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樫の木(仮題)  作者: 山田奇え


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第五話「三階から二階に階段を使って下りる」①

 私の記憶が間違っていなければ、座っていた位置取りから考えても確信があった。

 どうやら私は当時の直属の上司――諸岡(もろおか)マネージャーになっているようである。

 正直言って、状況を飲み込み切れたとは言い難い。

 だが、不思議とこの場面を冷静に俯瞰して見ている自分がいた。

「そこで、夏以降の敷設作業では――」

 〝私〟の声は周囲からあんなふうに聞こえていたのか。

 本来、私は人前であまり緊張するタイプではない。元々の面の皮の厚さに、大学で舞台系のサークルの代表をやっていた経験から、元来頭の切れる人間ではないにせよ、公的な場面で普段通りに話す程度の胆力なら持ち合わせている。

 だというのに、ああしてどこか声が上ずって早口になっているのは、きっとそれまでの()()があったからだろう。

 彼女が話すにつれて、正面の小柄な中年男性の貧乏ゆすりが激しくなっていく。

 ……人事異動によって新しく私の勤め先にやってきた箇所長は社内でも有名なパワーハラスメントの常習犯だった。

 ちょうど、私たち(とは言っても私と〝私〟だが)の前に座っている五〇代くらいで禿頭の男性社員がその人である。

『ウチの会社ってよくも悪くも上層部と平社員のパスが繋がってないんだよな。だから、ああいうのが罷り通るんだよ、〝ヒラメ〟っつうの?』

 嘱託になるのを控えたベテラン社員さんがそんなことを言っていたのを思い出す。

 彼――雑賀(さいが)支店長が勤務した箇所では、()()()()()()()()()()()()()()

 なんらかの理由をこじつけて外部に飛ばされた人間、自ら選んで他箇所へ行くことを選んだ人間、それから――長年勤めた会社を去ることを決意した人間。

 特に女性社員は異動となる比率が高く、彼が前回いた拠点では最終的に男性社員しか残っていなかったそうだ。

 聞くに、一度は訴訟沙汰まで行ったことがあるらしい。伝聞なので、真偽のほどは定かではないものの、実際、彼には機嫌によって他人をコントロールするような()()()があり、日々、思い付きで増やした仕事を無理やり他社員に振っては、逆らえないように感情的な言葉をぶつけて、正社員を含めた支店員全体を怯えさせていた。無類の酒好きで、ことあるごとにお気に入りの支店幹部連中と居酒屋に連れたっては家族サービスの機会を無遠慮に奪うのも見慣れた光景だった。

 アルコール依存者にありがちな癇癪持ち。なんでこんな人が肩書き的には役員レベルの役職まで上り詰めたのか、彼が支店に来たばかりの頃、私は不思議に思ったものだったが、どうにも昔この会社にいた辣腕常務の元お付きだったからというのが理由として大きかったらしい。

『末端が何を言ったって、それを掬い上げる仕組みがこの会社にはない。上から聞こえるのは一個下の階層にいるやつが言ったことだけだ。そもそも見えていないんだよ、「本当は何がそこで起こっていたか」なんて。あれは平沢常務の下についてた人間だから、目上のモンへの口利きだけは上手いからな』

『それでも……会社の役員になるような人たちがそんな一つの意見だけで状況を判断するものでしょうか』

『さてな。ただ、たしかなことはこの会社――異動しないと役職が上がらねえんだよ。しかも、評定がリセットされるから、責任ばっかり増して旨味もない。だから、誰もいないんだ。あんなのでも――後釜がな』

 私は目の前にいる雑賀支店長その人を見る。

 小柄で小太りで、しかし、そんな貫禄のない見た目と裏腹に、声だけはやたらと乱暴でよく通る人だった。

 先ほどからの貧乏ゆすりは予兆に過ぎず、今そうし始めたように机を指先で何度も小突いたら――いよいよ爆発するのだ。

「やっぱ駄目だ。諸岡さん、この派遣、俺を舐めてるよ――」

 たしかスクリーンに映した資料の画面スクロールが思いのほか大きく動いてしまって、支店長が読みたかった部分を一瞬通り過ぎたとか、そんなくだらない理由だったはずだ。

 たかだか、いち技術派遣社員に過ぎなかった〝私〟がこんな罵声を浴びる羽目になったのは。

「支店長に見せる気がないってことか!? これは俺の承認を得る会議だろ!」

 そう言って、雑賀支店長は机を激しく叩きながら立ち上がる。

「無理です。ちょっと煙草吸って頭冷やしてきますわ」

 そのまま彼は会議室を出て行ってしまった。

 残された〝私〟はただ俯いていた。それは悲壮感とも違う。『やっぱりこうなった』――そんな無気力さをたたえた横顔だった。

「――三船さん、このままじゃどうにもならない。多分喫煙所にいるだろうから謝って戻ってきてもらいな」

 そんな他人事みたいな言葉が諸岡マネージャーとなった私の口から出る。

(――そうか、この人はこんな気持ちだったのか)

 私の頭の中に焦燥感と、事なかれ主義にも似た思考が渦巻いている。

『彼女なら上手くやるだろう。私よりはよっぽど……』

 それは信頼とはまた別の――きっと他責思考と呼称すべきものだった。

 マネージャーはきっと自分を騙していた。

 あらゆる判断力が『自分が対応する』という結論から逃れるための言葉を探していた。

 ゆっくりと〝三船真矢〟の首がゆっくりとこちらへ向けられる。

(その先を言わないでくれ――)

 私はそう思った。

「……私、何か間違ったことをしたんでしょうか?」

 これが――〝私〟が他人を……そして自分自身を信じられなくなった一つの理由。

 そこで私の思考は一度ブラックアウトした。


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