偽りの咎人
覚醒した周はいつものように眼を開ける。これすら本当は無駄なのだが、無意識に眼を開けてしまうため避けられないことだ。
朝日を全身に浴びた彼は当然のように後ろに回された腕に拘束具が嵌められていることを察した。風が吹き荒れ、質素でボロボロの衣服を通り抜けるように生温かく肌を撫でた。眼球を下に動かすように視線だけを下げる、当然足枷が嵌められ、ご丁寧に重石として鉄球まで付けられている。
直立している状態、いや、座ることなどできるわけない。
首には太い縄で括られているのだから。
(……首吊りはこれで何回目だ)
そんなことを考えてみるがメジャーなだけに少ないなとも思う。最初のほうではかなりやって来たが、すぐに名前が出てこなかったようにここ数千回はなかったかもしれない。
俯いた視界が塞がっていることに不思議に思って軽く顔を振るとつられて黒い線も垂れるようにして目の前で揺れる。それが髪だと気付いたのは少し後になってのことだ。
目を塞ぐほどの長髪は珍しかった。いや、何回かはあったはずだ。だが、これから死ぬというのに艶やかな黒髪というのは不自然で初めてのことだった。汚れていても隠し切れない漆黒を宿している。
呆然と見惚れていた。
ふと、もしかしたら今度は女かと自分の一点を見降ろしても女性の特徴は見て取れない。結局死ぬのだから不毛ではあり不毛でも関係ないのだが。
罪人というのは往々として男の比率が高いが、女もまったくというわけではない。彼も女性の身体で殺されたこともある。
全身には拷問の痕のような傷はあるが引き締まった身体付きをしていた。それでも行く末の結末は運命付けられているのだからこれも関係のないこと。
彼が立たされているのは高台の上だった。これも珍しいことではない。首吊りにはよく見られる光景だ。だが、今回は周囲に家々があるのに朝日を浴びられていることから周囲に陽を遮る建物がなく視界に入る家屋はあるにはあるが、場所が広場のように無為に広く。断頭台も3・4mはある。
そんなところから重石を付けられて落とされたらと思うと普通の人間ならば肝を冷やすだろう。しかし、彼に限っては特段変わりないことだ。どんな残虐な殺され方をしたとしても魂の悲鳴と軋む苦痛ほどではない。
足場を組まれているせいか階下を見ることは出来なかったが、かなり物々しい音が聞こえてくる。早朝だろうにご苦労なことだ。それだけこの男が大罪を犯したということだろうか。しかし、聞こえてくるのは雑然とした会話でないことからも民衆は少ないのだろう。
この世界の人間は罪人の死に歓喜しないのだろうか。
下からは民衆の声の代わりに甲冑のような金属が擦れ合う音が無数に鳴っている。警備なのだろう。処刑される前に怒りに任せた市民に殺された経験も彼にはあったし、今までは一度もなかったが仲間がいるということも考えられる。
猿轡を嚙まされていないのならと、彼は舌でも噛み切ろうかと思ったがそこでふと隣に誰かいることに気が付く。
首を動かす程には負傷していない身体は従うようにして横を向いてくれた。
「…………」
彼は無言で顔を戻す。
これも珍しいことではない。一斉に4人を処刑することも。というかこれが仲間なのかもしれない。
端側の顔はわからないが、全員が彼と同じ格好で死を待っていた。彼も端のため隣の男だけしか確認できなかったが、男は震えて失禁している。到底喋れるような状況ではない。
足に括りつけられている鉄球を見れば落とされた瞬間に無残なことになると想像できるからだ。明らかに自分の体重以上の重りを首一本でなんて支えることはできるはずがない。無論、じわじわと苦しむこともない。
あれが正しい反応だ。彼も最初は同じだった。もっと酷い処刑方法だったが。
今までの経験から彼が死の代行をするのは最長でも3分程度のことだ。大体それぐらいには全てが終わる。だが、その3分という時間は当初を考えると随分と伸びていることに彼は気付けない。
「これより罪人の処刑を執行する」
彼のいる位置から見下ろせば高台の櫓に上った恰幅の良い男が正装をして立っていた。純白法衣のような物を纏い白く伸びた髭、片手には金の装飾が施された聖書が握られている。
髭ほどには歳を取っていないのが肌の張りからも察せられる。
「罪人たちよ神の身元に召されることで汝らの罪を浄化しましょう。全知全能【クルストゥエリア神】の名の元に穢れた魂をお返ししましょう。この場における断罪の一切を神の代行者として見届けます」
神の代行者、その言葉は彼の意識を虚無から引き上げるのに十分な単語が含まれていた。
跳ね上がった顔は男を射殺さんばかりに睨みつけ、歯が砕けそうなほど噛み締める。周はやっぱり神のせいだと確信を得た。自分を永劫の狭間に閉じ込め地獄を味あわせ続ける螺旋の渦に対する怒りは尋常ではない。
そんな彼の威圧的な視線に司教のような男は優しく慈愛に満ちた表情で冷徹に宣告し、櫓の下に控えている兵たちに告げた。
柔和な顔からは想像も付かない残酷な言葉が薄目の下で発せられる。
その頬が嗜虐的に上がり――。
「落としなさい」
彼は呪詛のように内心で「殺す、絶望を味あわせてやる」と繰り返した。
そして足元が大口を開け、呑まれるようにして4人の罪人は落下する。浮遊感は一瞬だ。引っ張られるように鉄球が落下し、続いて首に括られた縄が凄い勢いで引き込まれていく。
そして地面に鉄球が付かない高さでビンッと張る鈍い音が立て続けに鳴った。
周はギリリと歯を食いしばって抵抗する。意思に反して身体は正直ということなのだろう。歯が砕けたのかもしれない。口に鉄の味が広がり血でいっぱいになる。
また同じことの繰り返し。だが、今回はわかったことがあった。やっぱりこれは神の仕業で、神の意志に違いない。
辺りのざわめきは聞こえず。彼は抵抗を止めていつものように死に委ねようとした時。
閉ざされた瞼の暗闇が一瞬光ったように感じた。
「誰だ。早く取り押さえろ!」
「くそ、魔法か」
「お前何をしている!」
一瞬の閃光で目が眩んだ兵たちは腕で顔を隠しながら言葉だけを飛ばす。
朦朧とする意識の中で、慌しい声の渦で彼は意識を手放そうとした。だが、更に加重が加わり首が千切れそうなほど激痛が走ったことで何が起こったのか目を開くと。
「間に合って――間に合って!!」
薄茶色の髪が眼前で揺れ、白皙の肌を持った顔がそこにあった。
女は兵の間をすり抜けると罪人に走って行き、そのまま跳び付いたのだ。そして器用に昇るとあろうことかその縄に腰に差していたナイフの刃を滑らせた。
そして女性の力では時間が掛かるはずの太い縄はあっという間に切断され、二人は落下して地面に砂埃を舞わせる。
「ガハッ……ハァハァハァ」
周は顔を地面に擦りながら荒い呼吸を繰り返した。そしてやっとのことで戻った視界で何が起こったのか確認する。
「敵襲!!!」
「仲間か!! 女、貴様処刑を妨害して、ただで済むと思うな!」
槍を構え包囲した兵たちは声を荒げてにじり寄る。仲間かと言っておきながら兵たちの顔には困惑が窺えた。それは見るからに町娘の格好をしており罪人の仲間とは思えなかったからだろう。
処刑を免れた彼の目の前で両手を広げて守るように立ち塞がった女は肩甲骨ほどの長さの栗色の髪を靡かせながら不退転の覚悟で発した。
「彼は絶対に殺させない!!」