイリス最高神官長の側近として他国に名を馳せる程の実力者だ。兵士など言うに及ばずな人物である。
故に唯一神【クルストゥエリア神】への信仰の元、アイリスに仕えている。
「ユディタ、良いのですよ。でも、神への背信を私の身で許すことはできませんね。各国にも通達が行くように指名手配してください。あなたたちが向かう事態ではありませんが、何もしないというわけにも行きませんしね。冒険者組合にもご協力いただきましょう」
「はい、そのように手配します」
アイリスは「では、戻りましょうか」とニコやかにベールの下で微笑む。
ゆっくりと歩き出した最高神官長に続き、今度は黒いフルプレートを着込んだ男が訝しげに問い掛けた。
「アイリス様、フォーエム司教のことは……」
男は司教の無残な亡骸を一瞥したが、アイリスは一瞬たりとも意に解さなかった。
「私が彼の行いを許すとでも?」
「では、司教をわざわざ立会人に指名したのは……」
表情は窺えずとも彼には続きを発することができない。司教の行いは彼が独自に調査して報告したことだが、罰を与えるにしてもこうなることを予想していたのか、と自分が無駄な勘繰りをしていることに男は気付いた。そう、全ては神の御心のままなのだ。