あとがき
作品を最後までお読みくださりありがとうございます。
初めましての方は初めまして、そうでない方は毎度!(初めてする挨拶)
どうも、山田奇えと言います。
よければ今後ともごひいきに……。
というわけで、あとがきとなります。
まずは作品を書き始めた経緯なんぞ……。
この作品を書き始めたのは2026/1/14。
一応完結したのが2026/2/15ということなので、自分の中では異例の早さでの作品完結となります。
(てか、ほかの作品全然更新できてない……そもそも完結自体あんまさせたことない……ごめんなさい。。)
書き始めたきっかけというのは、ちょっとした僕の激病みからでした。
今回書いた内容から察して頂けた方もいらっしゃったかもですが、僕は非常にメンタルの不安定な人間で、ことあるごとにダーク・ヤマダへと変貌してしまう、とても厄介なおじさんです。
30代にして現在無職(一応最近就活はしてる)。
そんな立場でふらふらといろんな趣味に手を伸ばし、最近Tで始まる某配信プラットフォームにてゲーム実況まで始める始末。
もうちょっとしっかりしろよ、と自分に言ってやりたい。
そして、そんなことを思っていたら、ちゃんと天罰が降りかかりました。
それ自体は配信を始めた以上、どこにでもあるような出来事というか、避けては通れない道なのかなーと思うので、詳細は省くんですが、ちょっとした評価を頂く機会があったんですね。
そこから抜き出した言葉が以下。
――「無名」。
効きました。
かなり効きました。
だって図星だったから。
ぐうの音も出ないどころか、食らった瞬間に全身ピーンってなって気を失うような、そんな鋭い言葉でした。
そこからはもう本当に周りの方にご迷惑をおかけしました。
もし、ここまで読んでくださった方の中にお知り合いの方がいらっしゃいましたら、改めてお詫びを申し上げます。
さて、ホンットーありがたいことにそういった方々の支えもあってどうにか気を持ち直した山田くんでしたが、彼を待っていたのは「さてここからどうするか……」という考えでした。
自分はあまりにも心が不安定すぎる。
周りの人に恵まれたことは当然幸せなことなんだけど、何かあった時に自分の足で立っていられるような、そんな自分にとっての芯になるものがほしい……。
そんなこんなで、その思いが『樫の木(仮題)』の製作に繋がっていきます。
この作品は率直に申し上げて、自分のために書いた小説です。
中身は(ファンタジー要素こそあれ……)そのほとんどが自分の体験談を元に書かれたものであり、半分自叙伝とも取れるような内容として完成をさせました。
ただ、だからといって、自分のためだけに書いた小説かというとそんなこともありません。
某SNSを見ていると、よく思うことがあります。
「なんか僕みたいな方めちゃくちゃいっぱいいるな」
だから、『樫の木(仮題)』はそんな方たちに届くようにと書いた小説でもありました。
作中でもそんなようなことを書いたのですが、「不幸というほどではない」というのが、僕たちにとっての〝不幸〟なんじゃないかと思います。
自分はそれなりの苦労を背負って生きてきている。
でも、周りにはそれよりも苦労している人たちがいて、自分だけ文句を垂れるのは情けない。
さらに言えば、苦労すら背負うことができないくらいの環境にいる人たちだって世の中にはいるわけで、そんな中で〝不幸なフリ〟をするのはものすごく浅ましい。
そんな考えを続けた結果、避けられない重圧のようなものがいつしか自分の頭だけでなく、体まで圧迫するようになっていて、「さすがにもう吐き出したい」と思ったころにはもう手遅れになっていた。
そんな人生を送ってきたのが僕であり、僕がこの作品を届けたいと思った〝誰か〟でした。
なので、やっぱり受け取る人によっては「なんて贅沢なことを考えているんだコイツは!」なんてことを考えられても仕方ない内容かもしれません……。
なんだったら今でも公開が少し怖いくらい。
というわけで、ここから内容に触れていきます。
この作品のテーマは言わば「許し」です。
なんとなくどこかでよく聞くような言葉というか、実際作中の終盤でそんな感じのロケーションが登場していたというか……。
以前、別作品でも書いたのですが、僕は哲学畑出身の人間です。
大学時代はサークル活動だったり、趣味の執筆活動にうつつを抜かしていたため、どうひっくり返っても真面目に勉学に取り組む学生とは言い難い人間だったのですが、それでもなんとなくそのバックグラウンドに大学を卒業した後でも「哲学」という学問がありました。
今回の作品を書く中で頭に浮かんでいたのは二名の哲学者です。
ハンナ=アレントとニーチェ。
勝手な解釈ですが、自分の中でこの哲学者さんの思想は「許し」というテーマへの大きな関係性を持っているように思います。
「人はどうやって誰かを許すのか」
「人はどうやって誰かに許されるのか」
そんなようなことを考えた時に、真っ先に浮かんだのがこの二名でした。
タイトルにもなっている〝樫の木〟は作中で「強さのモチーフ」として使用したものですが、実はもう一個裏の意味を持っています。
山田が知識・文章力不足で誤解を招かずに書くのが難しいため、詳細は割愛させて頂くのですが、樫の木はドイツ語でEicheと言います。カタカナに直すなら「アイヒ」です。
この二人の名前で調べると似たような音感の関連人物名が出てくると思います。
それで察して頂けると非常にありがたいのですが、「許す」というのは、僕にとって必ずしも「相手を肯定的に捉える」ということではありませんでした。
それはどちらかというと「今ここにいる自分が前へ進むために必要な行為(もちろん人によります)」というような感覚に近いものでした。
生きるっていうのは難しいもので、どうあがいてもそこに「自己批判」というものが付きまといます。
僕みたいな偏屈な人間は特に、です。
それ自体は決して悪いことじゃないというか、自分自身を恥じることで、より善い生き方を模索していけるという意味では、むしろ必要なことのように思います。
ただ……病むんです。まるでどこぞのおじさんのように……。
強い自己批判の結果、さんざん暴走した挙句、最後になって突然病み出す人間……しかも、その辺の冴えないおじさん……厄介すぎる……。(圧倒的自虐)
ともあれ、僕はそこで思いました。
どうすれば、そんな自分自身や自己を批判する精神と上手く付き合っていけるんだろうと。
そこで、たどり着いた結論が「許し」だったわけです。(シンプルだな~)
哲学はあんまりドヤ顔で語るとあらゆる方面から突っ込みを入れられてしまう気難しい学問(でもそんなとこが好き♡)なので、ここでの僕の話は「影響を受けたやつが勝手に考えたこと」って範囲で解釈して頂いて、よければぜひニーチェ自体についてはご自分で調べて頂ければと思うのですが、彼は「それまで人間の生を支えていた価値観」の瓦解について語った人でした。
そして、それは作中で、主人公の母が縋った価値観でもありました。
人間の生を支えるものというのはなんなのでしょう。
もちろん、それは人の数だけ答えがあっていいものだと思います。
ただ、山田はそれを漠然と「愛情」という言葉に還元しています。
昔、とあるフリーホラーゲームにシナリオ担当として携わらせていただいた際に、こんな言葉をキャラクターに言わせたことがあります。
「愛情とは、好きとか嫌いとかを超越して、相手がいなくなったら寂しいと思い思われる、そんな消極的な肯定方式だ」
うーん、カッコつけすぎ。
とにかく、だとすれば、その始まりあるものこそが「許す」という行為なのだと思います。
哲学だと「受容」と「愛情」という言葉は明確に分けられていて……おっとやめとこう。ボロが出そうだ。
さて、人間っていうのはかなり自分勝手な生き物だなーと思います。
この作品で描いた主人公やタグくんのように、誰かとの関係性の中で、人は自分自身の意見を簡単に変えてしまいます。
でも、それが必ずしも「他人の意見に流される」ということではないと思うのは僕だけでしょうか。
融和が必ずしも是ではないにせよ、それがあるいは「他者の価値観を許した結果」なのだとしたら、否定ばかりすべきものでもないように思います。
(その場合、「変えた」というよりも「より深めた」って表現をするべきかもですが……)
どうにもなんでも難しく考えすぎてドツボにハマってしまいがちな僕にとって「愛情」というのはすごく難しい概念です。
でも、目の前のものに対してただ「そこにいていいよ」と思う気持ちなら、簡単そうに思いました。
そんなわけで『樫の木(仮題)』はそんな「愛情の始まり」を描いた物語と相成りました。
自分の経験を元にした作品ではありますが、読んで頂けた方に何か感じ入ってもらえるように書けていたらいいなと思います。
作者自身、書き終えてみて、思いのほかすっきりしています。
「新人賞に出して一発当ててやれば、これから誰に何と言われたって山田も自信喪失すまい……」
なんていうあまりにも浅はかすぎる考えから公募用に書き始めた本作ですが、まさかその内容にこうしてどこか救われたような気持ちになろうとは……。
自分を恥じる山田です。。
そんなわけで末筆となりますが、改めて最後まで『樫の木(仮題)』を読んで頂き、ありがとうございました。
勝手なお願いとなりますが、面白いと思ってくださった方がいらっしゃいましたら、感想等頂けますと非常に嬉しいです。
今後の活動の励みにもなりますので、何卒よろしくお願いいたします。
(ただ、あの、批判もぜひ頂きたいのは頂きたいんですが、やっぱりメンタルのクラス補正がEなので、どうぞお手柔らかにお願いいたします……)




