苺
男にとって中学三年と言えば、やたら一番を冠する現象が多い年代である。一番身長が伸びる、一番勉強する、一番親がうざいと思う。そして、一番女の裸が見たいと思うのも中学三年だ。断言できる。
ニキビ面で五分刈り頭、黄色いヘルメットを被って自転車通学をする万能ネギ臭い典型的な埼玉県の中坊だった俺は、女の裸とはオーロラと汲み取り便所くらいの隔たりがある日常を過ごしていた。
受験が迫った一月二十日、気晴らしにインベーダーをやりに行った東武ストアの屋上で、俺はクラスメイトの村岡とばったり遭遇した。村岡は両替機の前で俺を見つけると不敵に笑いながら近寄ってきてビニール袋を差し出した。
「大介、いいところで会ったな。俺明日学校でカンパ袋回そうと思ってんだ。お前、先陣切って入れてくれよ」
脇の下で挟み持ったヤンジャンが先程まで入っていたと思われるその真新しい東武ストアのビニール袋は、カンパ袋と呼ぶにはあまりにもインスタント過ぎる気がした。
「カンパ、って、お前まさか…」
「ちげーよ。兄貴だよ。土曜までに3万集めねぇと俺ボコられっから」
村岡は芸ができるチンパンジーなら入れるくらいの偏差値と言われている私立高校への入学が内定しているが、やつの兄貴は普通の県立高校に進学したはずだ。くそう。俺が舌打ちするのと同時に村岡の手が伸びて、両替しようと持っていた俺の千円札を剥ぎ取った。はい、ありがとさん。
「あ、何すんだよてめー、ちょっと待てよ!」
村岡は、頭はチンパンジーだが逃げ足はカール・ルイス並だった。
くそう許せねぇ。くそう。翌二十一日、体育終わりに俺は村岡を捕まえた。昨日の千円返せよ、お前の兄貴のことなんか知るかよ、勝手にボコられてろ。渡り廊下で押し問答をしているうちにヒートアップしてしまい、気付いたら俺は体育の先生に羽交い絞めにされていた。そして俺たちはそのまま職員室に連れて行かれた。どうした、何があったんだ、この大事な時期に。先生は俺たちに聞いた。俺は洗いざらいぶちまけた。千円のこと。村岡の兄貴のこと。カンパ袋のこと。俺は人を殴った経験なんてなかったが、この時は本当に頭に来ていて、隣でヘラヘラしている村岡のことを兄貴じゃなくとも俺がボコボコにしてやりたい、と思った。しかし翌二十二日、ボコボコにされたのは、俺の方だった。
村岡の兄貴は中学時代剣道部の主将だった。そういえばそうだ。剣道部の顧問は、俺がぶちまけたあの体育の先生だ。忘れていた。
くそう。武道界の上下関係はしつこく続くらしく、村岡の兄貴は卒業してからもずっとその元顧問に何かと世話になっていた。おそらく剣道を辞めたことを隠して。もちろん女をハラましたことも。
「お前か。チクったのは」
東武ストアの屋上には村岡の兄貴とその友達2人が、チュッパチャップスを舐めながら俺を待っていた。そして村岡の兄貴はそれを口から抜き取ると、背中合わせでブロック崩しの画面を見ていた女子高生に渡し、ゆっくりと拳を握ってから俺に飛び掛かってきた。
くそう。いてえ。帰り道、黄色いヘルメットをいくら深く被っても目の上の青タンは隠せなかった。くそう。寒い。一日の平均気温が一年のうちで最も低い一月二十二日。鼻水が出て、せっかく止まった鼻血も一緒になって垂れてきやがる。くそう。生きていたってちっともおもしろくない。痛いだけだ。中学三年生は、痛いだけだ。気持ちいいのはオナニーしてる時くらいで、あとはカスだ。生身の女の裸が見られるわけじゃないし、ブラジャーが背中でどうやって留まっているかも知らないんだ。それなのにくそう、あの女、俺が両替機の陰でエビみたいになっている時、くわえていやがった。村岡の兄貴から渡されたチュッパチャップスを薄い唇でうまそうにくわえていやがった。その顔が殺したくなるくらい、かわいかった。くそう許せねぇ。そうか、俺が許せないのは村岡に千円取られたことじゃない、ボコられたことでもない、ハラましたってことは…やったってことは…女の裸を見たってことだ、村岡の兄貴は明らかに、俺がこれほど見たがっている女の裸をたんまりと見たってことだ、それが許せねぇんだ。
足を引き摺ったまま家に帰ると、お袋がシャワーを浴びていた。俺が付属の高校を受けたいと言ったら、最近になって夜の仕事を始めたのだ。おかげで夕飯はいつも弁当がレンジの中に入っている。しかし今日は、レンジで温めることさえも面倒になって、そう思ったらもう何もかもが嫌になって、シャワーの音や、お袋の鼻歌も吐き気がするほど気色悪いものに思えてきて、同じ女なのに、あいつはあんな小さな唇の、チュッパチャップスの裸を見ているのに、俺の近くには鼻歌を歌う全身の皮がたるんだババァしかいなくて。もしかしたら俺には一生見られないような気がしてきて、あんな…あんな…。くそう。おんなのはだか。ちくしょう。
「あ。帰ったらただいまくらい言いなさい」
「わぁ、服着て出てこいよ、気持ちわりいなぁ」
「あれ、どうしたのその顔」
「うっせー。それよかすぐ食えるもんねーのかよ」
「あるよ。冷蔵庫」
お袋はそう言ってやっとバスタオルで前面を隠し、脱衣場に戻っていった。
俺は舌打ちをして冷蔵庫を開けた。中にはずいぶんと小ぶりなホールケーキが入っていた。
「お、ケーキなんて珍しいじゃん」
テーブルに置いてよく見ると、中央のクリームがわずかに剥げている。お袋のやつ、苺だけ食いやがったな。てか、覚えてたのか。
「だってさ、今日は私が初めて子供を産んだ日だもん」
脱衣場のドアの隙間から鼻歌を歌う白い尻が見えた。若くても、歳をとっていても、ブスでもかわいくてもみんな尻は割れているんだな、と思った。
一月二十二日。一年で一番平均気温が低い日。フォークを出すのも面倒だったのでそのまま齧りつこうとケーキに顔を近付けたら、また鼻水が垂れた。白いクリームの、苺が乗っていたその場所に、赤い点がぽつんと浮かんだ。
――――おしまい――――