第六話「三階から二階に階段を使って下りる」②
「――やあ、戸惑っているようだね」
暗闇から声が聞こえる。
腕を伸ばすと壁にぶつかった。そのまま確認するように手を這わせると、私のすぐそばを壁が四方から塞いでいることが分かった。
その空間の中で私は固い椅子に腰かけている。
「その声、お父さん……?」
「ああ、まだ私のことをそう呼んでくれるのか」
その温かい声音に、私の脳裏へと一人の男性の柔和な笑みが浮かんだ。
もうとっくの昔に忘れたと思っていた。
だけど、声を聞いただけで思い出した。
ただそこにいるだけで、私を肯定してくれるような、この安心感。
母が私にくれなかったものだ。
「ねえ、これいったいなんなの? 私どうしちゃったって言うの……?」
「君はお話を作るの好きだと言っていたね。だから、何も不思議なことはない」
彼は〝あの頃〟のまま、幼い子供に語りかけるように言う。私はもう大人になったっていうのに。
「君の人一倍豊かな想像力の延長線上にあるもの。これは言わば明晰夢のようなものだ。あの紙はきっかけにすぎないのさ」
「……きっかけ。そう。でも、じゃあいったいなんのための?」
「君は向き合わなくてはならない」
嚙み合っているようで、どこか中空に向けられた台詞であるかのように反響する言葉。
地に足の付かないような感覚と、そして、そもそものこの奇妙な場面の移り変わり。
私は『たしかにこれは夢で間違いないらしい』と、義父の〝明晰夢〟との言にも納得するような気持ちだった。
「人は……一人では生きていけない。しかし同時に、他者と関わる中で誰しもがその主体性を希釈されて、いつしか、ただそこにあっただけのものにもっともらしい名前を刻むようになる。まるで自分自身の存在を預けるかのように」
それはどこかで読んだ本を連想させるような言葉だった。
あの紙片を咥え込んでいた母の古びた愛読書――。
「――君は何を選ぶ? あるいは何を選ばずに生きる?」
「何を選ばずにって……」
「例えばそう、君が少し前まで勤めていた会社のこともそうだ。君はとても悲しい思いをしたようだね。そして、その繰り返しの果てに、君は『何かを思う』ということすらやめてしまった」
「だって、あんなの仕方ないじゃない。そうすることでしか、私は私を守れなかった」
「ああ、きっとそうだろうとも。だが、『選ぶ』ということは必ずしも『行動を起こす』という意味ではない」
私が感傷的なことを呟いても、彼の調子は変わらなかった。
ただ、ゆっくりと、言葉の意味を響かせるようにして、彼は言う。
「『変わるのは未来ではなく過去のほうだ』か……なかなか面白いことを考えているようだね、君は。だけどね、悪いことがあって自分の全部を恨んでしまうようになることがあるのだとすれば、その逆もまたしかりだとは思わないかい」
「……過去を肯定しろって言うの? ははあ、たしかにそうするべきかもね」
皮肉げに返答したその時、首元に激痛が走った。痣に触れると肌の表面からでも脈を打っているのが分かるほどに疼いていた。
「おっと、今のはいけなかったね。あの紙にも書いておいたはずだろう。『秘密基地では正直になるように!』って。過去の君がそう約束したんだ」
薄っすらと記憶が蘇ってくる。鼻腔を刺す加工された木の匂い。
そう言えば不思議に思っていた。
こんな狭い場所に閉じ込められていたというのに、しかし、決して不快などではなく、むしろどこか懐かしさを伴ったようなこの感覚。
そうか、ここは【秘密基地】だったのだ。
「でも、じゃあどうしろって言うのよ! 心の中で強く非難でもすればよかったの!? お父さんは昔私に言ったわ。『善く生きなさい』って! 誰かを恨んで自分を正しいと思う独りよがりな思いが〝善いこと〟だなんて、私には思えない!」
「じゃあ、そう思わなかった結果があれってことなのかい」
「……何よ……そんな言い方」
ああ。覚えている。
この人はこういう人だった。
温かくて、だけど、決して他者に融和しない。
私の夢の中でさえ。
「彼の中に入ってみてどうだった」
「浅ましい人だったわ。私の想像の通り」
「本当に想像の通りだった?」
「…………」
「君は見たはずだ。見ることが出来たはずだ。なんせ彼そのものとなっていたのだからね」
「何よ、私のほうが浅ましい人間だったなんてそんなこととっくに知って――痛っ……!」
痣の痛みが私の言葉を遮った。
「浅ましい人間なんてどこにもいないさ」
「……じゃあ、どうして私だけがこんな目に遭うの? 私がいったい何をしたって言うの? こんなの私に責任があるとでも思わなきゃ辻褄が合わない!」
「何もしてなどいないさ。人生など得てしてそんなものだ」
「そんなの、そんなの、不公平だわ……」
「ああ、そうだ。世の中は不公平なんだよ」
その時、私の中で何かが弾けた。
そんな意地悪な言い方はないだろう。
結論なんか私だって分かっていた。
だけど、違うのだ。分かりきっていたって、それでも私は――。
私は【秘密基地】の入り口を、破るような勢いで開け放ちながら言った。
「聞いてっ――。……って、は?」
果たして扉の先には予想外の光景が広がっていた。
「――え? 諸岡さん……?」
私のずっと嫌いだったぶっきらぼうな声がした。
そこは――会社の喫煙所だった。
あの場面の続き……おそらくはマネージャーが雑賀支店長を呼びに行った際の状況なんだろうか。
その時ばっかりは蓋の付いた消火用の水桶に腰かける支店長も、驚きのあまり貧乏ゆすりをやめていた。
「えっ、あ、あの聞いて……ください……?」
私の脳裏に義父の言葉が響いたような気がした。
『さて、ここからは君の知らない、そして実際に起こったことなのか、君は今後一切知ることのないだろう出来事の話だ――』
おそらくそれは肩でも竦めながら、いたずらっぽく笑って言った台詞だったのだろう。
『――君はどんな夢を見る?』




