第二話 ようこそ、深淵へ
背後の喧騒などリュウの耳には入っていない。あるのは、目の前にいる醜い化け物に対する激しい憎悪だけ。
まるでその怒りを体現するかのように、手に持った大剣から炎が噴き出す。
本来なら炎を嫌うはずのゴブリンだが、深淵という底無しの大迷宮に生息する者達は違うようで、炎を纏うドラゴンへと変化したリュウに対しても戦意を失ったようには見えない。
それを見たリュウは、原型を留めていない耳まで裂けた口を愉悦に歪ませる。
彼の脳裏にこれまでの様々な出来事がフラッシュバックし、益々怒りは加速していく。
別に眼前にいる三匹のゴブリンがリュウに何かをした訳ではない。何より彼らは初めて出会ったのだから、リュウがこれまでどんな人生を歩み、その中でどんな怒りを抱いたのかなんてゴブリンには何の関係もない。
つまりは唯の八つ当たり。
『恨むならこんな試験を出してきた後ろの奴らを恨め。哀れな化け物ども』
思わず口から、人の姿の時とは違う、聞いているだけで背筋に寒気の走るような声が漏れる。
リュウも己の感情が八つ当たりでしか無いことは理解している。だがそれは、化け物相手に手加減しようなどという優しさには繋がらない。
故に、リュウは怒りの全てを手に込め、灼熱の塊となった大剣を振りかぶった。
『オオオオオオオオオオオッ!!』
最早、剣と呼ぶことも出来ないような炎の塊が、一番前にいたゴブリンの頭へと落ちる。
すると、ゴブリンは持っていたボロボロの盾を、そっと、まるで水面に触れるような優しさと共に赤い大剣に触れ、業火で焼きつくされる事無く下へと軌道を逸らした。
刹那の瞬間の出来事にリュウの瞳が見開かれ、同時に地へと落ちた大剣から炎が吹き上がるが、既に三匹のゴブリンは眼前から消え失せていた。
『なっ!?』
驚愕の声がリュウの口から漏れるが、戦場はそんなものとは関係なく進む。
吹き上がる炎は、火を司るドラゴンへと変化したリュウの身体を焼くことはない。だが、視界は塞がれる。
その一瞬の隙で、三匹のゴブリンはリュウの左右と背後へとバラバラに移動していた。
「ギッ!」
醜い声と共に右手側にいたゴブリンが汚い手斧をリュウの持つ大剣へと叩きつけた。
パキンと間抜けな音が響き、リュウの持つ大剣は二つに折れ、同時に大剣から炎が消える。
『は?』
背後に回っていたゴブリンが己の低い身長を生かし、リュウの両足を汚い小剣で斬り付けると、鋼よりも硬いと言われる龍鱗に覆われた両足はあっさりと切り飛ばされた。
支えを失ったリュウの身体が、切り飛ばされた足の切り口から赤い血を吹き出しながら地べちゃりと地へ落ちる。
『え?』
何が起きたのか理解できないリュウは、何故自分が仰向けに倒れているのか理解できず、視界の先にある天井へと疑問の言葉を問うが、冷たい石で出来た天井は当然ながら答えを言うことなど無い。
代わりに疑問に答えるかのように、左手側にいた最後のゴブリンが仰向けになったリュウの腹の上に乗り、勝利の雄叫びをあげる。
「ギャッ! ギャギャ! ギギャキャキャキャキャ!!」
リュウにはようやく理解できた。
この醜い邪妖精共にとって、己は最強の幻想種などではなく、獲物でしかないということを。
そして、愚か者がその答えを得るならば、当然何かを差し出さなくてはならない。
それは。
「ギィッ!」
『アグァッ!? ガッ! ぎぃやぁあああああああああああッ!!』
腹の上のゴブリンは、リュウの身体を守っていた鎧をあっさり砕いたかと思うと、獲物の腹を裂いて中身を素手で掻き回す。
痛みと怖気でたまらずリュウが叫び声を上げるが、その声はゴブリンたちを喜ばせる餌でしか無い。
「ギィ!」
「キキャキャ!」
残っていた二匹のゴブリンが、まるで俺も俺もと菓子に群がる子供のように次々にリュウへと群がり、腕の、腹の、腰の肉を千切ってはついばんでいく。
『ごっ!? ぎべっ! アアアアアアアアッ! ギアアアァァアアアアアアッ!』
最早、リュウの叫びには言葉としての意味はなく、ただただ苦痛を表すものでしか無かった。
赤く染まっていく視界の中、腹の上にいたゴブリンが、リュウの腸であろうものを口からぶら下げながら、真っ赤になった口を歪ませたのが見える。
それを見たリュウの胸に去来するのは、怒りや悲しみではなく、己を食われているという純粋な恐怖。
脳が焼き切れるような激痛の中で、三匹の捕食者がこちらに目を向ける。
『ヒッ!?』
身体を穢されようとしている乙女のような悲鳴をあげるリュウを見て、三匹の考えていることが不思議と彼にはわかった。
それは“この獲物の脳は誰が食べるか?”といった事。
答えはあっさりと決まったようで、三匹はゆっくりと怯える獲物へと近付いて来た。
“早い者勝ち”
『ひっ、ひっ! カハッ! あ……あぁ……」
実に単純な化け物の心理を理解したリュウは逃げることも出来ないまま、眼から涙を、口からは血反吐を流し、大きく口を開けるゴブリンをうめき声をあげながら、全身を痙攣させつつ眺めていることしか出来ない。
ここまで実に、5秒間という短い間の出来事だった。
「ケキャ?」
不思議そうなゴブリンの声と共に、リュウへと大口を開けていたゴブリンの口の中から鈍い光を放つ何かが生える。
ナイフと呼ばれる金属製のそれを後頭部から突き入れられ口から生やしたゴブリンは、ビクリと一度震えた後に、紫色の血を撒き散らしながらその生を終えた。
何が起きたのか理解の出来ないリュウが目だけを動かすと、残っていたゴブリンの内の片方は壮年のドワーフの持つ両刃の斧によって唐竹割りにされ、もう片方のゴブリンはエルフの少女に上から素手で殴りつけられ、まるで果実が弾けるように紫の血を撒き散らすのが見える。
「聞こえるか坊や?」
急激に血を失い、視界は徐々に暗くなりながらも、リュウは声をかけてきたワーキャットの女を視界に収めた。
「あう……あぐ……」
竜化が解け、黒髪黒目の血だるまになった弱い人間の姿がそこにはあった。
「いやー、よくやったよ坊や。よく五秒耐えたね。……爺さん、あたしの勝ちだよ」
「全く、今日はついとらん」
ロンズの弾いた3枚の銀貨が宙を舞い、リベルの手の中に収まる。
リベルが何を言っているのか。ロンズが何をしているのか。華奢なエルフだと思っていたメルが何故あれほど強かったゴブリンを一撃で屠れるのか。
何一つわからず様々な疑問が浮かぶが、リュウの口から漏れたのはそんな疑問ではなく。
「しにたく……ない……」
残り少ないことがはっきりとわかる己の命の灯火が消えない事を願う言葉で。
だが、そんな事は無理なのだとぼろぼろな自分の身体を顧みて。
最後に、きらきらと光り輝く、失ってしまった過去の自分の産まれた地へと想いを馳せて。
「あ……」
何の意味もない最後の呟きと共に18年という短い生涯を終えた。
目から光の消えた哀れな男の姿を見とると、リベルはその耳元へそっと口を寄せて優しく囁いた。
「ようこそ、深淵へ」