Chapter2
初めての街。
まだ体に馴染まない真新しいスーツ。
そして、ようやく慣れてきた新しい家。
一月に母と上京してから、もう三か月が経つ。
今日は、入社式だ。
「いよいよ、麻衣子も社会人ね」
キッチンから母の声がする。
「まだ実感ないけどね」
「ママも」
思わず笑ってしまう。
東京にいるという感覚は、いまだにどこか現実味がない。
自分が今どこに立っているのか、ふとわからなくなる瞬間がある。
「本当に一人で行ける?」
「大丈夫だって。入社式に親と行く人なんていないよ」
「それもそうだけど……心配なのよ」
母は二十年前まで東京に住んでいたらしいが、今となっては私と大差ない“上京組”だ。
「じゃあ、行ってきます!入社式の後、そのまま支店に挨拶に行くらしいから、帰りは遅くなると思う」
「はーい。行ってらっしゃい。気をつけてね」
自分が見送られる側になる日が来るなんて、子どもの頃の私が知ったら、少しは誇らしく思うだろうか。
*
上京前、本当に母と一緒に行くべきなのか、何度も話し合った。
会社の規定では、家族と同居する場合、社宅は借りられない。
社宅なら家賃は月三万円で済む。
だが二人で住めて、職場にも通いやすい場所となると、家賃は優に十万円を超えてしまう。
母は、上京してすぐ仕事が見つかるとも思えなかった。だから私は、二人で暮らせる現実的な部屋を必死に探していた。
けれど母は、準備のほとんどを私任せにした。
実家の退去日、物件探し、引越し業者の手配、新生活の準備。
そして費用も、ほぼ私の負担。
重圧は日ごとに増していった。
「ねえ、本当に東京行く気あるの?私、バイトもあるし、準備でいっぱいいっぱいなんだけど」
「だって……ママ、何もできないし……」
母の常套句だった。
できないわけじゃない。やらないだけだ。
けれど、この言葉でこれまで何度も乗り切ってきたのだろう。
父はきっとこんな母に嫌気がさしたのではなかろうか――。そんなことは口が裂けても言えないけど。
「もういいよ」
本当は、東京に来るつもりなどなかった。
長年、母を東京に住ませてあげたいとは思っていたけれど、就職のタイミングでとは考えていなかった。
私は関西で働きたかった。勤務地希望も出そうとしていた。
けれど、最後の最後で母の願いを優先した。
今思えば、この時の選択が、その後の人生を大きく変えることになるのだけれど。
結局決まったのは、東京の西の端に近い八王子。
家賃は十五万円。時期も悪く、条件の良い物件はほとんど残っていなかった。
いずれ母も働き始めれば、なんとかなる。
そう思い込むしかなかった。
上京当初は、何もかもが新しく、人の多さや満員電車にただただ圧倒された。
それでも母は、田舎にいた頃より楽しそうで、その姿を見ると悪い気はしなかった。
私は母にとってお荷物で、生まれてこなければよかったと思って生きてきたからーー。
*
《八王子~八王子~》
駅のホームで電車を待っていると、人の多さに帰りたくなった。
水道橋の入社式会場までは、約1時間。乗り換えが一回。
(気が遠くなるな~)
そう思ったが、周りを見渡すと、新入社員らしき初々しいスーツの人が結構いて少し安心した。
電車に乗ると、どこまでも満員で、やっとの思いで水道橋に着いた時には、瀕死状態だった。
「やっと着いたぁ~」
思わず独り言が漏れた、その時ーー。
「あの……もしかして、新生ハウスの新入社員の方ですか……?」
振り返ると、私よりも少し背が高く、スタイルのいい女の子が立っていた。
「あ……はい。そうです。あなたもですか?」
私が答えると、女の子は緊張が少し解けたように微笑んで、「はい!」と言った。
「一緒に行きますか?」
私が声をかけると、「はい!ぜひ!」と言って、私たちは会場まで一緒に行くことになった。
「なんで私が新生の入社式に行くってわかったんですか?」
私が不思議に思い聞くと、彼女は少し恥ずかしそうにして、「実は…」と話し始めた。
彼女がいうには、満員電車の中で私の後ろにいたらしく、私がスマホで新生の入社式の案内を見ているのが見えたのだそうだ。
「勝手に見てごめんなさい」
申し訳なさそうに話す彼女に、「見られて困ることないですから、全然大丈夫ですよ」と答えた。
「というか、敬語やめませんか?同い年ですよね?」
「あ……多分……私二十二歳です」
「同じだね。じゃあ、改めて……私は間宮 麻衣子。よろしくー」
「私は、小川 佳菜子。よろしくね」
「今日から社会人ってなんか緊張だよね~。佳菜子ちゃんはどこ出身?」
「だね。私は、神奈川!」
「神奈川か、都会だー!私なんか福岡だよ」
「神奈川って言っても、横浜じゃないからねー?福岡、いいじゃん!行ってみたい」
そんな話をしながら会場へ向かう。
周囲には、同じように緊張した顔の新入社員たちが集まっていた。
今日から、社会人になる。
少しの期待と、同じくらいの不安を胸に抱えながら、私はその中へ足を踏み入れた。




