拒食症のヴリコラカス
白瀬岬は、裏戸雨月のボディーガードである。
岬は、先日十九になったばかりの、自他共に認める小娘に過ぎない。
伸ばしっぱなしだった黒髪を三つ編みにしてひっつめ、濃紺のメイドのお仕着せを着ている姿は、誰が見てもメイドであり、ボディーガードだとは思わないだろう。
この二十一世紀の日本にメイドカフェ以外で、こんな衣装を着る仕事があるとは、彼女は思ってもみなかった。
いろんな仕事やバイトをやったので、岬は体力には自信があるが、所詮は女の細腕である。武道を習っているわけでもないので、ガチに男とぶつかり合った場合、勝てる見込みは少ないだろう。
しかし、それでも彼女は、雨月のボディーガードとして働いている。
何のボディーガードかというと。
「おんどりゃあ、雨月ぅぅぅ!」
灯りの消えた夜の書斎。
窓辺から差し込む月明かりの中、太い声と共に窓ガラスがこなごなに砕け散る。
銀の月光の下、同じほど銀色に輝く毛を輝かせる、顔の長い二本足の生き物が、グルグルと唸り声をあげた。
「性懲りもなくまたガラスを割ったわね、この駄犬っ!」
岬は、そんな謎の生き物の前に立ちふさがった。
彼女が、思い切り見上げなければならないほどそれは大きく、そして恐ろしい風貌をしている。
三匹の子豚も、七匹の子山羊も、赤頭巾さえも不幸にしかけて返り討ちにあった──いわゆる、狼の風貌を持つものが、そこにいた。
「愚かな人間の女、今日こそはどいてもらうぞ!」
むきだしの牙から、唾液がぼとぼととしたたり落ち、金色の目が獰猛に光る。
「さっさと帰ってよ! 帰らないと……」
言葉を続けようとしたが、岬はそれが不可能であることを知る。突然、自分のスカートがぶわっと大きく風をはらんで、視界が変わったからだ。
正確に言えば、彼女は物凄い力に持ち上げられ、狼に向かって放り投げられていたのである。
あっと思う間もなく、岬は狼に体当たりをかける形になっていた。しかし、これだけの体格差である。狼は、びくともしない。
「うげぇっ!」
どすんと狼の前に転げ落ち、尻餅をついた岬だったが、野太い悲鳴をあげたのは彼女ではない。
目の前にいる、二足歩行の狼だ。
突然、胸をかきむしるように苦しみ始めた。
「お、おのれ……人間の女」
よろめきながら後退する狼の、胸の辺りから物凄い勢いで毛が抜け始めていた。それは、円状に広がっていく。
毛のあった部分から、人の男の筋肉質な胸が現れるころ、脱毛は肩に腹に首に向かい、ついに顎が人のものへと変貌を告げる。
狼は、人になろうとしていた。いや、人に戻ろうとしていたのだ。
「そろそろ窓から出ないと、着地出来ないじゃない?」
床で打ったお尻をさすりながら、岬はのろのろと立ち上がって言った。
目の前にいるのは──人狼。
満月の日に、狼になった時こそ、とんでもない跳躍力と力を発揮するが、そうでなければただのちょっと強いくらいの人だ。
この部屋は三階にあり、狼の姿だったからこそ窓から飛び込んで来る暴挙が出来たのである。人の姿で墜落すれば、ロクなことにならないだろう。
「おのれおのれ、この淫売があっ! 日の下を歩けると思うなよ!」
それが──捨てゼリフだった。
人狼は、人の姿にもどりつつも、その身を窓から躍らせる。
大量の、銀色の毛を置き土産にして。
「淫売って……」
ぶっすーと、岬は割れた窓を恨めしく睨みつけた。
毎回毎回、満月の日に追い出す度に、ひどい捨てゼリフを残されるが、今日のは本当にひどい。
「淫売と処女は、真逆だろう……」
そんな彼女の心を読んだかのように、岬の後方の暗闇の中から、気力のない陰鬱な男の声がする。
ツッコミなら、もっとビシビシと勢いよく言ってもらわなければ、岬としてはいたたまれない。
「裏戸さん、もうちょっと優しくして下さいよ! またお尻打ったじゃないですか!」
振り返って暗闇を見つめるが、彼女は声の主がどこにいるか分からない。月光の当たらないそこは、完全なる闇だったのだ。
毎度のことなので、岬は無理に探し出そうとはせず、歩測で理解している距離感を頼りに、入り口にある部屋の明かりを探しに行くのだ。
パチンとスイッチを入れると、ようやくにして部屋に光が取り戻される。
「裏戸さん!」
再度、部屋の方を振り返ると。
「飛田……新しい窓」
「かしこまりました」
彼女の声などガン無視で、二人の男が短い会話を交わしていた。そう、あの暗闇には最初から二人いたのだ.
勿論、岬はそのことは知っていたが、どっちも見つけられなかっただけである。
飛田は細い吊り目の男で、黒髪をきっちりオールバックで固めて黒いスーツに身を包んでいる。岬がメイド然としているなら、こちらは執事然というところか。
実際は、ここの主である雨月の身の回りの世話から、屋敷の管理まで全て一人でやっている。
その男が、窓の修繕のために書斎を出て行くと、必然的に彼女は雨月と二人きりになる。
この屋敷の主にして、岬の雇い主である男は、書斎の奥に鎮座している、岬の腕ごときでは絶対にビクともしないだろうと思われるごっつい机に腰をかけていた。
かっちりした体格に、だらしなく黒スーツを羽織っているだけという、非常にアンバランスな男の顔は、やる気のなさに満ちていた。
きっと、キリっとすればいい男なのだろうが、目は半開きであらぬ方を見ているし、黒髪は適当な手櫛のせいか、幾筋も乱れて額に落ちている。
飛田と真逆の、やや垂れ目気味の目が、余計にシャキッとした印象与えない。
「聞いてますか、裏戸さん!」
いまにも気だるいため息をつきそうな男を前に、岬はもう一度強く彼を呼んだ。
「聞こえてますよ、岬さん……急いで貴女を投げないと、あの脳筋狼が、僕の方に向かって来てしまうじゃないですか……そうなると、面倒でしょう?」
ようやく黒い瞳を、虚空から彼女の方に向けながら、やはり気合のまったく入らない声で、さっきの事情説明が始まる。
そう。
さっき彼女を放り投げた力は、この雨月のものだ。
彼の命を狙うあの人狼は、岬に──いや、処女に弱いのだ。
処女の女に触れられると、満月の力が身体から奪われ、人狼はただの人に強制的に戻されてしまう。
『僕の処女……一緒においで』
岬の前にこの男が現れた時、そう言ったのを彼女は一生忘れないだろう。
当時、彼女の唯一の身内であった、曽祖父の葬儀の夜の出来事だったのだ。
彼は、曽祖父と旧友であったという。もし、自分に何かあったら、ひ孫を頼むと言っていたらしいのだ。
「面倒、じゃありません! 打ち身で、私をあざだらけにする気ですか!」
そう、この男が曽祖父と旧友。旧友という意味を、岬が履き違えていなければ、古い友人ということになる。
九十歳だった曽祖父と、目の前の二十代後半みたいな男が、だ。
「やれやれ……岬さんが怒ると源太郎にそっくりになりますね。女性な分、岬さんの方が可愛げがありますが」
源太郎のは、はあもうさっぱり。
そう付け足した後、何を思い出したのか、雨月は三白眼になって天井を見上げて、うえーっという顔をした。
その視線が。
ゆっくりと、再び彼女に下りてきて。
「僕は……岬さんの血なら、吸えると思うんですが」
岬の首筋へと、視線を固定するではないか。
「あ、あげませんよっ!」
おもわず両手で自分の首筋をガードして、二歩下がる。
「はあ……喉が渇いたなあ。血が飲みたい」
だるだるの声で虚空を見つめる裏戸雨月は、彼の言葉が表す通り──吸血鬼だった。
※
吸血鬼、ヴラド・バルトロマイオスこと裏戸雨月について、岬が知っていることはいくつかある。
彼の始祖は東ヨーロッパの出身だが、彼自身はギリシャ生まれ。バルトロマイオスは、ギリシャにちなんだ名前らしい。
しかし、太陽のさんさんと輝く地中海沿岸は、彼にとって良い住まいではなかったため、独立出来るようになって、住処を変えるべく世界を放浪して、日本へとやってきた。
当時は、西欧人の姿をしていたらしいが、吸った血の人間に似た容貌に少しずつ変化していく体質を吸血鬼は持っていて、日本でおいしく血をいただいていたら、日本人っぽい姿になったらしい。そのため、彼は自分に裏戸雨月という名前をつけた。
この頃、日本はまだ明治時代だったという。
吸血鬼の天敵は、二つ。童貞の神父と、人狼。
日本はまだ、神父の数が少なく、なおかつ狼男もいなかったため、彼にとっては天国のようなところだったのだ。
そんな時、彼の前に飛田という神父が現れた。海外の教会からの書類で、吸血鬼の存在をかぎつけた彼は、雨月と対峙したのだ。
ただ、飛田にはひとつの失敗があって、翻訳ミスで『童貞の神父』という表現が『清らかな神父』と書き変わってしまっていた。神に仕えているから私は清らかだと信じた『童貞ではなかった』飛田は、雨月の前で何の働きも出来ずに、あっさりと血を吸われ、下僕にさせられたのである。
飛田からこの話を淡々と聞かされた時、岬はジョークのつもりで言っているのか分からずに反応に困った。
至って真顔で、己の過去の間抜け話を語られるのは、対処しづらいものだと、彼女が心底思い知った瞬間だった。
明治から吸血鬼とその下僕として生きてきた二人だったが、昭和に入って雨月が人の娘に恋したところから、岬の運命が回り始める。
それは、当時の曽祖父の婚約者である女性だったからだ。そして、その人はそのまま岬の曾祖母となった。曽祖父は、吸血鬼である雨月から、婚約者を守りきったのだ。
雨月曰く『あの時の源太郎は、吸血鬼の僕が言うのも何だが……悪魔だった』そうだ。
恋に破れた吸血鬼は、未練がましく夜な夜な曽祖父とその妻が暮らす家へと現れたらしいが、すでに彼女の純潔は失われており、下僕にすることは出来ても妻にすることは出来なかったため、泣く泣くあきらめたらしい。
それ以来、失恋のショックにより、雨月は血が吸えなくなったという。吸おうとする度に曾祖母のことを思い出し、身体が拒否してしまい、いまではすっかり拒食症の吸血鬼として、だるだると日々を無為に過ごしているというわけだ。
そんな彼に災難は続くもので、人狼が一匹日本に入り込んだから、さあ大変。
吸血鬼を目の敵にして、見つければ本能的に狩ろうとする人狼を倒せるほどの体力は、長らく血を吸ってない雨月にはなく、何とか追い返すので精一杯。
人狼が苦手とする処女が必要だった彼の元に、源太郎の葬式の手紙が届く。
勿論、それを出したのは、岬だった。祖父の手帳に残されていた人へ、よく分からないまま送ったのである。
そして葬儀の夜に彼は現れ、岬をさらっていったのだった。
吸血鬼に人狼に処女。
そんなトンデモ説明を受けた時は、これは夢か、もしくは曽祖父が亡くなったショックで幻覚を見ているに違いないと岬は思ったものだった。
しかし、突然オモチャのように、雨月の見えない手によって、自分の身体が天井近くまで放り上げられた時、確信したのだ。
人間とは比べ物にならない、圧倒的な力がそこにあるのだ、と。
そして、岬は裏戸雨月のボディーガードとなった。
ツッコミ切れない環境に、突然身を置いた彼女だったが、衣食住と給料の確保は魅力的だった。
そして、脳内でツッコミまくっている間に、自分の身寄りがもはやこの世のどこにもいないということを忘れることが多くなった。その代わりに、雨月という男の言葉の中から、『源太郎』という名が時折綴られるのである。
大事な最後の家族の話を、共有出来る相手を得たことと、その人が老衰して岬を置いていくことはないという事実が、彼女の心を強くしてくれたのだ。
自分をもう一人にしないでくれるのならば、吸血鬼でもいいやと、岬は思った。
「はあ……喉が渇いたなあ。血が飲みたい」
そんな彼女の主人は、時折渇きを思い出したようにそう呟く。
その度に、岬は自分の首筋を押さえて下がるのが、最近では様式美のようになっていた。
吸いたいと言っても無理強いするわけでもなく、血を求めて町に繰り出すわけでもない。
ただ、そう口にするたびに、岬の曾祖母のことを忘れられないでいるのだろうと伝わってくるだけだ。
彼女は、曾祖母のことは遺影でしか知らない。吸血鬼の心を捕らえて、拒食症にさせてしまうのだから、本当に魅力的な女性だったのだろう。
岬の血で飲めるならあげてもいいと思わないでもないのだが、飛田という男を見ていると、やっぱり無理だと思ってしまう。
彼は血を吸われたことにより、雨月の下僕となったのだ。彼のために働き、彼を守る盾になることに何のためらいもない。
飛田が望んだからではない。血を吸われ、吸血鬼に命じられると、嫌でもそうなってしまうのだ。
絶対に逆らえない、血の枷。
そんなものがもし岬についてしまったならば、彼女と雨月のいまの距離はきっと完全に、主従というものに置き換わってしまうことだろう。
そんな関係になりたくて、ここに来たわけではないのだ。
「ああ……源太郎の悪魔め」
また、曾祖母のことを思い出したに違いない。
雨月は、ぼそりと恨みがましそうにその名を呟いた。
◆◇◆◇◆◇
「なあ、源太郎……ひ孫を嫁にくれない?」
「おい吸血鬼、うちの岬に手ぇ出しやがったら、その金○引っこ抜いて口に詰め込むぞ、ごらぁ」
齢九十のジジィになっても、白瀬源太郎という男は昔のままだった。
雨月の──吸血鬼の呪縛が効かないのは、童貞の神父と人狼以外では、この男だけ。
とんでもない体質の持ち主としか、言い様がなかった。
そして、本人は知らないが、白瀬岬という彼のひ孫もまた、雨月の呪縛の通じない相手だった。
源太郎に内緒で姿を変えて試したことがあるが、結果は曽祖父と同じだったのだ。見事な体質の隔世遺伝である。
これは、どんな運命の皮肉なのだろうかと、雨月はひっそりと暗い部屋で考え込んだものだ。
「ああ、まあでも……俺が早くにおっ死んだ時に、岬がまぁだ清らかなまんまだったら、口説く権利くれぇ、くれてやらぁ」
あの源太郎がそう言ったのは、自分の死期が近いのに気づき始めていたのかもしれない。
悪魔でも、己の死が近くなると心弱くなるのだろう。かわいいひ孫を一人残して死ぬことは、彼にとってはとてもつらいことのようだった。
「吸血鬼ってのは、難儀な生き物だな、おい。血は出せねぇが、酒くらい飲んでけ」
彼にとって吸血鬼は、河童か何かと同じような気楽な扱いである。自分の妻を狙っていた化け物を、平気でボロ屋の縁側に座らせて、杯を差し出すなんて真似が出来るのだから。
そんな男だったからこそ雨月は、彼が望んだ花嫁を奪い、屈辱を与えた相手を、本気で八つ裂きにしようとは思わなかった。
呪縛こそ効かないものの、雨月の力は人外の強さなのだ。いくら精神が強かろうが特異体質だろうが、人間の男ごときを殺せないはずはない。
片や有限、片や無限に近い時間の道を歩く、本来ならば決して交わることのない二人の間に出来た、奇跡の交差点に源太郎はいたのだ。
その交差点の真ん中で。
雨月は生まれて初めて、源太郎という人間と自分が対等なのだと強く感じた。奇跡だからこそ、吸血鬼でありながら、彼はそれを大事にしたのだ。
しかし、人は老いる。
そんな奇跡もこのまま色あせ、なくなってしまうのかと思っていた頃、源太郎の元に一人の娘が連れて来られた。
それが、岬だった。
彼女が中学の頃、突然の豪雨災害により、彼女の家は土砂に埋もれたのだ。ちょうど修学旅行で難を逃れた岬は、しかし近しい血縁を全て失ってしまった。
かろうじてただ一人、遠くに離れて暮らしていた曽祖父──源太郎がいて、彼女を引き取ったのだ。
雨月は、源太郎のひ孫をひやかしに、こっそり見に行った。そして、彼女が曽祖父と同じ体質であることを知ったのである。
彼の前に、もうひとつの奇跡が舞い降りた運命の瞬間だった。
岬は、雨月の愛した彼女の曾祖母とは、ほとんど似ていない。しかし、彼女には他の誰も代わりになりえない、奇跡の交差点に立つ力がある。
それは、雨月の心をひきつけるのに十分なものだった。
そしていま。
彼の想像は、現実のものとなった。
源太郎を失った岬を屋敷に引きずり込み、彼女と対等な関係を築くことが出来たのである。
彼女は人狼から雨月を守り、雨月はそれ以外のものから彼女を守る。
こんな理想的な関係を築ける女は、ほかにいなかった。
ただ。
本当の意味で彼女の心を得るためには、長い時間が必要だ。
人の心というものは、手軽に動くものではないのだから。
実際、岬の心をどうすれば自分に向けられるのか、彼にはさっぱり分からなかった。
そういう訓練は、彼の人生では必要なかったせいだ。
ただ同じ屋根の下で、言葉を交わし、共に危機を乗り越え、そこで何かを一緒に育んでいくしかないのだろう。
とっととその白い首筋にかぶりつき、花嫁として血を吸ってしまいたい欲望が、時折こらえがたい衝動として雨月の中にわきあがる。
もう長い間、血を吸っていないのだ。その渇きたるや、他の感覚の多くを押さえ込むために使わなければならないほど。
おかげで、いつも無気力な態度しか表せないのが情けない限りだ。
「ああ……源太郎の悪魔め」
衝動が溢れそうになる度に、死してなお睨みを効かせる悪魔が、彼の心を足蹴にする。
それを感じる度に、はがゆくてしょうがなかった。
「私のお尻をアザだらけにしたら、ひいおじいちゃんが化けて出ますよ」
自分の曽祖父を、まるで吸血鬼の天敵として振りかざし、岬が文句を押し付けてくる。
そう言う彼女は、自分が雨月の天敵であることを、まだ知らない。
天敵であるが故に、奇跡の場所に立っていることも知らない。
そんな相手を欲しいと思っているのだから。
「はあ……喉が渇いたなあ。血が飲みたい」
自分は相当のマゾヒストなのだろうと、雨月は深いため息をつくのだった。
「窓、入れ替えます」
主人の矛盾する心も知らず、飛田が大きな窓を抱えて部屋へと戻って来る。
「毎回毎回、窓を破って入ってくるんですから、今度の満月の日はいっそ窓を開けてましょうよ」
岬が、いいことを思いついたとばかりに、雨月の方へと向き直る。
「『ようこそ人狼様』って看板でも出す気かい? ……はあ、あいつもなんとかしないとなあ」
皮肉なジョークもずるりと滑り、雨月はだるい身体とだるい声で、鬱陶しい生き物を思い出してしまった。
あれを追い払えない限り、岬は処女を守り続けなければならないのだ。
人狼を追い払う力を得るために、雨月が血を吸う必要がある。雨月は、おそらく岬の血しか飲めない。岬を口説き落とさなければ、勝手に血は吸えない──そんな論法は、簡単に雨月の頭の中で構築される。
「うーん……岬さん、血……」
「い、いやですよっ!」
淡々と窓をつけかえる男を横に、人間の口説き方がド下手な吸血鬼と暮らす娘は、奇跡の交差点の真ん中で、己の首を守りながらぴょんと後方へ飛び下がるのだった。
『終』