第七話「三階から二階に階段を使って下りる」③
「聞くって、何をですか?」
そんなふうに雑賀支店長に言われて私はたじろいでしまう。
これはマネージャー自身の反応なのだろうか、それとも今の私自身の気持ち……?
「いえ、その……」
少し迷って、言う。
「……今回の作業ですが、実施日も近いですし、会議は――」
「あれにハンコは押せないよ、諸岡さん」
あえて視線を合わせず、支店長は不機嫌そうな態度に戻った。
「彼女は私に説明ってものをする気がないようだし、資料も本来の書式とも違っている。前から全然改善されてない」
「説明する気がないって……私にはそうは見えませんでしたが」
反論したって意味がないのは分かっている。
だって、これがあの人のやり方なのだ。
気に入った人間には会議もなしで作業承認をする癖に、そうでない人間には会議でとことん詰める。
理由は二つだ。見せしめと、淘汰。
会議室から響く怒号と、まともな人間ほど自分から拠点を去っていく環境の中で、彼の周りにはイエスマンだけが残っていく。
ただ、マネージャーとなった自分自身の口から飛び出た言葉を聞いて、私は『そうではない』と思った。
「それにあの資料は……」
私は覚えていた。
この案件では作業会議の前に資料を参加者に事前送付するのが通例だった。
以前からそうしていた通りに淡々と資料メールを送った私の耳に飛び込んできたのは、支店長があえて一人の女性派遣社員に聞こえるようにと、よく通る声で発した言葉だった。
『諸岡さん、これフォーマット違う資料じゃん』
思えば、あれこそ私が〝ターゲット〟にされた始まりの出来事だった。
黙りつくすマネージャーに痺れを切らして、私が支店長のデスクへ直接お伺いを立てに行くと、どうにも彼が元いた拠点と違う書式の資料を作っていたことにご立腹だったらしいことが分かった。
別の拠点に来たのだから、資料が違うのなんて当たり前だ。……それに、私はこの支店でしか勤務したことがないのだから、そんなことは知る由もない。
ただ、それでも腐らなかったのは、我ながら真面目過ぎたのだと思う。
それ以降、私はいろいろと立ち回った。同じプロジェクトの諸先輩方にこの資料フォーマットが使用されるようになった経緯を聞いて回り、諸岡マネージャーにも雑賀支店長へそれを説明するように頼んで、出来うる限りの準備をしたあとにようやく私は〝あの会議〟に臨んだのだ。
背中を突き刺すような苛立った視線に耐えて、耐え続けて――。
『それで……支店長に説明して頂けましたか?』
『あっと、それは……会議の時に説明するよ……』
会議の直前、マネージャーに念のため行った確認で私はすべてを察した。
だから、会議中〝私〟はあんなにおっかなびっくり話していたのだ。
……どう口を講じたって、怒られることが分かり切っていたから。
「その……あの資料は以前からこの拠点で使用されている資料で、森本支店長もあの内容で承認してくださっていて……」
「ふーん、じゃあ森本支店長のせいなんだ」
森本支店長というのは雑賀支店長がこの拠点に来る前の箇所長だった人だ。
この会社の、いわゆる『エリート街道』を歩んでいるような人で、承認会議の際には資料の書式なんかよりも『作業自体が無事に遂行できるか』とか『準備が十全に出来ているか』とか、社員が無事現場で仕事を終わらせてこれるようなことをちゃんと考えてくれるような――部下目線での〝理想の上司〟と呼べるような存在だった。
「連絡取ろうか? 森本さんと」
「…………」
そんなことを言われたら返せる言葉なんかない。
みんな森本支店長にはお世話になった。その顔に泥を塗ることなんてとても出来なかった。
――『君はどんな夢を見る?』。
どんな夢と言われたって、いったい私にどうしろというのだろう。
これはきっと〝現実〟の延長線上にあるものだ。
そこには情景があって、空気感があって、目の前に感情や意思を持った〝人〟がいる。
あの出来事のあと、自分の会社の営業担当から連絡があったのをはっきりと覚えている。
『三船さん、勝手な判断で会議資料の規定を無視したというのは本当ですか?』
遠回しに派遣社員を交代させるような話をされたと、そんなことも言われた。
状況を説明して、反論するように要請しても、自社営業もまた動いてはくれなかった。
今、私がマネージャーの口を借りて紡いだはずの言葉が、ただ、その後の出来事と齟齬がないよう収束していく。
くやしかった。
私が四年という歳月をかけて苦労して作り上げた実績や人間関係が、こんな一人の人間の横暴で簡単に崩れ去る。
……派遣社員を初めて雇うというプロジェクトだったから、ロクに仕事を教えてくれる人間がいなかった。
それでも私は食らいついた。
分からないことがあれば、周囲に確認を取りながら、過去の案件資料を読み漁って仕事を覚えた。
……若手の女性社員という立場は平均年齢の高い男性中心の職場では浮いていた。
だから、誰かが喫煙所に立てば、一緒に付いて行って、昔のアニメの話に花を咲かせて距離を詰めた。
すべては私に機会をくれたこの会社に少しでも役立てるようにと。
若手社員への接し方が分からないなりに、いろいろな案件へ一緒に連れて行って、現場のいろはを教えてくれた先輩方に報いることが出来るようにと。
その果てに待っていたのが――この結末だ。
震える足で立ち尽くしながら……その脳裏に過ぎっていたのは顔も見たことのない五〇代くらいの女性とランドセルを嬉しそうに背負った男の子の顔だった。
『君は見たはずだ。見ることが出来たはずだ。何せ彼そのものとなっていたのだからね』
……こんなの。
……こんなのずるいではないか。
「彼女は……よくやってくれています」
またこの言葉だ。
〝私〟をフォローするためなんかではない――自分の失態を認めないための、独りよがりな言葉。
「……今回の作業に関しては私のほうから説明しますので、どうか戻って頂けませんか」
義父は『選ぶ』ということが必ずしも『行動を起こす』ということではないと述べていた。
それでも私は、ただ自分の無力さに嫌気が差すばかりだった。
私は、だからいったい何を見せられているのだろう。
こんな光景を目にして、体験して――そして、恨むような気持ちがいっそう増した。
「……まあ、諸岡さんがそこまで言うなら――」
そこで私が見せられた〝夢〟の場面はぷっつりと切れた。
私はほっとした。
その後の会議で私は置物同然だったから。
終始無言で、問いかけられれば小さく『はい』とだけ返す。
そんな自分の姿など見たいはずもなかった。
そして――。
あの雑賀支店長が更迭されたと聞いたのは、私が会社を辞めて案件を去った直後のことだった。




