第八話「三階から二階に階段を使って下りる」④
図書館の階段で膝から崩れ落ちた私を――長い腕が抱き止めた。
「――おい! 三船、大丈夫か!」
顔を上げると、パーマのかかったモジャモジャの毛が目にかかった。
「……タグ?」
そこにいたのは――先ほどまで勤務先の喫茶店にいたはずの田口公平だった。
「……なんでここにいるの?」
「その……三船、昔っから考え事はここでしたがるところあっただろ? さっきまでカウンターの司書さんにキミがここに来なかったか訊いてたんだけど、ちょうど階段のほうに向かってく姿が見えて……」
どうやらこの非常階段へやって来る前に、カウンターのほうが妙に騒々しかったのはタグの仕業だったらしい。
「ほら、サンドイッチも食べかけだったから、店長が『追いかけて持って行ってやれ』ってさ」
言いながら、手に持った包みを見せびらかす。
……随分と働きやすそうな職場に勤務しているものだ。数か月前の私と違って。
「様子がおかしかったけど、体調悪かったのか……? なあ、無理だけはしないでくれよ」
「いや、大丈夫。これはまた別の話だから……」
言いながら首元を抑える。痣の熱はすでに引いていた。
「さっきの……あまりにも遠慮のない言葉だった。キミを傷つけてしまって……本当にごめん」
「だからその、大丈夫だって……。むしろ、ありがとね。追いかけてきてくれて助かった」
私はタグの手に掴まりながら、階段に座り込む。
「タグ……あのさ」
「おう、なんだ……?」
同じようにして私の隣に腰かけたタグへと私は問いかける。
「これは……例えばの話なんだけど」
「お、おう……?」
「自分に養わないといけない家族がいたとして、目の前で困っている部下がいる。その部下が困っているのは遠回しに自分の責任で、もし助け舟を出すと会社での立場が危うくなる。そうなったらアンタどうする?」
「なんだそれ、前の職場の話か?」
少し考えるような素振りをして、彼は答えてくれた。
「俺なら素直に助けると思う。むしろ、そうしないほうが自分の家族にも顔向けできないだろうし」
「そうね、きっとタグはそういうタイプだよ……」
大学の頃からそうだった。
どちらかというと遠慮がちなようで、しかし、どこかに一本筋の通ったような芯を秘めている。
だからこそ、私はそれが面白く感じてよく彼に絡んでいたのだ。
「……三船、そうか。キミ、上司に見捨てられたんだな」
「……そんな大げさな話じゃないけどね。――でも、考えるの。私も同じ立場だったら、あの人と同じように〝私〟を助けなかったんじゃないかって」
「いや、でもそんなの『たられば』の話だろ?」
「ええ。だけど、これはほぼ確信に近い『たられば』」
「……うーん」
この人は……こういう時、真剣に頭を悩ませてくれる。
そして、その先を待つ私に彼の口から発されたのは意外な言葉だった。
「キミ、本当にそれが気に食わなかったのか?」
「……どういうこと?」
「こんなことを言うのもだけど、キミが――仮にそんなことを誰かにされたとしても、あとに引きずるような人間には思えないんだよなあ」
「そんなの……」
果たして、どうだろうか。
私は正面の『2F』と書かれた壁を眺めながら、ふと考える。
――『三階から二階に階段を使って下りる』。
そういえば、なぜメモにはこんな指示が書かれていたのだろう。
これが何か儀式めいたものだとしたら、あまりにも内容が恣意的ではないか?
そして、思い出す。
何かそんなようなことで印象深い出来事を――昔の私は経験しなかったか?
「単に精神的にすり減っていたとか、そういうのも原因なのかもだけど、大学の頃のキミはもっとこう――よくも悪くも他人に興味のない人間だったと思う。社会人になって心境の変化はそりゃ多少あったろうけど、キミは他人の非を咎めて自分を見失うような人間じゃ決してなかった。なあ、そう簡単に人間の根っこって変わるもんか?」
「私は――」
「もうちょっと整理してみてもいいんじゃないかな、キミ自身の心のこと」
「………………」
私は一つため息を吐き出した。
「……どうにもごちゃついてきたかもだ」
「あ……悪い。また余計なこと言ったかも……」
「いや、違うよ。取り組むべき明確な〝課題〟が一つ出来たーってこと!」
私は立ち上がる。
なぜだろう。
心はずっと霞がかったままではあるが。
しかし、同時に吹っ切れたようでもあるような、そんな心持ちだった。
「タグ、このあと時間は?」
「いや、バイトに戻らないとだけど……」
スマホを取り出して、タグは画面を確認する。
「……うわ、店長」
「何?」
「『休憩まだだったからついでに取ってきてもいい』ってさ。ホントにあの人は……」
「そ、じゃ決まりね」
私が笑いかけると、タグは照れたように視線を逸らした。
「久々にさ、ラーメンでも食い行こうぜ」
「――あいよ、ハムサンドはまあ……あとでも食えるだろうしな」
こうして私たちは階段をあとにする。
(たしか〝あれ〟は……幼少期の出来事だったはずだ。それも義父がまだ私のそばにいてくれた頃の――)
思い出すにはまだ時間がかかりそうである。
だが、ポケットの中のこの紙片は、それを思い出すための――あるいは大切な〝何か〟を思い出すための――鍵となるかもしれない。
それまで就職活動は少しお休みすることにしよう。
私はそう心に決めて、タグの服の裾を鷲掴みにしながら歩きだしたのだった。




